『ウルトラセブン』の記憶
映像鑑賞
自宅最寄り駅に『ウルトラマンスタンプラリー』のスタンプ台が設置してある。
昨年に引き続きのイベントらしい。
前回はまったく手を出さなかったが、2月いっぱいまで開催しているので今回は少し参加してみようと思う。
このスタンプラリー、結構中高年にも人気だと風の噂で聞く。
「ウルトラマンシリーズ」は己の世代においても普遍的な通過儀礼だった。
その中でも1968年辺りに製作された『ウルトラセブン』は最も視聴機会の多かったシリーズだ。
『ウルトラQ』、『ウルトラマン』は年齢的に早すぎ、『セブン』以後のウルトラシリーズは通過儀礼としてのテレビアニメや特撮シリーズとしては遅すぎた。
だから印象に残る作品は殆どが『ウルトラセブン』だ。
とはいえ、最初の放映時年齢は10歳前後。小学3年から4年生の頃だ。
怪獣とウルトラセブンとの対決シーンばかりに目が行き、ストーリーなど大して意に関しない年齢である。
だから初回放映時の個々の内容はすぐに忘れた。それにシリーズ通して集中的に視聴した記憶もない。
数多のテレビ番組のひとつとして通り過ぎた「子供時代の風景」のひとつに過ぎなかった。
だが、『ウルトラセブン』は地上波テレビで幾何回も再放送された。
だから思春期に改めて鑑賞する機会も多かったのだろう。
そのせいだろうか、いくつかのエピソードがおぼろげな初回放映時の残像に新たな記憶として焼き付けられていったのだと思う。
『ウルトラセブン』で己の記憶に深く刻まれたエピソードとしては、まず円盤がたくさん出て来た回。
無数のUFOの来襲を一人の天文ファンが発見するが誰も相手にしないという話だ。
世間から疎まれ、孤立している青年の悲哀が漂っていた。
1960年代当時だから勤労青年として描かれているが、現代でいう「ヲタク」「引き篭もり」に相当する。
そして正義に対峙する「悪」であるはずの宇宙人のほうが己を理解してくれるのだという構成も衝撃的だった。
己を救うはずだった宇宙人。しかしそれを主人公のウルトラセブンが壊滅させるのである。
つまり「正義」であるはずのウルトラセブンは主人公にとって「敵」だったのだ。
もしかするとこれが己のルサンチマンの発露だったのかもしれない。
また、時としてアマチュアの斬新な発想力と着眼点がプロよりも勝る等、「世の常識を疑え」的なメッセージ性が琴線に触れた。
映像としても漆黒の闇に無数に浮かぶ白いUFOと、高速度で戦うセブンの動きが印象的だった。
これらは後に第45話『円盤が来た』のエピソードと判明。
初放映は1968年8月だ。
米ソ冷戦に宇宙開発競争、そしてベトナム戦争真っ盛り。反戦運動も盛りあがっていた頃だ。
しかし小学4年生であった自分にその時代の潮流を感じることなど無理だったはず。
だから相当後の再放映時の印象で記憶に残ったのかもしれない。
もうひとつの印象深いエピソードは、ウルトラセブンたるダン隊員がウルトラアイを奪われ、群衆がそのウルトラアイを装着してダンを凝視するシーンがあった回。
後にその回にマヤという少女が出ていることを知る。
このマヤは地球を侵略する宇宙人の尖兵として地球に送り込まれたが、結局裏切られて自ら命を絶つという悲劇のヒロイン役。
その容姿が、己が幼少期だった頃の異性に対する深い憧れの具現ビジョンに酷似しているのだ。

初回放映当時、このエピソードを観ていたかは定かでない。
ただ、深層心理に激しく働きかけていた可能性がなかったとは言い切れない。
それは、つまり同時期に製作された東映動画高畑勲作品『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒロイン、ヒルダのそれと殆ど同じだったからだ。
黒髪のロングヘアーにざっくりとしたワンピースに、胸元に光るブローチ、ペンダント。
1960年代を代表するフラワーピープルやヒッピーに通じるファッション。
群衆の中で苦悩し、主から捨てられる悲哀などがヒルダとそっくりなのだ。
容姿も置かれた環境もシンクロしている。
ヒルダを知ったのは、ずっと後のことだが、このマヤが深層心理に働きかけていたのだろうか?
また、『ウルトラセブン』が世に出た少し後、中学1年になった己の思春期心を最初に揺さぶった、アイドルのアグネス・チャンともマヤは似ていた。
アグネス・チャンが好きになったのは、このマヤのイメージが影響していたかもしれない。
更にマヤは劇中で、1960年代当時の世相を批判し、「こんな地球、侵略にたる星ではない」とダンにテレパシーで語りかける。
だから、己の屈折したルサンチマン思考も、その源泉はマヤにあったとも言える。
そう、己の初源的異性観や穿った世相観に無意識な残像として巣食っているのが、このマヤだったのだ。
後にこれが第37話『盗まれたウルトラ・アイ」』のエピソードだと知る。
他にも印象深いストーリーは多い。
欠番になっている第12話も動画サイトで見た事があるが、ダンとアンヌの森を巡るシーンなどタルコフスキーの映画を彷彿とさせるほど秀逸を極めた作りだ。
この光と影を巧妙に使う演出に強い作家性が覗える。
これらは全て実相寺 昭雄監督が演出しているという。
この異色を放つ実相寺『ウルトラセブン』エピソードが、当時幼少期だった後のクリエーターに多大なる影響を与えたことは想像に難くない。
当然ながら『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野氏も同世代。語るまでもなかろう。
いずれにしろ、『ウルトラセブン』は昭和30年代半ば生まれの者にとっては「創造力」の源泉として覚醒を齎し、再放送でより深く記憶に刻まれていった作品であることは疑いない。
「ウルトラマンスタンプラリー」に触れて久しぶりに『ウルトラセブン』の記憶を辿った。
古の1960年代後半の作品には骨太のメッセージが篭められている。
それは代を受け継ぎ、後世、新たなクリエーターによって異なる作品の中に伝えられていく。
果たして、今後もその語り部は継承されていくのであろうか?
スタンプラリーに親子連れで楽しむ姿がある限りは大丈夫かもしれない。
昨年に引き続きのイベントらしい。
前回はまったく手を出さなかったが、2月いっぱいまで開催しているので今回は少し参加してみようと思う。
このスタンプラリー、結構中高年にも人気だと風の噂で聞く。
「ウルトラマンシリーズ」は己の世代においても普遍的な通過儀礼だった。
その中でも1968年辺りに製作された『ウルトラセブン』は最も視聴機会の多かったシリーズだ。
『ウルトラQ』、『ウルトラマン』は年齢的に早すぎ、『セブン』以後のウルトラシリーズは通過儀礼としてのテレビアニメや特撮シリーズとしては遅すぎた。
だから印象に残る作品は殆どが『ウルトラセブン』だ。
とはいえ、最初の放映時年齢は10歳前後。小学3年から4年生の頃だ。
怪獣とウルトラセブンとの対決シーンばかりに目が行き、ストーリーなど大して意に関しない年齢である。
だから初回放映時の個々の内容はすぐに忘れた。それにシリーズ通して集中的に視聴した記憶もない。
数多のテレビ番組のひとつとして通り過ぎた「子供時代の風景」のひとつに過ぎなかった。
だが、『ウルトラセブン』は地上波テレビで幾何回も再放送された。
だから思春期に改めて鑑賞する機会も多かったのだろう。
そのせいだろうか、いくつかのエピソードがおぼろげな初回放映時の残像に新たな記憶として焼き付けられていったのだと思う。
『ウルトラセブン』で己の記憶に深く刻まれたエピソードとしては、まず円盤がたくさん出て来た回。
無数のUFOの来襲を一人の天文ファンが発見するが誰も相手にしないという話だ。
世間から疎まれ、孤立している青年の悲哀が漂っていた。
1960年代当時だから勤労青年として描かれているが、現代でいう「ヲタク」「引き篭もり」に相当する。
そして正義に対峙する「悪」であるはずの宇宙人のほうが己を理解してくれるのだという構成も衝撃的だった。
己を救うはずだった宇宙人。しかしそれを主人公のウルトラセブンが壊滅させるのである。
つまり「正義」であるはずのウルトラセブンは主人公にとって「敵」だったのだ。
もしかするとこれが己のルサンチマンの発露だったのかもしれない。
また、時としてアマチュアの斬新な発想力と着眼点がプロよりも勝る等、「世の常識を疑え」的なメッセージ性が琴線に触れた。
映像としても漆黒の闇に無数に浮かぶ白いUFOと、高速度で戦うセブンの動きが印象的だった。
これらは後に第45話『円盤が来た』のエピソードと判明。
初放映は1968年8月だ。
米ソ冷戦に宇宙開発競争、そしてベトナム戦争真っ盛り。反戦運動も盛りあがっていた頃だ。
しかし小学4年生であった自分にその時代の潮流を感じることなど無理だったはず。
だから相当後の再放映時の印象で記憶に残ったのかもしれない。
もうひとつの印象深いエピソードは、ウルトラセブンたるダン隊員がウルトラアイを奪われ、群衆がそのウルトラアイを装着してダンを凝視するシーンがあった回。
後にその回にマヤという少女が出ていることを知る。
このマヤは地球を侵略する宇宙人の尖兵として地球に送り込まれたが、結局裏切られて自ら命を絶つという悲劇のヒロイン役。
その容姿が、己が幼少期だった頃の異性に対する深い憧れの具現ビジョンに酷似しているのだ。

初回放映当時、このエピソードを観ていたかは定かでない。
ただ、深層心理に激しく働きかけていた可能性がなかったとは言い切れない。
それは、つまり同時期に製作された東映動画高畑勲作品『太陽の王子ホルスの大冒険』のヒロイン、ヒルダのそれと殆ど同じだったからだ。
黒髪のロングヘアーにざっくりとしたワンピースに、胸元に光るブローチ、ペンダント。
1960年代を代表するフラワーピープルやヒッピーに通じるファッション。
群衆の中で苦悩し、主から捨てられる悲哀などがヒルダとそっくりなのだ。
容姿も置かれた環境もシンクロしている。
ヒルダを知ったのは、ずっと後のことだが、このマヤが深層心理に働きかけていたのだろうか?
また、『ウルトラセブン』が世に出た少し後、中学1年になった己の思春期心を最初に揺さぶった、アイドルのアグネス・チャンともマヤは似ていた。
アグネス・チャンが好きになったのは、このマヤのイメージが影響していたかもしれない。
更にマヤは劇中で、1960年代当時の世相を批判し、「こんな地球、侵略にたる星ではない」とダンにテレパシーで語りかける。
だから、己の屈折したルサンチマン思考も、その源泉はマヤにあったとも言える。
そう、己の初源的異性観や穿った世相観に無意識な残像として巣食っているのが、このマヤだったのだ。
後にこれが第37話『盗まれたウルトラ・アイ」』のエピソードだと知る。
他にも印象深いストーリーは多い。
欠番になっている第12話も動画サイトで見た事があるが、ダンとアンヌの森を巡るシーンなどタルコフスキーの映画を彷彿とさせるほど秀逸を極めた作りだ。
この光と影を巧妙に使う演出に強い作家性が覗える。
これらは全て実相寺 昭雄監督が演出しているという。
この異色を放つ実相寺『ウルトラセブン』エピソードが、当時幼少期だった後のクリエーターに多大なる影響を与えたことは想像に難くない。
当然ながら『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野氏も同世代。語るまでもなかろう。
いずれにしろ、『ウルトラセブン』は昭和30年代半ば生まれの者にとっては「創造力」の源泉として覚醒を齎し、再放送でより深く記憶に刻まれていった作品であることは疑いない。
「ウルトラマンスタンプラリー」に触れて久しぶりに『ウルトラセブン』の記憶を辿った。
古の1960年代後半の作品には骨太のメッセージが篭められている。
それは代を受け継ぎ、後世、新たなクリエーターによって異なる作品の中に伝えられていく。
果たして、今後もその語り部は継承されていくのであろうか?
スタンプラリーに親子連れで楽しむ姿がある限りは大丈夫かもしれない。