アニメ映画『ソングオブザシー海のうた』を観る

映像鑑賞
10 /10 2016
先日、阿佐ヶ谷のミニシアター「ユジク」で上映されたアイルランドのアニメ映画『ソングオブザシー海のうた』を観る。
2014年に制作された作品。
チラシを見ただけだと1970年代っぽく、そのリバイバル上映かと思ったが、ごく最近の作品であることを知る。
制作から2年経ってやっと日本でもミニシアター系のみでロードショーが始まったようだ。
アカデミー賞のアニメ部門にもノミネートされるほどの作品にも拘わらず、あまり話題にならなかったのはなぜなのだろう?
ヨーロッパ系の長編アニメ自体、珍しく、興行的な期待が薄かったのだろうか?理由はよくわからない。
(これ以降はネタばれあり)
内容はアイルランド神話をベースに現代を舞台とした兄妹が繰り広げる冒険物語。
日本やアメリカ製のアニメに慣れ親しんだ目から見ると非常に新鮮。
絵本風のデフォルメされたキャラクターや背景画が美しく、興味深い。
フォーマットの絵柄は70年代っぽいが最新のCGを取り入れているので古さと新しさの融合がよい効果を醸し出している。
どことなく、近年のジブリ作品を髣髴とさせるイメージが通り過ぎるが、そもそも東映動画からジブリに至る名作系アニメの原点は欧米の御伽噺や神話アニメを素材にしている場合も多く、ネタが廻りめぐっているだけのこと。
むしろ本家は欧州にある訳で、この作品こそジブリの原点に戻っているのである。
舞台が現代のアイルランド港町風。
普段、日本で生活しているとアイルランドの町並みなど殆ど知ることはない。
古い町並みが維持されてはいるけれど、送電鉄塔や路線バス、そして森林に不法投棄されたテレビなど、今風の世情も描かれていて面白い。また、ハロウィン行事も今尚廃れずに維持されている国柄も内容に反映されている。

この作品ではセルキーというアイルランド神話に登場する神話上の架空生物(妖精)がテーマの下地になっている。
海ではアザラシの姿だが陸に上がると衣を脱ぎ捨てて人間の姿になるとか。
その衣を廻ってストーリーが進む。
日本での羽衣神話に近いか?
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結局、主人公の兄妹よりもセルキーの妻に去られたその父親の生き様に心が揺さぶられた。
海や天に還るのは、洋の東西を問わず、決まって妻や彼女である。
男が天界や海に帰ってしまう例はあまり聞かない。
結局、女は海であり、天であり、すべてを取り込み、男を翻弄する存在なのだろう。
男は必死になって女が聖地に還るのを阻止しようとするが、結局すべては徒労に終わるという結末は揺るがない。
男は常に地上に残される存在なのだ。
一応ハッピーエンドのお話であったが、やはり残された男の悲哀がヒシヒシと感じられる作品であった。

「描く!」マンガ展に赴く

映像鑑賞
09 /25 2016
先日、川崎市民ミュージアムで開催されている「描く!」マンガ展に赴いた。
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武蔵小杉駅からバスで10分ほどか。
規模は思ったよりも大きかった。てっきり「ゴルゴ13」を「よつばと」の作者がパロディーにしたイラストが数点展示されているだけだと思っていた。
考えてみればそんな企画だけで展示会する訳がない。
時代を象徴する漫画家の原画が歴代順に展示されていた。田中圭一氏による描写研究の解説文も興味深い。
場内は一部を除いて撮影も可能。
失敗したのは眼鏡。
外出用の遠景専用の眼鏡しか持ってこなかったので、観賞にちょうどよい距離での焦点が合わない。老眼が進んで近くのものが霞むのだ。
だからといって眼鏡を取ると、もともと近視なので今度は逆に5センチ位に近づかないとすべてぼやける。
極端から極端。
そもそも漫画原稿は原則B4サイズで一般の絵画と比べるとかなり小さい。
また印刷を前提としているので、修正とか、アタリとかあって、実は汚い。
昔は印刷が終わったら破棄されたり、読者プレゼントで切り刻まれたりと、基本「使い捨て」であった。
雑誌印刷も荒いので、漫画原稿は必要最小限のシンプルなタッチが原則。
だから、歴代著名作家の漫画原稿は意外と淡白でさらっと処理した線で構成されている。
印刷で飛んだり、潰れそうな細かい描写は殆どない。そんな丁寧に描いても時間を食う上に誌面には再現されないから誰もやらない。
一見、細かそうに見える諸星大二郎の原画も、実はかなりラフ。
量産が絶対条件のプロ漫画家にとって無駄な労力は皆極力省いているのだ。だから第一線で描き続けることが出来る。
自分のような印刷度返しで、原画観賞前提の描き方をしている漫画家は、こういうところには出て来れない。
大いなる矛盾。
それにしても、最近の複製原画はよく出来ている。
本物の原画との見分け方は、写植の紙の有無である。古い原稿は糊が退化して写植が剥がれて黄色くなっている。
今後、原稿制作がデジタル化されると、もう紙原稿を原画で観賞するという趣もなくなってしまうのだろうか。
ジャパンコンテンツが市民権を得て、公共の美術館でも比較的集客が見込める漫画原稿展示の機会が増えてきそうな予感もする。
余談だが、1970~80年代の学漫を紹介するコーナーに’79年発行の『ぱふ』全国まんが同人誌地図号の68P~69Pが見開きで展示されていた。
この4P後位に学漫時代の自分の作品が紹介されていたのを思い出した。
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37年前か。
この本は今でも部屋にある。
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歳を重ねたせいか、やたら最近は過去のことを振り返るようになった。

偶像不在の神話SFアニメ『君の名は。』

映像鑑賞
09 /17 2016
新海誠監督『君の名は。』が累計観客数500万人突破とかで大ヒット中だとか。
これほどまでにメジャーになってしまうと、自分ごときが敢えてブログにコメントするまでもなくなってしまう。

十数年前、アニメ雑誌の付録CDで『ほしのこえ』予告編その他映像を観て以来、新海作品が自分の創作源泉と不思議なほど近い作家と感じることもあり、注目してきたが、ここまでのヒット作品になってしまうと、新海氏云々より、世の中のほうがどうかしているんじゃないかとすら思う程。
興行的なことは「漫画の手帖」72号の「あびゅうきょ妄言通信」というコラム記事に寄稿したので読んで頂ければ幸い。

さて人気云々は別としても、この『君の名は。』は久しぶりに己の妄想琴線に触れる映画。
繰り返し観たいと思った劇場アニメ映画は最初の劇場版『エヴァ』以来かもしれない。
これはもしかすると『宇宙戦艦ヤマト』、『未来少年コナン』、『新世紀エヴァンゲリオン』に継ぐ、己の中の第4のレジェンドアニメになる可能性も含んできた。
ただ、主題歌は世代が離れすぎなのか、馴染めない。

それはさておき、『君の名は。』は今のところ2回観たのだが、先日のブログで記した感想に加えて、自分なりの印象を少し別の視点で述べてみたい。
新海氏の前作長編『星を追う子ども』は、どちらかというと宮崎駿のジブリ作品を意識した構成に感じたが、今回はどちらかというと、庵野秀明氏の『新世紀エヴァンゲリオン』『不思議の島のナディア』や『ラーゼフォン』、『地球少女アルジュナ』等の前世紀末辺りに作られた神話を基とするSFアニメをどことなく意識させる。
1000年周期の彗星落下は、神話にに基づく地球外文明の存在を示唆するし、その痕跡は『エヴァ』の使徒攻撃を連想させる。
そして三葉の時空を超えた憑依はアルジュナの有吉 樹奈の存在感にも似る。
更には、湖の中には地球外文明の恒星間宇宙戦艦が眠っているのではないかとか、焼けたお宮の書物は実はその異星人の存在が書かれていたとか、三葉の家系はその異星人の王家の末裔で超常能力を扱える家系だったとか、さらには瀧も離れ離れになった王家末裔の一人で、だから三葉と入れ替わりが可能だったとか。
そして彗星落下は彼らと敵対する異星人の長周期的弾道攻撃であったとか、いろいろ推測出来るのである。
つまり設定としては『エヴァ』の「人型汎用兵器」や「使徒」、『ナディア』の発掘戦艦やアトランティス人の末裔、更には「地球少女アルジュナ」のような戦う少女が出てきても何ら不思議ではないし、むしろ存在が不可欠な構成となっている。

ところが『君の名は。』には、その肝心なものが一切描かれていない。
つまり、この作品は神話SFそのものなのにも拘わらず、象徴的な「偶像」が不在なのだ。
その上、劇中ではこれら「神話」と憶測される部分の説明は一切なされない。湖の由来も三葉の末裔も観客の想像にお任せなのである。従来あった湖が彗星落下が原因なんてことすら誰も発言していないのだ。
もしかして裏設定はあったのかも知れぬが、少なくとも本編には出てきていないと記憶する。
更に意図的な彗星落下が予見されているのにクライマックスになるはずの迎撃戦シーンすらない。

経典も偶像もなく、だが主人公たちは、明らかに得体の知れぬ「神の力」に近いもので結ばれていく。
その「神」の存在を完全に伏せつつ、風景だけでそれを示唆させる構成力は見事だ。

そう、偶像を描く必要は最初からなかったのである。
なぜなら新海誠の描く風景こそ、八百万の神そのものなのだから。
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新海誠監督の新作『君の名は。』を観る。

映像鑑賞
09 /07 2016
新海誠監督の新作『君の名は。』を観てきた。
平日の午前中にも拘わらず、結構なお客さんで6割位席が埋まっていた。パンフレットは売り切れ。
興行的にはかなり上手くいっているような印象。
宮崎駿氏引退でジブリ新作が途絶えた中、細田守、庵野秀明、そして新海誠の3氏が、いわいる「ジャパニメーション」の後継屋台骨として期待されている背景がおぼろげに覗える。

『君の名は。』は前作に比べ、新海アニメらしさが復活し、総じて満足のいく作品だった。
新海誠氏の真骨頂は「鉄道」「天文」「ミリタリー」「無線」「PC」等の古典的少年ロマン趣味の核心的要素の琴線に触れる描写の完成度の高さに尽きる。
前作の『言の葉の庭』は、興業主からの注文でもあったのか、新海氏が描く世界から程遠い「体育会系」の汗臭いストーリーに重心を移していたので、感情移入出来る作品ではなかった。
新作の『君の名は。』も前半は、ややその傾向が残っていて、まどろっこしい部分もあったが、後半は己の「妄想系」にシンクロする出来だった。但し、なぜか今回は「ミリタリー」系の描写だけは巧みに避けられていたのが奇妙だ。
『ガルパン』や『艦これ』に対するアンチテーゼかもしれない。

それはさておき、新海氏の作品には一貫して「遠距離通信」というテーマが潜在している。
『ほしのこえ』では、恒星間メールのやり取りがストーリーの骨組みになっていたし、『雲のむこう、約束の場所』ではワイヤーアンテナを張り巡らした通信傍受施設のシーンがあったし、、『星を追う子ども』では主人公が「鉱石」ラジオで遠距離受信に勤しむエピソードも記憶に残る。
今回もチラッとアマチュア無線施設が出てきたし、ストーリー自体が、アマチュア無線を扱った米映画『オーロラの彼方に』を髣髴とさせる構成だ。
「無線」そのものが主題にはなっている訳ではないが時空を超えたタイムラグを伴う単向信方式で問いかける描写は卓越している。
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また『君の名は。』は古典的少年ロマン趣味の核心的要素と、その対極にある異性への求愛行動を巫女というアミニズムを憑り代(よりしろ)とした少女に求め、それらを巧みに編みこんで抒情詩的に仕上げている。
数千年の周期で隕石が落下する神聖な土地と、その聖域を伝承する巫女の存在。そして「ある目的」のために時空間を越えて「魂」「意識」だけを憑依させる術。
この作品は一種の「ティアマト彗星経典」ともいえる。
彗星の軌道描写の不自然さを指摘している感想も見られるが、そもそもこの「ティアマト彗星」は物理法則を無視した「何者かにコントロール」された存在なのかもしれない。
あるいはこの彗星は地球の衛星系で小惑星が地球の重力に捕まった物だったとしたら?
また、時空間を越える憑依は、彗星の落下エネルギーを利用して「歴史」を操作する「神儀」であって、それを神に代わって司り、実践するのがヒロインたる巫女であって、そして彗星落下で犠牲になる村人は彗星を操る「神人」への生贄として「神」に奉げられる避けられぬ運命であると。
それらはすべてこの彗星軌道を操っている「偉大なる存在」と、この神聖なる彗星落下地点に住む者との契約なのだ。
では主人公の青年はその「神儀」に干渉し、「神人」に逆らったのか?
あるいは、「神人」の意に反したのは、その実践者たる巫女のほうだったかも知れぬ。
いや、もしかするとその顛末すら彗星を操る「神人」のシナリオそのものだったのかも。

妄想は尽きない。

少なくとも自分にとってこの『君の名は。』の妄想系シンクロ率は高い。
複数回鑑賞して、この「ティアマト彗星経典」を堪能したいと思っている。

余談だが、自分が7月に発刊したコミカライズ作品『ストレンジャー』でも、1998年に飛来した「ヘールボップ彗星」を素材に、宇宙人に憑依されたヒロインを描いている。
あれほど肉眼ではっきり見えた彗星は初めてであり、その衝撃は大きかった。
下のイラストは『ストレンジャー』9話より、久米島の夜に大きくヘールボップ彗星が輝くシーン。
ストレンジャー9話08頁

恐らく新海氏も、あのヘールボップ彗星を直に観て、『君の名は。』発想の源にしたことは想像に難くない。

『シン・ゴジラ』を観る

映像鑑賞
08 /19 2016
雷雨降りしきる中、新宿で庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』を観る。
ネット等で「好評」との声が頻りに耳に入ってしまったので、天邪鬼な自分としてはどうしても穿った観方をしそうで若干鑑賞するタイミングが遅れた感あり。
まず、最初に感じたのは、今年3月、NHKで放映されたNHKスペシャル「原発メルトダウン」。
ドラマの所長役と映画の首相役が同じ俳優だったので、どちらが先かは解らぬが下地は共通なんだと。
総じて今回のゴジラ映画は明らかに東日本大震災と福島第一原発事故を意識している。
原発をゴジラに置き換えているだけだから、ある意味、解りやすい。
冒頭からの流れは庵野作品というより押井守監督の『パトレイバー2』を髣髴とさせる。
当然ながら作っているスタッフも共通するからスタイリッシュなカット割り、構図、BGMは『新世紀エヴァンゲリオン』そのもの。
ゴジラを倒す工程もエヴァの「ヤシマ作戦」だ。
だが、巷の評判程には思い入れて鑑賞することが出来なかった。
その理由は何なのだろう?
『新世紀エヴァンゲリオン』に傾倒した時は、まだこのアニメ作品が大きくヒットする前だった。
人知れず東京12チャンネルで放映されていた時、誰よりも先に「金脈」を発見したごとき戦慄と、当時の世紀末世相、同じ世代の抱える絶望感と同時進行性、そして語り合える稀有な仲間が居た事が大きく影響した。
だが、この『シン・ゴジラ』にはそれがない。
もともと「ゴジラ」映画に然程興味がないというのも理由かもしれない。
「ゴジラ」映画は最初のモノクロ作品以外は、マトモに観た記憶がない。
子供の頃、通過儀礼としてあれほど「ウルトラマンシリーズ」に傾倒したのに、ウルトラセブン以降は、なぜかまったく「怪獣映画」に興味が失せてしまった。
ハリウッド版もまったく知らない。
だから『シン・ゴジラ』を歴代の「ゴジラ」映画として比較評価することも出来ない。
あと、どうしても「実写」としてのリアリズムに何か引っ掛かりがあるのだ。
アニメーションであれば、そのデフォルメ故に妄想も高まるのだが、実写にすればするほど、現実とお芝居の微妙な「誤差」が妄想を拒絶してしまうのだ。特にバイリンガルの女性が出てきた辺りから萎えて来てしまった。
CGレベルも高いし、稚拙な処理もない。だからその点は安心して観れるのだが、実際の俳優が演ずる芝居が、その世界観への没入を閉ざしてしまう。
芸能人や俳優にまったく疎いので、知っている役者も少ない。
特に主人公周りは全然解らない。
役者が無名とか有名とか、そういう問題ではなくして、存在感が希薄なのだ。
国家的存亡を抱える立場にあるのに、何だかその「重さ」が伝わってこない。
立川防災基地辺りのシーンも恐慌状態に近い首都の空気感がまるでないのだ。
別に群集のパニックシーンを多用すればそうなるということではなくて、画面全体から漏れ出す「恐怖」が希薄なのだ。
アニメーションなら一旦描写された絵を透して観る者が「自己補正」出来たりするが、実写だと「いつも見ている風景がそのまま写っている」ので「ああ、あそこでロケしているのだな」で、終わってしまう。

随分前、『ローレライ』という映画を観た事があるが、どうにもしんどかった。湾岸を舞台にした警察ドラマ臭が強すぎて、つまりそういったバイアスのかかった味付けが実写映画の背景にはあって、それを意識する途端に作品の世界観に没入できなくなる。
今回の『シン・ゴジラ』も『ローレライ』ほどではなかったものの、どうしても実写特有の「灰汁」が気になってしまった。

最近、気持ちよく観れる映画は最新作ではなく、1960年代の「社長シリーズ」等の高度成長期華やかなりし頃の大衆映画。
これは恐らくお酒の醸造と同じく、じっくり半世紀近く寝かせたからこそ味わいが出てきたのだろう。
昭和40年代の町並み、テーブルに並ぶバヤリスオレンジ、高度成長的ガンバリでバリバリ働く群衆、スモッグの空。
戦後、アジアで唯一経済的繁栄と文化を謳歌できた優越感、メリハリのある70mmシネラマ極彩色アナログフィルムの色合いなど等、これらが程よく醸造され、まったりとした芳純な香りを放つのである。
半世紀もすれば実写特有の俗な「灰汁」も抜かれ、純粋な作品として鑑賞出来る。
『シン・ゴジラ』は、まだ鑑賞するには早すぎるのかも知れぬ。今のままでは単なる「原酒」状態だ。
俳優が全部鬼籍に入り、立川基地が廃墟になったらきっと楽しめよう。

もうひとつ『シン・ゴジラ』に没入出来なかった大きな要素は、もはや架空の物語の中で「国家存亡の危機」を描いている余裕はもうないのではないかという事。
中国が台頭し、主権が脅かされる今日、「国家的存亡」というのは絵空事ではなくなった。にも拘らず現実は何も対処されていない。
昔、小松左京の「日本沈没」がヒットしたことがあった。
いわいるパニック映画ではあったが東海地震がいつおきてもおかしくない状況で作られたから、「絵空事」で片付けられない不安もあった。
それでも当時は高度成長期。たとえ実際、首都圏に大地震が来たとしてもその強大な経済力で何とかなるんだという根拠のない安心感があった。
だが、今はそれすらない。
あるのは超少子化、人口減少、経済力の衰退、アメリカとの安全保障の不信感、増大する中国の軍事的脅威、それに対処する報復核の供えもなく、アジアで唯一の経済大国という自負も消え、ただ老いに苛まれる日々。
そんな状況で「国家的存亡」を絵空事として映画で鑑賞している場合ではないんじゃないかと。
そんな想いが映画鑑賞中に常に過ぎって、やはり作品に没入することは出来なかった。

『シン・ゴジラ』は純粋に映像処理の水準も高く、普通に観て損はしない映画だと思う。
ただ諸手を挙げて「傑作」だと評価する程の戦慄はなかった。
それはやはり、自分自身の大切なものが脅かされている今、映画鑑賞自体すら余裕のなくなっている己の精神的、経済的、肉体的な環境も左右しているのだろう。


あと、なぜかゴジラが気の毒に思えた。単なる動物虐待にも感じて、こうなると怪獣映画も楽しめない。
これも年取ったせいか。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/