『シン・ゴジラ』を観る
映像鑑賞
雷雨降りしきる中、新宿で庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』を観る。
ネット等で「好評」との声が頻りに耳に入ってしまったので、天邪鬼な自分としてはどうしても穿った観方をしそうで若干鑑賞するタイミングが遅れた感あり。
まず、最初に感じたのは、今年3月、NHKで放映されたNHKスペシャル「原発メルトダウン」。
ドラマの所長役と映画の首相役が同じ俳優だったので、どちらが先かは解らぬが下地は共通なんだと。
総じて今回のゴジラ映画は明らかに東日本大震災と福島第一原発事故を意識している。
原発をゴジラに置き換えているだけだから、ある意味、解りやすい。
冒頭からの流れは庵野作品というより押井守監督の『パトレイバー2』を髣髴とさせる。
当然ながら作っているスタッフも共通するからスタイリッシュなカット割り、構図、BGMは『新世紀エヴァンゲリオン』そのもの。
ゴジラを倒す工程もエヴァの「ヤシマ作戦」だ。
だが、巷の評判程には思い入れて鑑賞することが出来なかった。
その理由は何なのだろう?
『新世紀エヴァンゲリオン』に傾倒した時は、まだこのアニメ作品が大きくヒットする前だった。
人知れず東京12チャンネルで放映されていた時、誰よりも先に「金脈」を発見したごとき戦慄と、当時の世紀末世相、同じ世代の抱える絶望感と同時進行性、そして語り合える稀有な仲間が居た事が大きく影響した。
だが、この『シン・ゴジラ』にはそれがない。
もともと「ゴジラ」映画に然程興味がないというのも理由かもしれない。
「ゴジラ」映画は最初のモノクロ作品以外は、マトモに観た記憶がない。
子供の頃、通過儀礼としてあれほど「ウルトラマンシリーズ」に傾倒したのに、ウルトラセブン以降は、なぜかまったく「怪獣映画」に興味が失せてしまった。
ハリウッド版もまったく知らない。
だから『シン・ゴジラ』を歴代の「ゴジラ」映画として比較評価することも出来ない。
あと、どうしても「実写」としてのリアリズムに何か引っ掛かりがあるのだ。
アニメーションであれば、そのデフォルメ故に妄想も高まるのだが、実写にすればするほど、現実とお芝居の微妙な「誤差」が妄想を拒絶してしまうのだ。特にバイリンガルの女性が出てきた辺りから萎えて来てしまった。
CGレベルも高いし、稚拙な処理もない。だからその点は安心して観れるのだが、実際の俳優が演ずる芝居が、その世界観への没入を閉ざしてしまう。
芸能人や俳優にまったく疎いので、知っている役者も少ない。
特に主人公周りは全然解らない。
役者が無名とか有名とか、そういう問題ではなくして、存在感が希薄なのだ。
国家的存亡を抱える立場にあるのに、何だかその「重さ」が伝わってこない。
立川防災基地辺りのシーンも恐慌状態に近い首都の空気感がまるでないのだ。
別に群集のパニックシーンを多用すればそうなるということではなくて、画面全体から漏れ出す「恐怖」が希薄なのだ。
アニメーションなら一旦描写された絵を透して観る者が「自己補正」出来たりするが、実写だと「いつも見ている風景がそのまま写っている」ので「ああ、あそこでロケしているのだな」で、終わってしまう。
随分前、『ローレライ』という映画を観た事があるが、どうにもしんどかった。湾岸を舞台にした警察ドラマ臭が強すぎて、つまりそういったバイアスのかかった味付けが実写映画の背景にはあって、それを意識する途端に作品の世界観に没入できなくなる。
今回の『シン・ゴジラ』も『ローレライ』ほどではなかったものの、どうしても実写特有の「灰汁」が気になってしまった。
最近、気持ちよく観れる映画は最新作ではなく、1960年代の「社長シリーズ」等の高度成長期華やかなりし頃の大衆映画。
これは恐らくお酒の醸造と同じく、じっくり半世紀近く寝かせたからこそ味わいが出てきたのだろう。
昭和40年代の町並み、テーブルに並ぶバヤリスオレンジ、高度成長的ガンバリでバリバリ働く群衆、スモッグの空。
戦後、アジアで唯一経済的繁栄と文化を謳歌できた優越感、メリハリのある70mmシネラマ極彩色アナログフィルムの色合いなど等、これらが程よく醸造され、まったりとした芳純な香りを放つのである。
半世紀もすれば実写特有の俗な「灰汁」も抜かれ、純粋な作品として鑑賞出来る。
『シン・ゴジラ』は、まだ鑑賞するには早すぎるのかも知れぬ。今のままでは単なる「原酒」状態だ。
俳優が全部鬼籍に入り、立川基地が廃墟になったらきっと楽しめよう。
もうひとつ『シン・ゴジラ』に没入出来なかった大きな要素は、もはや架空の物語の中で「国家存亡の危機」を描いている余裕はもうないのではないかという事。
中国が台頭し、主権が脅かされる今日、「国家的存亡」というのは絵空事ではなくなった。にも拘らず現実は何も対処されていない。
昔、小松左京の「日本沈没」がヒットしたことがあった。
いわいるパニック映画ではあったが東海地震がいつおきてもおかしくない状況で作られたから、「絵空事」で片付けられない不安もあった。
それでも当時は高度成長期。たとえ実際、首都圏に大地震が来たとしてもその強大な経済力で何とかなるんだという根拠のない安心感があった。
だが、今はそれすらない。
あるのは超少子化、人口減少、経済力の衰退、アメリカとの安全保障の不信感、増大する中国の軍事的脅威、それに対処する報復核の供えもなく、アジアで唯一の経済大国という自負も消え、ただ老いに苛まれる日々。
そんな状況で「国家的存亡」を絵空事として映画で鑑賞している場合ではないんじゃないかと。
そんな想いが映画鑑賞中に常に過ぎって、やはり作品に没入することは出来なかった。
『シン・ゴジラ』は純粋に映像処理の水準も高く、普通に観て損はしない映画だと思う。
ただ諸手を挙げて「傑作」だと評価する程の戦慄はなかった。
それはやはり、自分自身の大切なものが脅かされている今、映画鑑賞自体すら余裕のなくなっている己の精神的、経済的、肉体的な環境も左右しているのだろう。
あと、なぜかゴジラが気の毒に思えた。単なる動物虐待にも感じて、こうなると怪獣映画も楽しめない。
これも年取ったせいか。
ネット等で「好評」との声が頻りに耳に入ってしまったので、天邪鬼な自分としてはどうしても穿った観方をしそうで若干鑑賞するタイミングが遅れた感あり。
まず、最初に感じたのは、今年3月、NHKで放映されたNHKスペシャル「原発メルトダウン」。
ドラマの所長役と映画の首相役が同じ俳優だったので、どちらが先かは解らぬが下地は共通なんだと。
総じて今回のゴジラ映画は明らかに東日本大震災と福島第一原発事故を意識している。
原発をゴジラに置き換えているだけだから、ある意味、解りやすい。
冒頭からの流れは庵野作品というより押井守監督の『パトレイバー2』を髣髴とさせる。
当然ながら作っているスタッフも共通するからスタイリッシュなカット割り、構図、BGMは『新世紀エヴァンゲリオン』そのもの。
ゴジラを倒す工程もエヴァの「ヤシマ作戦」だ。
だが、巷の評判程には思い入れて鑑賞することが出来なかった。
その理由は何なのだろう?
『新世紀エヴァンゲリオン』に傾倒した時は、まだこのアニメ作品が大きくヒットする前だった。
人知れず東京12チャンネルで放映されていた時、誰よりも先に「金脈」を発見したごとき戦慄と、当時の世紀末世相、同じ世代の抱える絶望感と同時進行性、そして語り合える稀有な仲間が居た事が大きく影響した。
だが、この『シン・ゴジラ』にはそれがない。
もともと「ゴジラ」映画に然程興味がないというのも理由かもしれない。
「ゴジラ」映画は最初のモノクロ作品以外は、マトモに観た記憶がない。
子供の頃、通過儀礼としてあれほど「ウルトラマンシリーズ」に傾倒したのに、ウルトラセブン以降は、なぜかまったく「怪獣映画」に興味が失せてしまった。
ハリウッド版もまったく知らない。
だから『シン・ゴジラ』を歴代の「ゴジラ」映画として比較評価することも出来ない。
あと、どうしても「実写」としてのリアリズムに何か引っ掛かりがあるのだ。
アニメーションであれば、そのデフォルメ故に妄想も高まるのだが、実写にすればするほど、現実とお芝居の微妙な「誤差」が妄想を拒絶してしまうのだ。特にバイリンガルの女性が出てきた辺りから萎えて来てしまった。
CGレベルも高いし、稚拙な処理もない。だからその点は安心して観れるのだが、実際の俳優が演ずる芝居が、その世界観への没入を閉ざしてしまう。
芸能人や俳優にまったく疎いので、知っている役者も少ない。
特に主人公周りは全然解らない。
役者が無名とか有名とか、そういう問題ではなくして、存在感が希薄なのだ。
国家的存亡を抱える立場にあるのに、何だかその「重さ」が伝わってこない。
立川防災基地辺りのシーンも恐慌状態に近い首都の空気感がまるでないのだ。
別に群集のパニックシーンを多用すればそうなるということではなくて、画面全体から漏れ出す「恐怖」が希薄なのだ。
アニメーションなら一旦描写された絵を透して観る者が「自己補正」出来たりするが、実写だと「いつも見ている風景がそのまま写っている」ので「ああ、あそこでロケしているのだな」で、終わってしまう。
随分前、『ローレライ』という映画を観た事があるが、どうにもしんどかった。湾岸を舞台にした警察ドラマ臭が強すぎて、つまりそういったバイアスのかかった味付けが実写映画の背景にはあって、それを意識する途端に作品の世界観に没入できなくなる。
今回の『シン・ゴジラ』も『ローレライ』ほどではなかったものの、どうしても実写特有の「灰汁」が気になってしまった。
最近、気持ちよく観れる映画は最新作ではなく、1960年代の「社長シリーズ」等の高度成長期華やかなりし頃の大衆映画。
これは恐らくお酒の醸造と同じく、じっくり半世紀近く寝かせたからこそ味わいが出てきたのだろう。
昭和40年代の町並み、テーブルに並ぶバヤリスオレンジ、高度成長的ガンバリでバリバリ働く群衆、スモッグの空。
戦後、アジアで唯一経済的繁栄と文化を謳歌できた優越感、メリハリのある70mmシネラマ極彩色アナログフィルムの色合いなど等、これらが程よく醸造され、まったりとした芳純な香りを放つのである。
半世紀もすれば実写特有の俗な「灰汁」も抜かれ、純粋な作品として鑑賞出来る。
『シン・ゴジラ』は、まだ鑑賞するには早すぎるのかも知れぬ。今のままでは単なる「原酒」状態だ。
俳優が全部鬼籍に入り、立川基地が廃墟になったらきっと楽しめよう。
もうひとつ『シン・ゴジラ』に没入出来なかった大きな要素は、もはや架空の物語の中で「国家存亡の危機」を描いている余裕はもうないのではないかという事。
中国が台頭し、主権が脅かされる今日、「国家的存亡」というのは絵空事ではなくなった。にも拘らず現実は何も対処されていない。
昔、小松左京の「日本沈没」がヒットしたことがあった。
いわいるパニック映画ではあったが東海地震がいつおきてもおかしくない状況で作られたから、「絵空事」で片付けられない不安もあった。
それでも当時は高度成長期。たとえ実際、首都圏に大地震が来たとしてもその強大な経済力で何とかなるんだという根拠のない安心感があった。
だが、今はそれすらない。
あるのは超少子化、人口減少、経済力の衰退、アメリカとの安全保障の不信感、増大する中国の軍事的脅威、それに対処する報復核の供えもなく、アジアで唯一の経済大国という自負も消え、ただ老いに苛まれる日々。
そんな状況で「国家的存亡」を絵空事として映画で鑑賞している場合ではないんじゃないかと。
そんな想いが映画鑑賞中に常に過ぎって、やはり作品に没入することは出来なかった。
『シン・ゴジラ』は純粋に映像処理の水準も高く、普通に観て損はしない映画だと思う。
ただ諸手を挙げて「傑作」だと評価する程の戦慄はなかった。
それはやはり、自分自身の大切なものが脅かされている今、映画鑑賞自体すら余裕のなくなっている己の精神的、経済的、肉体的な環境も左右しているのだろう。
あと、なぜかゴジラが気の毒に思えた。単なる動物虐待にも感じて、こうなると怪獣映画も楽しめない。
これも年取ったせいか。