細田守監督最新作『竜とそばかすの姫』を観る【ネタばれあり】
映像鑑賞
細田守監督最新作『竜とそばかすの姫』を観る。
最近、気になる作品は出来るだけ情報が漏れる前に早めに観る事に努める。
この日は公開初日。
映画館は座席の間隔をあけて営業しているので必然的に半分位の席しか埋まらない。
これもコロナ文革原理主義文化芸術破壊活動の犠牲の一つだ。

さて本編の感想(ネタばれありなので未読の方は注意)。
総じてサイバー空間シーンは映像も綺麗で見ごたえがあり、没入することも出来た。
主人公アバターのキャラクターや唄う楽曲も動きも素晴らしくて琴線に触れる。
CGもここまで進化するともう圧倒的というしかない。
しかし、現実世界を扱った部分は正直うんざりして興覚め。
細田監督の前作品にしろ、新海誠監督の『天気の子』にしろ、庵野秀明監督の最新エヴァ作品にしろ、なぜに現実世界のマイノリティー社会事情をジャーナリズム的に絡めるのか全く理解に苦しむ。
これで全てが台無しになる。
ジャパニメーションの神髄は空想世界におけるリアリティーだ。
例えば宮崎駿監督全盛期の『未来少年コナン』は2008年最終戦争後のディストピアを舞台にハイハーバーとインダストリアを両極陣営とした架空の世界観を実に本物らしく、リアリティーに溢れた緻密な設定で構成。
観る者をどんどんその物語に引きずり込んだ。
『天空の城ラピュタ』然り、『風の谷のナウシカ』然り。
それは庵野監督『新世紀エヴァンゲリオン』旧TV版旧劇場版でも同様。
現実世界とはまったく切り離して、独立した空想世界でのリアリティーの追求あってこそ血沸き肉躍る高揚感や感動を生む。
ところが昨今の細田、新海、庵野等各レジェンド監督が製作する作品群にはその純粋な空想世界のリアリティーがない。
それに代わって現実世界でのイデオロギーバイアスの掛かった社会問題を「上から目線」で説教風に絡める要素を例外なく紐付けさせはじめた。
そのせいで作品に没入できないし、途中で白けてしまうのだ。
今回の『竜とそばかすの姫』にしても、複雑な家庭内事情や親のあり方、若者の人間関係など、昨今の偏向メディアが食い付きそうな社会問題を無理やり鑑賞者に「擦り付けて」くるから何か自己啓発セミナーのビデオを見せられるような気持ちになる。
それは新海誠監督の『天気の子』も同様だったし、庵野秀明監督のラストエヴァでも「家族の在り方」「偏向フェミニズム肯定」云々というものを露骨に問題提起してきて嫌だった。
それも同じバイアスかかったベクトルで。
いったいこれは何なのだ?
そういう偏ったバイアス要素を絡めなければ新しい作品を作らせてもらえないのだろうか?
基本的に昔のATG映画のような「貧乏自慢」、「不幸自慢」のようなカビ臭い要素が僅かでも匂わせる要素が入ると、もう生理的に受け付けない体質。
一種のアレルギー反応が出て、もう鑑賞物として観れないのだ。
だからこの『竜とそばかすの姫』にしても仮想空間パートだけが鑑賞に耐えれた。
仮想空間パートだけであれば感情移入も出来て2次創作「薄い本」のひとつでも作ってみようかという気持ちも高まったかもしれぬが、現実世界パートで興覚めしてしまうので総じて残念な作品という感想しかない。
イケメンのアドバイスが正しく、暴力親は断罪すべしというバイアスも鼻にかかっていらいらする。
所詮背伸びしたとて精々暴力親が関の山(現実には結婚も出来ず親にすらなれない絶望独身男性)の「ダメ人間」を全否定すれば、めでたしみたいな構成も偏向メディアやフェミファシズムの意向に媚びており、特定の人間の人格否定みたいで受け入れがたい。
映画鑑賞とは現実世界の鬱陶しい柵(しがらみ)や有象無象を一切忘れ、夢の空想世界に浸る事に最大の意義かある。
それをわざわざ映画館にまで赴いて現実世界の抗えないネガティブな現実を見せ付けられねばならないのか?
これではどこにも逃げ場がないではないか!
何故に鑑賞者の人格否定、反省を促すような説教パートを執拗に入れるのか?
理解し難い。
空想世界パートだけだったらそんな嫌な思いもせずにいられたのに。
昨今のレジェンド監督アニメにはつくづく失望させられる。
こうして今日も人格否定された心の傷を抱えつつ、がっくりと首を垂れて蒸し暑いどんよりとした夜の街をとぼとぼ帰るのだった。
嗚呼、絶望。
最近、気になる作品は出来るだけ情報が漏れる前に早めに観る事に努める。
この日は公開初日。
映画館は座席の間隔をあけて営業しているので必然的に半分位の席しか埋まらない。
これもコロナ文革原理主義文化芸術破壊活動の犠牲の一つだ。

さて本編の感想(ネタばれありなので未読の方は注意)。
総じてサイバー空間シーンは映像も綺麗で見ごたえがあり、没入することも出来た。
主人公アバターのキャラクターや唄う楽曲も動きも素晴らしくて琴線に触れる。
CGもここまで進化するともう圧倒的というしかない。
しかし、現実世界を扱った部分は正直うんざりして興覚め。
細田監督の前作品にしろ、新海誠監督の『天気の子』にしろ、庵野秀明監督の最新エヴァ作品にしろ、なぜに現実世界のマイノリティー社会事情をジャーナリズム的に絡めるのか全く理解に苦しむ。
これで全てが台無しになる。
ジャパニメーションの神髄は空想世界におけるリアリティーだ。
例えば宮崎駿監督全盛期の『未来少年コナン』は2008年最終戦争後のディストピアを舞台にハイハーバーとインダストリアを両極陣営とした架空の世界観を実に本物らしく、リアリティーに溢れた緻密な設定で構成。
観る者をどんどんその物語に引きずり込んだ。
『天空の城ラピュタ』然り、『風の谷のナウシカ』然り。
それは庵野監督『新世紀エヴァンゲリオン』旧TV版旧劇場版でも同様。
現実世界とはまったく切り離して、独立した空想世界でのリアリティーの追求あってこそ血沸き肉躍る高揚感や感動を生む。
ところが昨今の細田、新海、庵野等各レジェンド監督が製作する作品群にはその純粋な空想世界のリアリティーがない。
それに代わって現実世界でのイデオロギーバイアスの掛かった社会問題を「上から目線」で説教風に絡める要素を例外なく紐付けさせはじめた。
そのせいで作品に没入できないし、途中で白けてしまうのだ。
今回の『竜とそばかすの姫』にしても、複雑な家庭内事情や親のあり方、若者の人間関係など、昨今の偏向メディアが食い付きそうな社会問題を無理やり鑑賞者に「擦り付けて」くるから何か自己啓発セミナーのビデオを見せられるような気持ちになる。
それは新海誠監督の『天気の子』も同様だったし、庵野秀明監督のラストエヴァでも「家族の在り方」「偏向フェミニズム肯定」云々というものを露骨に問題提起してきて嫌だった。
それも同じバイアスかかったベクトルで。
いったいこれは何なのだ?
そういう偏ったバイアス要素を絡めなければ新しい作品を作らせてもらえないのだろうか?
基本的に昔のATG映画のような「貧乏自慢」、「不幸自慢」のようなカビ臭い要素が僅かでも匂わせる要素が入ると、もう生理的に受け付けない体質。
一種のアレルギー反応が出て、もう鑑賞物として観れないのだ。
だからこの『竜とそばかすの姫』にしても仮想空間パートだけが鑑賞に耐えれた。
仮想空間パートだけであれば感情移入も出来て2次創作「薄い本」のひとつでも作ってみようかという気持ちも高まったかもしれぬが、現実世界パートで興覚めしてしまうので総じて残念な作品という感想しかない。
イケメンのアドバイスが正しく、暴力親は断罪すべしというバイアスも鼻にかかっていらいらする。
所詮背伸びしたとて精々暴力親が関の山(現実には結婚も出来ず親にすらなれない絶望独身男性)の「ダメ人間」を全否定すれば、めでたしみたいな構成も偏向メディアやフェミファシズムの意向に媚びており、特定の人間の人格否定みたいで受け入れがたい。
映画鑑賞とは現実世界の鬱陶しい柵(しがらみ)や有象無象を一切忘れ、夢の空想世界に浸る事に最大の意義かある。
それをわざわざ映画館にまで赴いて現実世界の抗えないネガティブな現実を見せ付けられねばならないのか?
これではどこにも逃げ場がないではないか!
何故に鑑賞者の人格否定、反省を促すような説教パートを執拗に入れるのか?
理解し難い。
空想世界パートだけだったらそんな嫌な思いもせずにいられたのに。
昨今のレジェンド監督アニメにはつくづく失望させられる。
こうして今日も人格否定された心の傷を抱えつつ、がっくりと首を垂れて蒸し暑いどんよりとした夜の街をとぼとぼ帰るのだった。
嗚呼、絶望。