45年後のバーベキュー
日常
気が付くと世間は夏休み。
小学生だった頃の7月21日というのは様々な意味で「夏への扉」だった。
庭でバーベキューをしながら、プロ野球のオールスター戦を観るというのもあの頃の家族イベントだった。
1969年当時の絵日記なんかを読み返すと、実家の庭で飯盒炊爨までやっていた。
杉並区のど真ん中で、当時は庭で焚き木したところで誰からも文句も言われず、長閑に過ごせたのだ。
先日、その夏休み恒例だったバーベキューを45年振り位に復活させてみた。
そこではたと気が付いた。
明らかに足りないものがある。
そう、このバーベキューの場に子供の歓声がないのだ。
当時、小学4年生だった「自分」が存在していないのだ。
代わりに居るのが、当時の父親よりも年取った独身の己の姿。
妻も子もいない45年後のバーベキュー。
先日、かつて阿佐ヶ谷某バーでお馴染みだった「謎のバイオリニスト」のライブを10年ぶりに観る。
本人の演奏後、5歳の息子さんがステージに立って親子揃って音楽を奏ではじめた。
親の「才能」は確実に、その息子に継承されていた。
5月に大学OBの宴に参加した時、衝撃を受けた「抗えぬ血統」をここでも思い知らされた。
人の命は限りがある。
人はやがて年取り、死ぬ。
この宿命には抗えない。
しかし子息を残すことによって己自身の分身を新鮮なる生命の中に宿らせ、未来に継承させることが出来る。
これこそが人として、唯一の希望なのだ。
昨今、戦後昭和を代表するテレビの主役だった有名人が次々に鬼籍に入るニュースを耳にする。
子供の頃、当たり前にテレビの中で傍若無人に振舞っていた兆児たちが老い、死んでいく。
これは自然の摂理であって、何らおかしなことではない。
しかし、この超少子高齢化、人口減少の中で、その失った「戦後昭和のエネルギー」を継承する「次世代のエネルギー」がどこにも存在しないことに愕然とするのである。
ただ、失われるだけで、新たに生まれるものがない国、日本。
「子供を作る作らないは本人の自由」とかメディアは流布する。
そして「女性は母親を目指すべき」と促す者が現れると、途端に非難の嵐が吹き荒れる。
騙されてはいけない。
人は年老い、様々な大切なものを失っていく。
その時になって、人は知るのだ。
己の遺伝子を残さねば死んでも死に切れぬと。
子息を残せる身体がある限り、母親、父親を目指すのは当然の生きる摂理だ。
にも拘らず、それを最初から放棄するような事を流布するメディアは害悪でしかない。
メディアに騙され、子供を作らなかったことを一生後悔する者が、これからたくさん出てこよう。
子供を設け、父親、母親になった「幸福者」は決して声を上げない。
なぜなら、そんなことをしなくても幸せだからだ。
不心得者だけが己の「不幸」を覆い隠すべく、事煩くメディアで喚き散らす。
そんな不毛な声に惑わされてはいけない。
45年後の夏休みのバーベキューの場に「美しい妻、可愛い息子、娘」が居ない「不幸」に気が付いたところでもはや手遅れだ。
大切な形あるものは、いずれ失われてしまう。
だから新しいモノを己の手で作り上げていかねばならぬ。
そんな当たり前なことを、いつしか日本人は忘れてしまったのだ。
TVで「ハッパフミフミ」のCMが流れていた頃の家族団らんは、もう戻っては来ない。
気づいた時には、いつも、遅すぎるのである。
小学生だった頃の7月21日というのは様々な意味で「夏への扉」だった。
庭でバーベキューをしながら、プロ野球のオールスター戦を観るというのもあの頃の家族イベントだった。
1969年当時の絵日記なんかを読み返すと、実家の庭で飯盒炊爨までやっていた。
杉並区のど真ん中で、当時は庭で焚き木したところで誰からも文句も言われず、長閑に過ごせたのだ。
先日、その夏休み恒例だったバーベキューを45年振り位に復活させてみた。
そこではたと気が付いた。
明らかに足りないものがある。
そう、このバーベキューの場に子供の歓声がないのだ。
当時、小学4年生だった「自分」が存在していないのだ。
代わりに居るのが、当時の父親よりも年取った独身の己の姿。
妻も子もいない45年後のバーベキュー。
先日、かつて阿佐ヶ谷某バーでお馴染みだった「謎のバイオリニスト」のライブを10年ぶりに観る。
本人の演奏後、5歳の息子さんがステージに立って親子揃って音楽を奏ではじめた。
親の「才能」は確実に、その息子に継承されていた。
5月に大学OBの宴に参加した時、衝撃を受けた「抗えぬ血統」をここでも思い知らされた。
人の命は限りがある。
人はやがて年取り、死ぬ。
この宿命には抗えない。
しかし子息を残すことによって己自身の分身を新鮮なる生命の中に宿らせ、未来に継承させることが出来る。
これこそが人として、唯一の希望なのだ。
昨今、戦後昭和を代表するテレビの主役だった有名人が次々に鬼籍に入るニュースを耳にする。
子供の頃、当たり前にテレビの中で傍若無人に振舞っていた兆児たちが老い、死んでいく。
これは自然の摂理であって、何らおかしなことではない。
しかし、この超少子高齢化、人口減少の中で、その失った「戦後昭和のエネルギー」を継承する「次世代のエネルギー」がどこにも存在しないことに愕然とするのである。
ただ、失われるだけで、新たに生まれるものがない国、日本。
「子供を作る作らないは本人の自由」とかメディアは流布する。
そして「女性は母親を目指すべき」と促す者が現れると、途端に非難の嵐が吹き荒れる。
騙されてはいけない。
人は年老い、様々な大切なものを失っていく。
その時になって、人は知るのだ。
己の遺伝子を残さねば死んでも死に切れぬと。
子息を残せる身体がある限り、母親、父親を目指すのは当然の生きる摂理だ。
にも拘らず、それを最初から放棄するような事を流布するメディアは害悪でしかない。
メディアに騙され、子供を作らなかったことを一生後悔する者が、これからたくさん出てこよう。
子供を設け、父親、母親になった「幸福者」は決して声を上げない。
なぜなら、そんなことをしなくても幸せだからだ。
不心得者だけが己の「不幸」を覆い隠すべく、事煩くメディアで喚き散らす。
そんな不毛な声に惑わされてはいけない。
45年後の夏休みのバーベキューの場に「美しい妻、可愛い息子、娘」が居ない「不幸」に気が付いたところでもはや手遅れだ。
大切な形あるものは、いずれ失われてしまう。
だから新しいモノを己の手で作り上げていかねばならぬ。
そんな当たり前なことを、いつしか日本人は忘れてしまったのだ。
TVで「ハッパフミフミ」のCMが流れていた頃の家族団らんは、もう戻っては来ない。
気づいた時には、いつも、遅すぎるのである。