「脱走兵」となる新人諸君への祝辞
日常
人、人、人・・。
4月。新年度。
ただでさえ人の波に曝されてまっすぐ歩くこともできぬ新宿駅構内。
そこに新入社員らしきスーツ姿の一団が加わり、カオス度が更に高まる。
この世のものとは思えぬ光景だ。
駅の窓口には長蛇のスーツ姿の列。
「はて?お盆でも暮れでもないのに?」と訝っていると、はたと気が付く。
彼らは通勤用の定期券を購入しているのだ。
世界で最も乗降客が多いと噂される新宿駅。そのピークが新年度シーズン。更に花見の外国人観光客も混じっているからもうアリの巣をひっくり返した状態。
今、自分は人類史上最も人口密度の高い空間を彷徨していると思うと感無量の狂気に襲われる。
このシーズンになると新卒新入社員の群れを見る度に息苦しく、耐え切れなくなってその恐怖を回避するために言葉を吐露せずにはいられなくなる。
己を棄て、会社という組織の歯車として生きる新卒はいわば召集令状を受け取った一兵卒。
会社のために滅私奉社して最終的に命を投げうる存在。
スーツという非実用的「鎧」を身に纏い、地獄のような通勤電車で会社に通い、己を押し殺して従順さを競う組織で耐えに耐え、それを24時間、365日ずっと強いていく。
月月火火木金金。
それがいわいる社会人であって、その社会人たる日常に疑いを抱いてはいけない。
最近は表面上、労働条件が緩和されているように思えるが、この新宿駅の雑踏を見る限り、滅私奉社の一兵卒たる新入社員の有り様は昔と寸分と変わらぬ。
もし根本的に変わってきているというのなら、もうスーツなど着ないだろうし、地獄のような通勤電車にも乗らない。
一同揃った得体の知れないパフォーマンスで新人を欺く入社式なども開かれまい。
なぜならこれらは全て、著しく労働生産性を悪化させている「儀式」に他ならないからだ。
スーツも、すし詰め電車に揺られる時間も、入社式の不毛なスピーチも建設的要素は一切ない。
にも拘らず企業がこれらの「儀式」に固執するのは新人に帰属意識の植え付けと従順さを競わせることが出来るからだ。
日本社会では会社に従順であればあるほど「優秀な会社員」として評価される。
優れた能力など一兵卒には必要ない。
ただひたすら従順にスーツを着て、従順に満員電車に揺られ、従順に上司に頭を下げていれば、終身雇用が成り立つ。
そういう人間を作り出すために、義務教育を含めた6・3・3制があるのだ。
そしてそのコースから外れた人間に、日本社会でまともに生きていく場所はない。
自分はその純粋培養生簀でまったく適応出来ない人間だったので、この時期の新入社員の群れを見ると生理的に拒否反応が出てしまう。
一種のアレルギーだ。
花粉症はないが、リクルート拒絶症が出てしんどい。
しかし、薬屋に行ってもそれ用の薬はどこも処方してくれない。
スーツはもう生涯着たいとは思わないし、満員電車の狂気に比べれば大抵のものはマトモに感じるし、人に指示するのもされるのも心底嫌だ。その上、コミュニケーション能力ゼロの人間がサラリーマンになれるはずもない。
リクルート活動は地獄でしかなかった。
わざわざ、己の最も苦手で生理的に受け付けない世界に飛び込んでいくようなもの。
小学校6年間、中学3年間、高校3年間、大学4年間通って、求人は自動車のセールスマン採用枠ぐらい。
なんで16年間勉学させられた挙句、車のセールスなんだ?
もっとも自分に向かない営業職しか求人票に並ばない現実。
当然やる気ゼロだから採用されるはずもないし、採用されたいとも思わなかった。
みんなが行くから仕方なく嫌々通った学校16年間。そしてみんなが行くから仕方なく行った就職活動。
ここではたと気がついた。
「逃げよう!こんなところに自分の生きる場所はない。だまされていたんだ!」と。
自分は最初から脱走兵みたいなものだった。
だがそれでよかった。いや、それ以外にどうしようもなかったのだ。
「こんな不毛なエコノミックアニマル戦争で一兵卒の鉄砲玉になんかされてたまるか!」とね。
逃げて逃げて逃げまくってやる。
これが己の人生指標となった。
今、自分の同輩で就職した者は、その息子娘が大学を卒業し、社会人として巣立っている。
遅かれ早かれ孫が生まれることだろう。
「一兵卒」として立派に戦い、結婚、出産、子育てという「戦役」を経て、その成果が己の遺伝子を残すという「勲章」を得たのだ。
しかし「脱走兵」には当然、そんな「栄光」は齎されない。
何も残せず、ただ、年老い朽ちていくだけ。
脱走兵の大半は朽ち果て、この世から忘れ去られ、消えていく。
それでも滅私奉社の一兵卒になる位なら死んだほうがましという信念は今でも変わっていない。
なぜならそんな会社組織の中で自分の居場所などないだろうし、遅かれ早かれ放り出されるのは火を見るよりも明らか。
結局は同じような人生を歩むのだ。
少年時代の大半は「嫌なこと」ばかりだった。
そして「嫌なこと」を経た挙句、一兵卒として鉄砲玉にされる「悪夢」のような日本サラリーマン世界。
今から思えば小学校4年位で「サラリーマン一兵卒」コースから離脱し、自分に適した生き方が学べる場があればと思う。
しかし日本社会には、今も昔もそんな多様な選択肢はない。
ひたすら滅私奉社の「サラリーマン一兵卒」学科という「人生ゲーム」に乗せられるだけ。
昭和の頃はそれでよかったかもしれないが、この期に及んでまだ続けている。
だからこの国は欧米列強はおろか、北東アジア各国の後塵を拝するほど零落れてしまったのかもしれない。
にも拘らず、それでも尚、根本的な教育職業制度を見直す様子はない。
これが滅び行く国の姿なのなら仕方あるまい。
諦めが肝心である。
今年も数多の新人諸君が「滅私奉社」に耐え切れず、脱走兵となる。
しかし、脱走しても行く場はない。
金持ち世襲や貴族出は縁故入社で最初から「士官」扱いだから苦労もない。
奇特な能力のある者はとっくの遠に、自立して起業するか海外で活躍の場を得ているだろう。
底底の者は一兵卒として適応し生きていくしかないのだ。
そして、そのいずれでもない者が、脱走兵として世の中の底辺を彷徨わねばならない。
その行く末は悲惨だ。
それでも逃げるしかないのなら、逃げて逃げて逃げまくるのだ。
それもまた、人生なのである。
4月。新年度。
ただでさえ人の波に曝されてまっすぐ歩くこともできぬ新宿駅構内。
そこに新入社員らしきスーツ姿の一団が加わり、カオス度が更に高まる。
この世のものとは思えぬ光景だ。
駅の窓口には長蛇のスーツ姿の列。
「はて?お盆でも暮れでもないのに?」と訝っていると、はたと気が付く。
彼らは通勤用の定期券を購入しているのだ。
世界で最も乗降客が多いと噂される新宿駅。そのピークが新年度シーズン。更に花見の外国人観光客も混じっているからもうアリの巣をひっくり返した状態。
今、自分は人類史上最も人口密度の高い空間を彷徨していると思うと感無量の狂気に襲われる。
このシーズンになると新卒新入社員の群れを見る度に息苦しく、耐え切れなくなってその恐怖を回避するために言葉を吐露せずにはいられなくなる。
己を棄て、会社という組織の歯車として生きる新卒はいわば召集令状を受け取った一兵卒。
会社のために滅私奉社して最終的に命を投げうる存在。
スーツという非実用的「鎧」を身に纏い、地獄のような通勤電車で会社に通い、己を押し殺して従順さを競う組織で耐えに耐え、それを24時間、365日ずっと強いていく。
月月火火木金金。
それがいわいる社会人であって、その社会人たる日常に疑いを抱いてはいけない。
最近は表面上、労働条件が緩和されているように思えるが、この新宿駅の雑踏を見る限り、滅私奉社の一兵卒たる新入社員の有り様は昔と寸分と変わらぬ。
もし根本的に変わってきているというのなら、もうスーツなど着ないだろうし、地獄のような通勤電車にも乗らない。
一同揃った得体の知れないパフォーマンスで新人を欺く入社式なども開かれまい。
なぜならこれらは全て、著しく労働生産性を悪化させている「儀式」に他ならないからだ。
スーツも、すし詰め電車に揺られる時間も、入社式の不毛なスピーチも建設的要素は一切ない。
にも拘らず企業がこれらの「儀式」に固執するのは新人に帰属意識の植え付けと従順さを競わせることが出来るからだ。
日本社会では会社に従順であればあるほど「優秀な会社員」として評価される。
優れた能力など一兵卒には必要ない。
ただひたすら従順にスーツを着て、従順に満員電車に揺られ、従順に上司に頭を下げていれば、終身雇用が成り立つ。
そういう人間を作り出すために、義務教育を含めた6・3・3制があるのだ。
そしてそのコースから外れた人間に、日本社会でまともに生きていく場所はない。
自分はその純粋培養生簀でまったく適応出来ない人間だったので、この時期の新入社員の群れを見ると生理的に拒否反応が出てしまう。
一種のアレルギーだ。
花粉症はないが、リクルート拒絶症が出てしんどい。
しかし、薬屋に行ってもそれ用の薬はどこも処方してくれない。
スーツはもう生涯着たいとは思わないし、満員電車の狂気に比べれば大抵のものはマトモに感じるし、人に指示するのもされるのも心底嫌だ。その上、コミュニケーション能力ゼロの人間がサラリーマンになれるはずもない。
リクルート活動は地獄でしかなかった。
わざわざ、己の最も苦手で生理的に受け付けない世界に飛び込んでいくようなもの。
小学校6年間、中学3年間、高校3年間、大学4年間通って、求人は自動車のセールスマン採用枠ぐらい。
なんで16年間勉学させられた挙句、車のセールスなんだ?
もっとも自分に向かない営業職しか求人票に並ばない現実。
当然やる気ゼロだから採用されるはずもないし、採用されたいとも思わなかった。
みんなが行くから仕方なく嫌々通った学校16年間。そしてみんなが行くから仕方なく行った就職活動。
ここではたと気がついた。
「逃げよう!こんなところに自分の生きる場所はない。だまされていたんだ!」と。
自分は最初から脱走兵みたいなものだった。
だがそれでよかった。いや、それ以外にどうしようもなかったのだ。
「こんな不毛なエコノミックアニマル戦争で一兵卒の鉄砲玉になんかされてたまるか!」とね。
逃げて逃げて逃げまくってやる。
これが己の人生指標となった。
今、自分の同輩で就職した者は、その息子娘が大学を卒業し、社会人として巣立っている。
遅かれ早かれ孫が生まれることだろう。
「一兵卒」として立派に戦い、結婚、出産、子育てという「戦役」を経て、その成果が己の遺伝子を残すという「勲章」を得たのだ。
しかし「脱走兵」には当然、そんな「栄光」は齎されない。
何も残せず、ただ、年老い朽ちていくだけ。
脱走兵の大半は朽ち果て、この世から忘れ去られ、消えていく。
それでも滅私奉社の一兵卒になる位なら死んだほうがましという信念は今でも変わっていない。
なぜならそんな会社組織の中で自分の居場所などないだろうし、遅かれ早かれ放り出されるのは火を見るよりも明らか。
結局は同じような人生を歩むのだ。
少年時代の大半は「嫌なこと」ばかりだった。
そして「嫌なこと」を経た挙句、一兵卒として鉄砲玉にされる「悪夢」のような日本サラリーマン世界。
今から思えば小学校4年位で「サラリーマン一兵卒」コースから離脱し、自分に適した生き方が学べる場があればと思う。
しかし日本社会には、今も昔もそんな多様な選択肢はない。
ひたすら滅私奉社の「サラリーマン一兵卒」学科という「人生ゲーム」に乗せられるだけ。
昭和の頃はそれでよかったかもしれないが、この期に及んでまだ続けている。
だからこの国は欧米列強はおろか、北東アジア各国の後塵を拝するほど零落れてしまったのかもしれない。
にも拘らず、それでも尚、根本的な教育職業制度を見直す様子はない。
これが滅び行く国の姿なのなら仕方あるまい。
諦めが肝心である。
今年も数多の新人諸君が「滅私奉社」に耐え切れず、脱走兵となる。
しかし、脱走しても行く場はない。
金持ち世襲や貴族出は縁故入社で最初から「士官」扱いだから苦労もない。
奇特な能力のある者はとっくの遠に、自立して起業するか海外で活躍の場を得ているだろう。
底底の者は一兵卒として適応し生きていくしかないのだ。
そして、そのいずれでもない者が、脱走兵として世の中の底辺を彷徨わねばならない。
その行く末は悲惨だ。
それでも逃げるしかないのなら、逃げて逃げて逃げまくるのだ。
それもまた、人生なのである。