新海誠監督の新作『君の名は。』を観る。

映像鑑賞
09 /07 2016
新海誠監督の新作『君の名は。』を観てきた。
平日の午前中にも拘わらず、結構なお客さんで6割位席が埋まっていた。パンフレットは売り切れ。
興行的にはかなり上手くいっているような印象。
宮崎駿氏引退でジブリ新作が途絶えた中、細田守、庵野秀明、そして新海誠の3氏が、いわいる「ジャパニメーション」の後継屋台骨として期待されている背景がおぼろげに覗える。

『君の名は。』は前作に比べ、新海アニメらしさが復活し、総じて満足のいく作品だった。
新海誠氏の真骨頂は「鉄道」「天文」「ミリタリー」「無線」「PC」等の古典的少年ロマン趣味の核心的要素の琴線に触れる描写の完成度の高さに尽きる。
前作の『言の葉の庭』は、興業主からの注文でもあったのか、新海氏が描く世界から程遠い「体育会系」の汗臭いストーリーに重心を移していたので、感情移入出来る作品ではなかった。
新作の『君の名は。』も前半は、ややその傾向が残っていて、まどろっこしい部分もあったが、後半は己の「妄想系」にシンクロする出来だった。但し、なぜか今回は「ミリタリー」系の描写だけは巧みに避けられていたのが奇妙だ。
『ガルパン』や『艦これ』に対するアンチテーゼかもしれない。

それはさておき、新海氏の作品には一貫して「遠距離通信」というテーマが潜在している。
『ほしのこえ』では、恒星間メールのやり取りがストーリーの骨組みになっていたし、『雲のむこう、約束の場所』ではワイヤーアンテナを張り巡らした通信傍受施設のシーンがあったし、、『星を追う子ども』では主人公が「鉱石」ラジオで遠距離受信に勤しむエピソードも記憶に残る。
今回もチラッとアマチュア無線施設が出てきたし、ストーリー自体が、アマチュア無線を扱った米映画『オーロラの彼方に』を髣髴とさせる構成だ。
「無線」そのものが主題にはなっている訳ではないが時空を超えたタイムラグを伴う単向信方式で問いかける描写は卓越している。
君の名160906色a
また『君の名は。』は古典的少年ロマン趣味の核心的要素と、その対極にある異性への求愛行動を巫女というアミニズムを憑り代(よりしろ)とした少女に求め、それらを巧みに編みこんで抒情詩的に仕上げている。
数千年の周期で隕石が落下する神聖な土地と、その聖域を伝承する巫女の存在。そして「ある目的」のために時空間を越えて「魂」「意識」だけを憑依させる術。
この作品は一種の「ティアマト彗星経典」ともいえる。
彗星の軌道描写の不自然さを指摘している感想も見られるが、そもそもこの「ティアマト彗星」は物理法則を無視した「何者かにコントロール」された存在なのかもしれない。
あるいはこの彗星は地球の衛星系で小惑星が地球の重力に捕まった物だったとしたら?
また、時空間を越える憑依は、彗星の落下エネルギーを利用して「歴史」を操作する「神儀」であって、それを神に代わって司り、実践するのがヒロインたる巫女であって、そして彗星落下で犠牲になる村人は彗星を操る「神人」への生贄として「神」に奉げられる避けられぬ運命であると。
それらはすべてこの彗星軌道を操っている「偉大なる存在」と、この神聖なる彗星落下地点に住む者との契約なのだ。
では主人公の青年はその「神儀」に干渉し、「神人」に逆らったのか?
あるいは、「神人」の意に反したのは、その実践者たる巫女のほうだったかも知れぬ。
いや、もしかするとその顛末すら彗星を操る「神人」のシナリオそのものだったのかも。

妄想は尽きない。

少なくとも自分にとってこの『君の名は。』の妄想系シンクロ率は高い。
複数回鑑賞して、この「ティアマト彗星経典」を堪能したいと思っている。

余談だが、自分が7月に発刊したコミカライズ作品『ストレンジャー』でも、1998年に飛来した「ヘールボップ彗星」を素材に、宇宙人に憑依されたヒロインを描いている。
あれほど肉眼ではっきり見えた彗星は初めてであり、その衝撃は大きかった。
下のイラストは『ストレンジャー』9話より、久米島の夜に大きくヘールボップ彗星が輝くシーン。
ストレンジャー9話08頁

恐らく新海氏も、あのヘールボップ彗星を直に観て、『君の名は。』発想の源にしたことは想像に難くない。

『シン・ゴジラ』を観る

映像鑑賞
08 /19 2016
雷雨降りしきる中、新宿で庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』を観る。
ネット等で「好評」との声が頻りに耳に入ってしまったので、天邪鬼な自分としてはどうしても穿った観方をしそうで若干鑑賞するタイミングが遅れた感あり。
まず、最初に感じたのは、今年3月、NHKで放映されたNHKスペシャル「原発メルトダウン」。
ドラマの所長役と映画の首相役が同じ俳優だったので、どちらが先かは解らぬが下地は共通なんだと。
総じて今回のゴジラ映画は明らかに東日本大震災と福島第一原発事故を意識している。
原発をゴジラに置き換えているだけだから、ある意味、解りやすい。
冒頭からの流れは庵野作品というより押井守監督の『パトレイバー2』を髣髴とさせる。
当然ながら作っているスタッフも共通するからスタイリッシュなカット割り、構図、BGMは『新世紀エヴァンゲリオン』そのもの。
ゴジラを倒す工程もエヴァの「ヤシマ作戦」だ。
だが、巷の評判程には思い入れて鑑賞することが出来なかった。
その理由は何なのだろう?
『新世紀エヴァンゲリオン』に傾倒した時は、まだこのアニメ作品が大きくヒットする前だった。
人知れず東京12チャンネルで放映されていた時、誰よりも先に「金脈」を発見したごとき戦慄と、当時の世紀末世相、同じ世代の抱える絶望感と同時進行性、そして語り合える稀有な仲間が居た事が大きく影響した。
だが、この『シン・ゴジラ』にはそれがない。
もともと「ゴジラ」映画に然程興味がないというのも理由かもしれない。
「ゴジラ」映画は最初のモノクロ作品以外は、マトモに観た記憶がない。
子供の頃、通過儀礼としてあれほど「ウルトラマンシリーズ」に傾倒したのに、ウルトラセブン以降は、なぜかまったく「怪獣映画」に興味が失せてしまった。
ハリウッド版もまったく知らない。
だから『シン・ゴジラ』を歴代の「ゴジラ」映画として比較評価することも出来ない。
あと、どうしても「実写」としてのリアリズムに何か引っ掛かりがあるのだ。
アニメーションであれば、そのデフォルメ故に妄想も高まるのだが、実写にすればするほど、現実とお芝居の微妙な「誤差」が妄想を拒絶してしまうのだ。特にバイリンガルの女性が出てきた辺りから萎えて来てしまった。
CGレベルも高いし、稚拙な処理もない。だからその点は安心して観れるのだが、実際の俳優が演ずる芝居が、その世界観への没入を閉ざしてしまう。
芸能人や俳優にまったく疎いので、知っている役者も少ない。
特に主人公周りは全然解らない。
役者が無名とか有名とか、そういう問題ではなくして、存在感が希薄なのだ。
国家的存亡を抱える立場にあるのに、何だかその「重さ」が伝わってこない。
立川防災基地辺りのシーンも恐慌状態に近い首都の空気感がまるでないのだ。
別に群集のパニックシーンを多用すればそうなるということではなくて、画面全体から漏れ出す「恐怖」が希薄なのだ。
アニメーションなら一旦描写された絵を透して観る者が「自己補正」出来たりするが、実写だと「いつも見ている風景がそのまま写っている」ので「ああ、あそこでロケしているのだな」で、終わってしまう。

随分前、『ローレライ』という映画を観た事があるが、どうにもしんどかった。湾岸を舞台にした警察ドラマ臭が強すぎて、つまりそういったバイアスのかかった味付けが実写映画の背景にはあって、それを意識する途端に作品の世界観に没入できなくなる。
今回の『シン・ゴジラ』も『ローレライ』ほどではなかったものの、どうしても実写特有の「灰汁」が気になってしまった。

最近、気持ちよく観れる映画は最新作ではなく、1960年代の「社長シリーズ」等の高度成長期華やかなりし頃の大衆映画。
これは恐らくお酒の醸造と同じく、じっくり半世紀近く寝かせたからこそ味わいが出てきたのだろう。
昭和40年代の町並み、テーブルに並ぶバヤリスオレンジ、高度成長的ガンバリでバリバリ働く群衆、スモッグの空。
戦後、アジアで唯一経済的繁栄と文化を謳歌できた優越感、メリハリのある70mmシネラマ極彩色アナログフィルムの色合いなど等、これらが程よく醸造され、まったりとした芳純な香りを放つのである。
半世紀もすれば実写特有の俗な「灰汁」も抜かれ、純粋な作品として鑑賞出来る。
『シン・ゴジラ』は、まだ鑑賞するには早すぎるのかも知れぬ。今のままでは単なる「原酒」状態だ。
俳優が全部鬼籍に入り、立川基地が廃墟になったらきっと楽しめよう。

もうひとつ『シン・ゴジラ』に没入出来なかった大きな要素は、もはや架空の物語の中で「国家存亡の危機」を描いている余裕はもうないのではないかという事。
中国が台頭し、主権が脅かされる今日、「国家的存亡」というのは絵空事ではなくなった。にも拘らず現実は何も対処されていない。
昔、小松左京の「日本沈没」がヒットしたことがあった。
いわいるパニック映画ではあったが東海地震がいつおきてもおかしくない状況で作られたから、「絵空事」で片付けられない不安もあった。
それでも当時は高度成長期。たとえ実際、首都圏に大地震が来たとしてもその強大な経済力で何とかなるんだという根拠のない安心感があった。
だが、今はそれすらない。
あるのは超少子化、人口減少、経済力の衰退、アメリカとの安全保障の不信感、増大する中国の軍事的脅威、それに対処する報復核の供えもなく、アジアで唯一の経済大国という自負も消え、ただ老いに苛まれる日々。
そんな状況で「国家的存亡」を絵空事として映画で鑑賞している場合ではないんじゃないかと。
そんな想いが映画鑑賞中に常に過ぎって、やはり作品に没入することは出来なかった。

『シン・ゴジラ』は純粋に映像処理の水準も高く、普通に観て損はしない映画だと思う。
ただ諸手を挙げて「傑作」だと評価する程の戦慄はなかった。
それはやはり、自分自身の大切なものが脅かされている今、映画鑑賞自体すら余裕のなくなっている己の精神的、経済的、肉体的な環境も左右しているのだろう。


あと、なぜかゴジラが気の毒に思えた。単なる動物虐待にも感じて、こうなると怪獣映画も楽しめない。
これも年取ったせいか。

ドラマは所詮夢物語

映像鑑賞
06 /20 2016
地上波民放TVで放映されていた漫画編集者が主人公のドラマが先日、最終回だった。
特段熱心に観ていた訳でもなく、部分的に掻い摘んだ視聴でしかなかったが、自分の生業を舞台にしたドラマだったのでザッピングするリモコンの手が止まっていた。
老練漫画家は出版社の漫画賞を獲り、新人漫画家は初版5万部で再版出来の大ヒット。元チーフアシスタントだった40代男性も堅気の商売で成功し晴れて結婚。
基本ハッピーエンドな終わり方だった。

だが、漫画家に限らず、大抵のクリエーターはここに至ることはない。
99.9パーセントの者が漫画賞はおろか、人々の記憶にも残らず消えていく。
新人の殆どが初版1万部に達せず、数千部止まりの上に重版もなし。それはまだ良いほうで、途中打ち切りでコミックス化すら到達できぬものが多い。
漫画の世界から足を洗ったからといってまともな就職も間々ならず、40代にして大学生バイトと同じ給料でその日暮らし。結婚など御伽噺・・というのが現実に近い。

この国において、自由業は生きにくい。
基本、今でも新卒採用、終身雇用、専業主婦のための社会構造だから、そこから少しでも外れると「人生の敗北者」になってしまう。
学校教育も従順な集団行動を基準に育成プログラムが組み立てられているから、自由業のような独立独歩での生き方は誰も教えてくれない。
ただひたすら流れに乗せられ、言われるがままに学校へ通い、促されるままに就職活動し、気がつけば飛び込みセールスを強いられる会社で酷使される。
従順で堅実な集団行動処世術に長けた人間だけが最低限の生活を得られる。
それ以外の選択肢は苦痛しか待っていないのが日本社会。
企業の中での営業一兵卒。それが日本のスタンダードな生業なのだ。
滅私奉社の中で、専業主婦を娶り、子を育てる。
それしかまともな生き方が出来ない。
サラリーマンとしての素養がない人間がただ流れに乗せられ、人の言うとおりにやっていると、とんでもないことになる。
自由業という道を選ぶならば、まずこの流れから外れ、すべて自分で考え、自分で決めて、自分で実践しなければならない技を磨かねばならぬ。
ドラマで描かれていた初版5万部で、更に重版がかかった新人漫画家みたいのは空想だ。
確かにそんな大ヒット作家になれば、宣伝、出版、営業、経理、その他諸々の雑務はすべて編集や出版社がやってくれる。
劇中のサイン会も担当がすべてお膳立てし、書店が率先してパネルや宣伝素材を用意してくれる様子が描かれていた。
そう、漫画家を含めた数多のクリエーターは、大ヒットさえすれば、自分の創作に専念出来、それ以外、何もしなくてよい。
煩わしい雑務はすべて会社組織が面倒見てくれるのだ。
それに乗っかっていればよいだけ。それだけで計り知れない収入が保障される。

だがこれは万に一つ、いや億にひとつの空想物語だ。
出版社に依存し、作品だけ描いていられる神に選ばれし「王侯貴族クリエーター」はこの国に同時に10人も居まい。
あとの99.98%のクリエーターがこのような待遇に与ることは決して、ない。
デビューしてある程度の年月、結果が出せなければお払い箱。
それでも漫画家として生きたいのなら、出版社が担ってきた、営業、出版、経理、渉外、宣伝等諸々の「雑務」をすべて自分で取り仕切らなければならぬ。
かつて、このような「雑務」を個人で運用出来る環境は存在し得なかった。
だから、見込みがなくなれば漫画家から足を洗うほか、なかったのだ。
今はWeb環境や自費出版市場の広がりによって、かつてよりは個人レベルで「生き残り」を計れる間口は増えた。
とはいえ、今の日本社会は相変わらず、漫画家が出版社に依存せずに生きていける環境は「ない」に等しい。

だから、もし漫画家他、クリエイティブな世界で末永く生きることを志望するのなら、出来るだけ早く、日本のスタンダードな社会風習や教育からエスケープしなければならない。
大きな組織に依存することを前提とする、その構造の中に浸ってしまえば、もう「自分で考え、自分で作り、自分で売っていく」という意欲もスキルも身につかない。
そのまま大人になって、漫画家を生業と望んでも、数年で行き詰まることとなる。

日本社会は独立独歩で「創作」を生業とする者を保護、育成する環境は一切ない。
あるのは会社人間育成のみ。
だから、ほんの一部の売れっ子クリエーターしか「クリエーター」として生きることは出来ない。
大半は結婚、子を設ける事はおろか、まともな社会生活すら営めない。
これが終身雇用制度が崩壊した今も尚続いているから、超売れっ子以外は非正規雇用やアルバイト、パート、ニート、引きこもりになるしか生きる選択肢はなくなる。
これが現実。

出版社に依存しない漫画家は存在し得るだろうか。
営業、出版、経理、渉外、宣伝等諸々、人を雇う余裕などまずないから、すべて自己負担だ。
作品発表はキンドル等の電子書籍に頼るしかない。少なくとも紙の媒体と比べて経費は掛からない。
しかし、ただアップしただけで売れるものではない。
何かしらの仕掛けで販売促進を図らねばならぬ。動画サイト等で宣伝を仕掛け、何とか電子書籍売り上げを促す。
ネットを宣伝媒体にすれば経済的負担は軽い。しかし効果の程は未知数。
またネガティブな情報も全て自分で処理しなければならぬ。
出版社で執筆していると、ファンレターなども編集部経由で中身を確認された上で作者に渡されていた。
だがそんな安全クッションもなく、すべてダイレクトに本人が被らなければならない。
それら「雑務」を負担しつつ、創作を続けるタフさも必須。
365日、24時間不眠不休でも時間は足りなくなるだろう。
にも拘らず、これで生活を営めるほどの収入が上げられる可能性はとても見込めない。


結局、漫画家というものは全国誌何十万部という印刷媒体に載り続けない限り、生き残ることは難しい。
未だ電子書籍一本で食っている漫画家の話は聞いた事がない。居たとしても極例外事例だろう。

出版社に依存せず、独立独歩で漫画家を続けていくには従来の職業概念を大きく変えて「自分で考え、自分で作り、自分で売っていく」ビジネスモデルを捻り出さなくてはならない。
そのためには、いち早くこの国の画一プロセス環境から逃げ出し、超人的コミュニケーション能力と驚異的執筆速度と強靭な精神力で闘争しなければならないだろう。

ドラマは所詮夢物語だ。



漫画編集者が出てくるドラマのつづき

映像鑑賞
05 /19 2016
先日の夜、22時頃だったか、地上波テレビで漫画編集者と漫画家が出てくるドラマを観た。
恐らく先日視聴した番組の続きだ。
原作物を描かされる新人漫画家と妙にドライな担当編集者との絡みが主な内容だったと思う。
編集者の台詞で「漫画家は道具に過ぎない」みたいなのがあったようななかったような・・。
漫画家の描く作品によって編集者の給料は言うまでもなく、その出版社の利益に直結し、大ヒットすればビルまで建ってしまう。
そう、出版社や編集者にとって、まさに漫画家は儲けや生活のための「道具」であることは否定できない。
一方、漫画家も己の表現物を生業として全国レベルで世に問い、人々に宣教するためには大手出版社や編集者の力を経なければ成し得ない。
つまり、持ちつ持たれつの関係であって、それは漫画に限ることではなく、あらゆるクリエイティブな表現活動において普遍的な関係性であることは論を待たない。
だが、それが「成功」するのは稀有である。
その9割9分は儚く散る。
大ヒットして出版社のビルが建つなんて数百の連載漫画の中の一つか二つだ。
その他大勢死屍累々たる無名漫画家の屍を苗床にしての結果だ。
連載にこぎつけ、単行本を出せれば、まだ良いほう。ましてや重版がかかるなんてかなり恵まれているほうだ。
ドラマでは、なんとか原作物で一本、単行本まで漕ぎ着けて、次の企画も提案されるも、ストレスと重圧で辞退する描写があるが、なんだか違和感を感じる。
「身体を壊してまで出来ない」みたいなニュアンスだったのだが、最初の単行本が原作物とはいえ、重版がかかる位のレベルまで行けば将来の展望は明るい。
そこで辞退する漫画家なんていないだろう。
それに、このモデルとなっている新人漫画家は描くのも早そうだし、臨機応変に対応できるスキルもありそうだ。量産可能であれば臨時にアシスタントだって呼べる。
むしろ編集の注文に素直に応じられるタイプ。
そういう漫画家が重版かかるレベルまで描き上げたのに辞めるか?
必要とされているのに出来ないのであれば、他の仕事をしても多分長続きしない。
要するに編集者との反りが合わないみたいな処を表現したいようなのだろうが、どうにも変。
一方、ここで描かれている編集者は過去にいろいろあって今に至るみたいな設定のようだが、それはさておいても、土日に連絡が取れないのは、まあ当たり前な気がするし、打ち合わせがメールや電話だけというのも別に的確であれば構わないと思う。
むしろ、労働生産性がよい。
これに異議を唱える主人公の女性新人編集者がいるが、寧ろこちらのほうが漫画家としてうざったい気もする。
休日にも漫画家宅を訪れ、アドバイスをする描写があるのだが、それが漫画家にとって望むべき状況を生むのならありがたいのかもしれないが、少なくともドラマ内では連載や単行本化に直接貢献はしていないように感じる。
いくら慰めや褒め言葉を貰っても作品掲載に寄与しなければ意味がなかろう。
この編集者が将来、出世して人脈の一人として援助してくれる可能性はある。そういう意味では大切にしなければならぬが先のことは解らぬ。現時点ではこの時抱えている連載を如何に成功させるかが問題であって、抽象的な励ましを貰っても「じゃああなたが担当になってください」というしかないだろうが、新人漫画家にはそんなことも言えまい。
そもそも漫画家は編集者を選べないのである。
そして編集者もこの漫画家の将来を面倒見る義務はないのだ。
とにかく、まずはどんな形にせよ、ヒットだ。名が売れれば仕事が来る。
名が売れなければ仕事が来ない。
それだけのこと。
己の「妄想」表現に理解ある編集者との出会い、そしてたまたまその「妄想」作品を掲載し続ける環境が整っていた掲載誌と経営状態のよい出版社、そしてその「妄想」に共感しうる読者のニーズ。
これらがすべてシンクロした時が漫画家、編集者、掲載誌、出版社、そして読者みんなが「幸福」になれる。
しかしそんな稀有な事象は万に一つもない。
その万に一つもないチャンスに賭けるしかないのが漫画家という家業なのだ。
漫画家は出版編集にとっては「道具」であって、いくらでも「潰し」が利いて、代わりはいくらでもある。
漫画家が大成するチャンスは少ない。
「次」というものは殆どない。
このドラマで描かれている新人漫画家が重版に至ったにも拘わらず、次の企画から辞退し、同じ編集部の新人編集者に「また作品を見てほしい」なんて場面があるが、それはなかろう。
雑誌編集者がどれくらい漫画専門で居られるのかは解らない。
ただ大手出版社の場合は、恐らく人事異動で直ぐに別の部署に消えてしまうケースが多いのではなかろうか。
いくら気の合う編集者が居たとしても異動したらもうおしまいだ。

自分も30年近く前、大手出版社の雑誌で描いていた事がある。
「打ち合わせのための打ち合わせ」みたいなのがずっと続いてとてもしんどかったし、思い通りの作品は描けなかったが、それでも『コミックモーニング』の巻頭に掲載されたことが数回あった。
今から思えば驚異的に思える。
全国の駅の売店、コンビニ等どこにでも売っている雑誌の巻頭に、それもオールカラーだ。
でも当時の自分にとってはそれが「普通」の事としてしか感じず、「もっと印刷の色が何とかならないのか」と不満にすら思っていた。
今ならもっと良いものが描けたはずと悔やむ作品も多い。赤面すらする。
しかし、時は遡らない。
もう、大手週刊雑誌の巻頭カラーなど望むべくもない。
絶望的な遅筆で月に8ページしか描けず、アシスタントも使えない。このどうしようもない遅筆が更なる飛躍を諦めざるを得ない状況を生む。
「量産至上主義」なしでは、この世界での成就は困難だ。
それでも当時、自分がこの雑誌に描けたのは「オールカラーコミックス」という奇特な企画があったからに他ならない。
タイミングさえ合えば、己の描く世界観が如何にマイナーであってもメジャー雑誌に掲載されるチャンスはあるのだ。
そういう意味では当時の掲載誌にとって自分もこの企画の「道具」に過ぎなかったのかもしれない。
但し、出版社の利益には何の貢献も出来ない「道具」だったが。
しかし、これでいいのだ。
自分の描きたい世界観の10パーセントも出せなかったとしても、数多の読者を得られた事実は絶大だ。
だからこそ、今でも細々ながら漫画家として生きていくことが出来る。
当時の担当さんも実際、相性は必ずしもよいとは言えなかったが10年近くもお世話になった。感謝に堪えない。
因みにその頃の作品は電子書籍で購読する事が出来る。

いずれにしろ、このドラマに描かれている新人女性編集者は、一見漫画家に優しいようでも、頼りがいがない。
ドラマはフィクションなので今後どう展開するのかは知らない。
ただ、実際にこのような編集者が居たとしても、遅かれ早かれ結婚退職して仕事から遠ざかるのが普通だろう。
いくら褒められたとしても、その漫画家の将来の助けにもなってくれそうにないし。
また、エピソードの中に出てきた新人漫画家にしても、あれで辞めるのなら漫画家としての適正がないってことだろう。
だから、唯一、リアリティーを感じたのは漫画家を道具として扱う編集者だけだ。

道具として扱われ、潰れるくらいなら漫画家を志望する資格はない。

『ズートピア』と5月病

映像鑑賞
05 /13 2016
先日、ディズニー作品の新作『ズートピア』を観た。
一言で言ってしまえば、典型的なハリウッド映画の動物アニメ版といったところだろうか。

アクションの連続に繰り返されるどんでん返し。そしてマイノリティーや差別問題を練りこんで、如何にも「アメリカ映画」といった印象。
子供でも大人でも楽しめる構成にはなっていた。
主人公は「この世界」で初の女性警察官を目指す女の子のウサギ。
いわいるマイノリティーかつ女性が「男社会」の職場で立身出世していく様子を主軸にストーリーが展開していくのだが、これで思い出したのは、最近NHKTVでやっていた戦後TV黎明期に異例抜擢され、今やテレビの顔と言われるまでになった女性タレントを描いたドラマと、民放テレビで1回だけ観た若い女性漫画編集者が新人漫画家を発掘し育てるみたいなドラマ。
いずれも要するに「大した功績も知名度も地位もない新米女性が男社会の中で成果を挙げ、認められていく」という流れが描かれている。
こういった作品を垣間見る度に「肝心な世の中の仕掛け」を省いてサクセスストーリーを構成しているもどかしさが心に疼く。

男女問わず「成功者」というものは、必ずそれなりのバックボーンがある。
単に才能やタイミングだけで「夢」というものは現実化しない。
NHKの女性タレント物語のモデルになっている主人公の両親は名立たる交響楽団のコンサートマスターと著名声楽家。更に親族には大マスコミの重役もいる。要するに名家の出なのである。
単に「何百人ものオーディション中から奇特な才能を認められ抜擢」されたのではなく、親族の口利きや縁故採用によって最初から「道は開かれていた」のである。
ただ単に「変わったことをする女子」では相手にされない。
採用する側も「どこの馬の骨かわからない」人物より、素性のはっきりした名家の子女を採用したほうが何かと都合が良い。
だが、自分が観た限りにおいてそのような縁故採用の描写はどこにもなかった。
もうひとつの民放ドラマでやっていた女性新人漫画編集者の話も耐え難い構成だった。
原作も読んでいないし、断片的なエピソードを数十分観ただけなので作品全体のテーマは解らない。
ただ自分の観た回だけで鑑みれば、やっかいな編集者だなと思う。
新人漫画家の才能は認めておきながら、絵コンテのダメ出しを繰り返し、いつ掲載されるか解らない対応をしている描写があったのだが、漫画家は己の作品を世に放ってこそ漫画家としての第一歩を記す事ができる。
抽象的な評価に振り回されて、いつ作品が雑誌に載るのか解らないというのは漫画家にとって一番不安。
そんな編集者が担当になったらそれこそ不幸だ。
ライバルの編集者が出てきて批判する場面があったが言い得て妙なセルフもある。
新人漫画家のデビューを遅らせて漫画家への道を躊躇させ、他の選択肢のチャンスすら奪っていると。
編集者は出社すれば給料が出るが、漫画家は雑誌に掲載され単行本化されなければ商売にならない。
とにもかくにもまず掲載されて読者の評価を仰ぐしかないのだ。
そのチャンスを先延ばしにして「君には才能があるから」だけの言葉を返されても、漫画家志望としてはたまったものではない。
感想をもらいに編集部に通っているのではない。作品掲載の是非を問うために出版社を訪ねているのだ。
要するにこの女性新人編集者には力がないのである。
人脈や実績があればすぐにでも有望な新人漫画家をデビューさせられよう。
それができないのはそういったバックボーンがないからである。
もし、この女性編集者の親や親族が大手出版社の経営者や重役で縁故採用であったならば何なく己の願望を現実化出来よう。
重役の子息の提案であれば編集長も逆らえまい。この担当についた新人漫画家もめでたくデビューし、大切に扱われよう。
何事も力あるバックボーンなくしては夢は体現できない。

「5月病」といわれるものがある。今は死語になっているかは知らない。
希望と夢に心を弾ませて入社したものの、非人間的な扱いを強いる新人研修で心をぼろぼろにされて逃げ出したくなったり、絶望に陥る病だと記憶する。
しかし、それは当たり前なのだ。
何の有力な地位も縁故もバックボーンも人並みはずれな驚異的才能や技能を持ち合わせていない者に「理想や希望」は待っていない。
いつの世も一兵卒は使い捨ての鉄砲玉だ。
新人研修は新社会人の脳を空っぽにし、会社人間として洗脳するためにある。大声を出させるのは「神は偉大なり」と叫んで自爆するテロリストと同じ。
思考停止に陥らせ、会社のためなら命を投げ捨てても厭わないロボトミーを生産することにある。
そんな「社畜」として飼われたとしても、結婚し妻子を養う、あるいは正社員の夫に専業主婦として嫁ぎ、子を産み育てればそれなりの幸せが待っていた。
己の思考を停止させ、会社や家庭第一に奉ずること。
『ズートピア』でも主人公の相棒、詐欺師のキツネが諭したように、夢破れ、結局は田舎に帰って親の後を継ぎ、しがない人参売りで生涯を終えるのが関の山なのだ。
人生はミュージカルのようにはならない。それでも結婚相手がみつかり、子供でも出来ればそこそこ幸せなんだと。
そう、しかしこの日本ではそんな「そこそこの幸せ」すら望めない。
いつしかその終身雇用や専業主婦すら稀有な特権階級の「幸せ」となりつつある。
終身雇用も専業主婦の道すら期待できないのに、それを生産するための「ロボトミー研修」だけ強いられる現実。
入社後すぐの離職率が高いのも頷ける。

夢を叶えるのは己の親族や血統がそれなりの有力者でなければ為し得ない。
それをしっかりと諭すことなく、根拠のない希望だけを煽るドラマや漫画、アニメは逆に深い絶望を与えるだけだ。
今日も「5月病」に苛みながら街を徘徊する社会人1年生がいる。
でもそれは仕方ない事。
宿命として諦めるしかない。士農工商は今でも日本社会に根付いている。
地位なき者に夢は与えられない。
ウサギ女子が夢を叶えるのはアニメ世界だけの話なのだ。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/