「キューポラのある街」と「キャンディーズ」解散

日常
02 /08 2010
1962年製作の日本映画「キューポラのある街」をたまたまBSで観た。
吉永小百合がブレイクした代表作。
これを最初に見たのは、中学校での上映会だった。当時、通っていた中学には映画好きの教師が居て「教育の一環」として体育館に全校生徒を集め、何回か上映会を開いていた。大抵の映画は「反戦」とか「人権」とか、まあ当時の先鋭的思想に準じた作品ばかりだったような記憶がある。
で、そこで最初にこの「キューポラのある街」を観た感想は?というと、主人公の吉永小百合演ずるジュンという中学生が、不良に乱暴されそうになるシーンがあって、子供ながらに「こんなの中学校で上映していいのか?」と心配になった事位で、話の内容とかはあんまり頭に残らなかった。
精々「貧乏くさいのはいやだなあ」と、まあその程度の理解力しかなかった。

今、改めて観るに、まずこの映画に限らず1960年代前半の日本映画に描かれた当時の日本の風景、町並みの映像がとてつもなく貴重に感じるのだ。
あの時代の「空気」すべてを真空パックに保存しているかのごとく、観れば観るほど素晴らしい記録だ。
汚いどぶ川、畑と文化住宅が混在した市街地、鉄道、バス、3輪トラック、服装、ジャイアンツの帽子、看板、そのすべてが「文化遺産」レベルの映像である。それを観るだけでもタイムトラベルしているような感覚に捉われる。
そして、その奥行きある風景と当時の泥臭くて汚くて乏しい日本人の生き様が何ともいえぬ味を醸し出す。
その巨大な泥団子がごろごろと否応なく未来へ転がろうとする1960年代の魂がこれでもかこれでもかと訴えかけてくる。凄まじい程の圧力で。
北朝鮮集団帰国のシーンも当時の「理想」を疑いもなく無邪気に描いており、このピュアな感覚は爽快ですらある。
規制だらけの今日では決して表現することの出来ないリアリティーがこの映画には存在する。

そして主人公、吉永小百合は今見てもなお理想的美少女として、その地位を揺るぐことがない。
半世紀の間、まったく色褪せていないのは驚異すら抱く。AKB48と比べてもその凛々しさには足元にも及ばない。
そうだ。吉永小百合演ずるジュンの健気な姿は、宮崎駿が描くヒロインとどこか似ている。その世界観と共に宮崎アニメと吉永小百合は深層領域でリンクしているのだ。
余談だが、ジュンの服装はなぜかヒトラーユーゲントの制服を連想させるのだが何故だろう。

それはさておき、ジュンは戦後昭和女性のスタンダードな生き方を象徴した存在でもある。
彼女は「強い女」だ。
「強い女」といってもフェミニズムが標榜した類のものではない。
己の欲を捨て、家族に殉じる。進学よりも家族を重んじる精神。
その忍耐力が真の強さである。
かくあるべき、模範的少女像、それがジュンだ。
彼女の生き様は特殊ではない。むしろ1960年代前半においてはごく当たり前の姿だ。
そしてこのジュンこそ、高度成長期に入らんとする日本を代表する「普通の女の子」の原点だった。


「普通の女の子」・・・。
これで思い出すのは、1978年に、アイドルグループ「キャンディーズ」の解散騒動である。
メンバーは「普通の女の子に戻りたい」と叫んで芸能人としての地位も名誉もかなぐり捨ててしまった。
彼女たちにとってそんなものはただの負担である。
芸能人としての「栄光」よりも日本女子として不可欠なものがあると彼女たちは悟っていた。
彼女たちが目指したものは普遍的最終就職先、すなわち「専業主婦」だった。
戦後昭和女子にとって何よりも最強な地位が「専業主婦」であって、それ以外の選択肢は考えられなかった。
例え芸能人として大成功を収めようとも、それは昭和女子にとって何の価値もない。
「専業主婦」こそが人生のゴールであり、唯一の「強い女」が生きていける領域だった。
実際、彼女たちが「専業主婦」になったかどうかは知らない。
だが少なくとも己の職を辞した後には、表舞台から去り、代わりに結婚という「最終就職先」に人生のスタンスをシフトさせたかったことだけは間違いあるまい。

さて、女性に「普通の女の子」の生き方があるとすれば、男性にも同様のスタイルがあってしかるべきだ。
では、昭和男子における「普通の男の子」とはなにか?
それは「終身雇用」の仕事に就くことに他ならない。
戦後昭和男子もまた、学校を卒業すればすべてを捨て去って直ちに就職し、会社に滅私奉社し、妻を娶って子を設け、死ぬまでその身を家庭と会社に捧げるという選択肢しかなかった。
それが唯一「強い男」への道だった。
最強たる「専業主婦」を目指す女子が最強の「終身雇用」男子に嫁ぎ、家庭を築く。その結果、日本は奇跡的にも比類稀に見る経済大国の地位を確保するに至る。
吉永小百合演ずるジュンは、戦後昭和高度成長の銃後を守る「専業主婦」の模範であり、その尖兵としてのジャンヌダルクであったと断定しても過言ではあるまい。
すべては彼女から始まり、彼女で終わるのである。

それから半世紀近く、2010年日本。
高度成長を戦い抜いた模範的モデルである「普通の女の子」も「普通の男の子」も、もはや何処を探しても見当たらない。
今、アイドルが「普通の女の子」になりたいが故に芸能人を辞する状況を想像出来るだろうか?
否。
かつてのジュンたちは年老い、生産人口世代から次々に引退している。
もはやスタンダードな生き方は曖昧となって、何を持って「普通」となすのか誰も解らない。
「専業主婦」も「終身雇用」もほんの一部の特権階級にしか与えられない稀有なものとなった今、富は偏り、歪な貧富の差が露骨化してきた。
大学卒業しても半数近くが就職できず、3人に一人が終生独身のまま。
もはや「普通」にすらなれない「弱弱しい愚衆の群れ」が、2010年の日本の姿である。
まもなく、国民総生産も中国に抜かれ、唯一の取り柄であった経済すら2流に零落れよう。凋落の一途を辿る日本にかつての栄光は甦らない。
こうして「キューポラのある街」は廃墟となってこの地上から消え去る。
1960年代の、あの汚らしくて猥雑な混沌の中で蠢いていたエネルギーはこの半世紀の間にすべて昇華され、その魂の燃えカスはもはや風前の灯火。
町並みは当時と比べ物にならぬくらい清潔で安全になったが、その実態は活気も覇気も若い息吹も欠落した老人だらけのサナトリウムに過ぎない。
人影の薄いシャッター通りに、所狭しと設置される監視カメラ。
いったい、誰を守り、誰を見張っているのか?
それすら誰にもわからない。
ただ、これだけははっきり言える。
キューポラの代わりに林立するマンションは「普通の女の子、男の子」の巨大な墓標であることを。

もし、2010年の「キューポラのある街」、いや「かつてキューポラがあった街」をジュンが観たら何というのだろうか?
もしかするとこれこそがジュンの目指した理想郷、「地上の楽園」の姿なのかもしれないが。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/