キャンプとカレーライス
日常
桜も散り終わり、次第に新緑の季節に移行し始めた。
どうでもよい話。
公営放送で、生意気な3Dバーチャル5歳女児の司会で進行するお笑いクイズ番組。
ゲストに本日のお題を質問し、外れれば「ぼうっといきてんじゃねーよ」と罵倒し、当たれば「つまんねえ奴」と軽蔑する性格の悪い5歳女児がなぜ公営放送の番組司会を担当出来るのか、理解しがたい。
この差別主義者を容認する姿勢が認められるならば、巨乳娘漫画の全面広告など造作もあるまい。
それはさておき、この差別主義者5歳バーチャル女児の番組で先日、「キャンプに何故カレーライスか」というお題があった。
答えは、戦後GHQが男女の健全な関係を構築するための手段として普及させたと。
それを昭和高度成長期に画一的サラリーマン育成と家庭教育シミュレーションの場としてキャンプという集団生活において共同意識を目覚めさせ、役割分担や序列を確かめ合うためにカレーライスは最適な料理として奨励されたという。
自分にとっては最悪である。
思い起こせば、昭和40年代の小中学生時代。
学校行事で「青年の家」とかに行って強制的にやらされたキャンプファイアー。
そして全学年百人単位のフォークダンス。
己の夢想の中に浸っているのが唯一の安らぎだった自分にとってこんなことを楽しく思えたり、ましてや男女仲が良くなるきっかけに出来る瞬間などただの1ナノ秒もなかった。
嫌で嫌で仕方なかった。
クラスメートの大半は従順に適応して楽しくやっているのに合わせるのも嫌で嫌で仕方なかった。
コミュニケーション能力もゼロパーセントに近かったので異性との会話など一切なし。
集団での役割分担も心底嫌だったので隅っこでアリの巣を突く位が関の山。
先生、リーダー役、クラスメイトの9割方から「役立たず」と馬鹿にされ、居場所もなく、とにかくこんな時間さっさと終われと願うばかり。
自分は全ての役割分担から逃げていたから共同で作ったカレーライスも旨くもなんともない。食欲も湧かず殆ど手も付けなかった。
夜のキャンプファイアーも欠席。
周りが楽しそうにしていればしているほど神経に触った。
体調を崩し独り寝ていると、クラスメートの女子集団がネチネチと自分を馬鹿にする小言を浴びせかけてきて陰湿に攻撃してきた。
どこが健全な男女関係を育成する場だ?ただの地獄じゃないか。
このようなシステムで集団の中の立ち位置、順列に組み入れられたらたまったものではない。
この「儀式」で行き着くところは最下層の「使い走り」、「鉄砲玉」、「笑いもの」、「ゴミ」という役割が関の山。
10歳にしてこのシステムを迎合指導する教師、リーダー、クラスメートは自分の「敵」だと悟った。
だから義務教育が終わってからは絶対にこのシステムに組み込まれてなるものかと心に誓ったのである。
それ以降、共同生活に携わる一切の役割分担には加担しないように生きてきた。
大方の人生における通過儀礼も避けた。
世間一般に組み込まれたところで、自分にとってはすべてが「貧乏くじ」でしかなかった。
つまり、集団キャンプにおける「カレーライス」は忌むべき存在だったのである。
半世紀後、還暦を過ぎた現在、ソロキャンプを嗜む自分が居る。
誰からも指示、強制されずに自分の意思で自然と対峙できる場。
それがソロキャンプ。
同じキャンプでも雲泥の差だ。180度違う。
ヨットで太平洋単独横断した堀江謙一氏の著書の中で「孤立」と「孤独」は違うと記されていたのを思い出す。
幼い頃の集団キャンプでは「孤立」だったが、大人のソロキャンプでは「孤独」。
「孤独」のほうが断然性に合う。
集団キャンプで偉そうに振舞う教師、マウントを取って悦に浸るリーダー、その他大勢のむかつくクラスメート、女子にちやほやされるモテ男子、集団で陰湿に馬鹿にしてくる女子グループすべてが存在しなくなると、キャンプというものがこんなに楽しいものだったのかと還暦過ぎてやっと気が付いたのである。
あの不味くて口にするのも嫌だった集団キャンプでのカレーライスが、ソロキャンプでは極上の御馳走になる。
周りにあるものは「人」ではなく「自然」である。
「自然」は人を指図しない。
順列も付けない。
「人」の中で「孤立」に藻掻く位なら、「自然」の中で「孤独」に過ごすほうが余程ましだ。
だがもう若い日々は戻ってこない。
幼少の頃を無駄な時間に費やしたことが悔やまれる。

気付いた時にはいつも遅すぎるのだ。
どうでもよい話。
公営放送で、生意気な3Dバーチャル5歳女児の司会で進行するお笑いクイズ番組。
ゲストに本日のお題を質問し、外れれば「ぼうっといきてんじゃねーよ」と罵倒し、当たれば「つまんねえ奴」と軽蔑する性格の悪い5歳女児がなぜ公営放送の番組司会を担当出来るのか、理解しがたい。
この差別主義者を容認する姿勢が認められるならば、巨乳娘漫画の全面広告など造作もあるまい。
それはさておき、この差別主義者5歳バーチャル女児の番組で先日、「キャンプに何故カレーライスか」というお題があった。
答えは、戦後GHQが男女の健全な関係を構築するための手段として普及させたと。
それを昭和高度成長期に画一的サラリーマン育成と家庭教育シミュレーションの場としてキャンプという集団生活において共同意識を目覚めさせ、役割分担や序列を確かめ合うためにカレーライスは最適な料理として奨励されたという。
自分にとっては最悪である。
思い起こせば、昭和40年代の小中学生時代。
学校行事で「青年の家」とかに行って強制的にやらされたキャンプファイアー。
そして全学年百人単位のフォークダンス。
己の夢想の中に浸っているのが唯一の安らぎだった自分にとってこんなことを楽しく思えたり、ましてや男女仲が良くなるきっかけに出来る瞬間などただの1ナノ秒もなかった。
嫌で嫌で仕方なかった。
クラスメートの大半は従順に適応して楽しくやっているのに合わせるのも嫌で嫌で仕方なかった。
コミュニケーション能力もゼロパーセントに近かったので異性との会話など一切なし。
集団での役割分担も心底嫌だったので隅っこでアリの巣を突く位が関の山。
先生、リーダー役、クラスメイトの9割方から「役立たず」と馬鹿にされ、居場所もなく、とにかくこんな時間さっさと終われと願うばかり。
自分は全ての役割分担から逃げていたから共同で作ったカレーライスも旨くもなんともない。食欲も湧かず殆ど手も付けなかった。
夜のキャンプファイアーも欠席。
周りが楽しそうにしていればしているほど神経に触った。
体調を崩し独り寝ていると、クラスメートの女子集団がネチネチと自分を馬鹿にする小言を浴びせかけてきて陰湿に攻撃してきた。
どこが健全な男女関係を育成する場だ?ただの地獄じゃないか。
このようなシステムで集団の中の立ち位置、順列に組み入れられたらたまったものではない。
この「儀式」で行き着くところは最下層の「使い走り」、「鉄砲玉」、「笑いもの」、「ゴミ」という役割が関の山。
10歳にしてこのシステムを迎合指導する教師、リーダー、クラスメートは自分の「敵」だと悟った。
だから義務教育が終わってからは絶対にこのシステムに組み込まれてなるものかと心に誓ったのである。
それ以降、共同生活に携わる一切の役割分担には加担しないように生きてきた。
大方の人生における通過儀礼も避けた。
世間一般に組み込まれたところで、自分にとってはすべてが「貧乏くじ」でしかなかった。
つまり、集団キャンプにおける「カレーライス」は忌むべき存在だったのである。
半世紀後、還暦を過ぎた現在、ソロキャンプを嗜む自分が居る。
誰からも指示、強制されずに自分の意思で自然と対峙できる場。
それがソロキャンプ。
同じキャンプでも雲泥の差だ。180度違う。
ヨットで太平洋単独横断した堀江謙一氏の著書の中で「孤立」と「孤独」は違うと記されていたのを思い出す。
幼い頃の集団キャンプでは「孤立」だったが、大人のソロキャンプでは「孤独」。
「孤独」のほうが断然性に合う。
集団キャンプで偉そうに振舞う教師、マウントを取って悦に浸るリーダー、その他大勢のむかつくクラスメート、女子にちやほやされるモテ男子、集団で陰湿に馬鹿にしてくる女子グループすべてが存在しなくなると、キャンプというものがこんなに楽しいものだったのかと還暦過ぎてやっと気が付いたのである。
あの不味くて口にするのも嫌だった集団キャンプでのカレーライスが、ソロキャンプでは極上の御馳走になる。
周りにあるものは「人」ではなく「自然」である。
「自然」は人を指図しない。
順列も付けない。
「人」の中で「孤立」に藻掻く位なら、「自然」の中で「孤独」に過ごすほうが余程ましだ。
だがもう若い日々は戻ってこない。
幼少の頃を無駄な時間に費やしたことが悔やまれる。

気付いた時にはいつも遅すぎるのだ。