『劇場版ガールズアンドパンツァー』を観る
映像鑑賞
先日の週末、少し時間が出来たので『劇場版ガールズアンドパンツァー』を観る。
正直、観ようかどうか迷ってはいたが、この時を逃すとたぶん足を運ぶことはなかろうと思い、上映館に向かう。
シネマコンプレックスは日曜日の夕方とあって酷い混雑。
『スターウオーズ』や『妖怪ウオッチ』も平行上映されていた中、『ガルパン』もほぼ満席。
客層は大半が単独男性。家族連れは見当たらない。まあそういう作品なのだろう。
予告編で数々の劇場版アニメが出てきたが、もう全然解からない。
「造り手」としての立場に居ない作品群にどう接してよいか解からないし、「受け手」としてはもう感性が錆付いてピクリとも動かない。
だから予告編の映像は苦痛でしかなかった。
『ガルパン』は一通りTV版は観ていたが、OVAは手付かず。
だから知らないキャラクターもたくさん。
冒頭からなんとなく、自分がここに居るのが場違いな気がして落ち着かない。
『ガルパン』はリアルな戦車の描写と、いわいる「美少女」のコラボというミリタリーの王道が、己の嗜好とシンクロして興味深い作品として認知していた。
だが、その世界観の「お約束」や「戦車道」の設定にはどうしても馴染めない。
搭乗員は死なず、破壊された構造物や町もなんら住民に影響を与えず、単なるゲームの駒として描かれる戦車戦に一喜一憂出来ないのだ。
もうあと数年で還暦という年齢の感性では、この『ガルパン』の世界観や設定に素直に馴染むことは、もう無理なのだ。
自分が戦車模型に夢中になった時代のバックグラウンドには当時放映されたリアルな戦争映画や『コンバット』のようなドラマがあって、そこには実際の「死」が描かれ、国家間の命がけの闘争があった。
戦車はその目的達成のための道具に過ぎない。
『ガルパン』の世界には随伴歩兵も装甲車も対戦車砲も支援航空機もなければ、犠牲となる一般市民も捕虜も占拠される街もイデオロギー闘争も存在しない。
戦車がゲームの駒として走り回るだけだ。
それでもアニメ描写として、非常に臨場感溢れるクオリティーが保たれているから、辛うじて最後まで飽きることなく鑑賞することは出来た。
ただ、これだけの技術や考証がありながら「スポーツ」としての戦車戦しか描けないところにもどかしさがある。
もっともそんなリアルな戦争として戦車を描いたとしても、興行的に成功するかどうかは知らない。
おそらく企画すら通らないだろう。
だから、自分は上映中、すべて脳内変換して、まったく世界観の違う「リアルな戦争における殺し合いの道具としての戦車戦」に置き換えて鑑賞していた。
頼りは自分の妄想力。
でないと耐えられないのだ。
『ガルパン』は結局、自分にとってはミリタリー趣味に刺激を与える香辛料に過ぎないような気がする。
『新世紀エヴァンゲリオン』等のように、その世界観にどっぷりと漬かって、キャラクターに思い入れする作品とは違う。
正直、『ガルパン』のキャラクターに人間的な魅力とかを見出すことは出来ない。
ストーリーも戦車道を演ずる少女達と周辺の大人達を描くリアル度のギャップに違和感を感じてどうにも辛い。
声優さんに関しては、もうまったく解からないのでコメントしようもない。
だが、それでいいのだろう。
この作品は、ある意味、舞台となった大洗の町を盛り上げるために存在する。
鹿島臨海鉄道の車窓から見た一面の水田と、主人公姉妹の幼少期を描いた場面は妙にシンクロする。
この作品を見て「聖地巡礼」したくなったならばそれで成功なのだろう。

『ガルパン』に限らず、「造り手」の立場にないアニメ作品に接するのは、正直きつい。
この歳で純粋に「受け手」として楽しんだり、感動することは、もう難しいのかもしれぬとつくづく思った日であった。
正直、観ようかどうか迷ってはいたが、この時を逃すとたぶん足を運ぶことはなかろうと思い、上映館に向かう。
シネマコンプレックスは日曜日の夕方とあって酷い混雑。
『スターウオーズ』や『妖怪ウオッチ』も平行上映されていた中、『ガルパン』もほぼ満席。
客層は大半が単独男性。家族連れは見当たらない。まあそういう作品なのだろう。
予告編で数々の劇場版アニメが出てきたが、もう全然解からない。
「造り手」としての立場に居ない作品群にどう接してよいか解からないし、「受け手」としてはもう感性が錆付いてピクリとも動かない。
だから予告編の映像は苦痛でしかなかった。
『ガルパン』は一通りTV版は観ていたが、OVAは手付かず。
だから知らないキャラクターもたくさん。
冒頭からなんとなく、自分がここに居るのが場違いな気がして落ち着かない。
『ガルパン』はリアルな戦車の描写と、いわいる「美少女」のコラボというミリタリーの王道が、己の嗜好とシンクロして興味深い作品として認知していた。
だが、その世界観の「お約束」や「戦車道」の設定にはどうしても馴染めない。
搭乗員は死なず、破壊された構造物や町もなんら住民に影響を与えず、単なるゲームの駒として描かれる戦車戦に一喜一憂出来ないのだ。
もうあと数年で還暦という年齢の感性では、この『ガルパン』の世界観や設定に素直に馴染むことは、もう無理なのだ。
自分が戦車模型に夢中になった時代のバックグラウンドには当時放映されたリアルな戦争映画や『コンバット』のようなドラマがあって、そこには実際の「死」が描かれ、国家間の命がけの闘争があった。
戦車はその目的達成のための道具に過ぎない。
『ガルパン』の世界には随伴歩兵も装甲車も対戦車砲も支援航空機もなければ、犠牲となる一般市民も捕虜も占拠される街もイデオロギー闘争も存在しない。
戦車がゲームの駒として走り回るだけだ。
それでもアニメ描写として、非常に臨場感溢れるクオリティーが保たれているから、辛うじて最後まで飽きることなく鑑賞することは出来た。
ただ、これだけの技術や考証がありながら「スポーツ」としての戦車戦しか描けないところにもどかしさがある。
もっともそんなリアルな戦争として戦車を描いたとしても、興行的に成功するかどうかは知らない。
おそらく企画すら通らないだろう。
だから、自分は上映中、すべて脳内変換して、まったく世界観の違う「リアルな戦争における殺し合いの道具としての戦車戦」に置き換えて鑑賞していた。
頼りは自分の妄想力。
でないと耐えられないのだ。
『ガルパン』は結局、自分にとってはミリタリー趣味に刺激を与える香辛料に過ぎないような気がする。
『新世紀エヴァンゲリオン』等のように、その世界観にどっぷりと漬かって、キャラクターに思い入れする作品とは違う。
正直、『ガルパン』のキャラクターに人間的な魅力とかを見出すことは出来ない。
ストーリーも戦車道を演ずる少女達と周辺の大人達を描くリアル度のギャップに違和感を感じてどうにも辛い。
声優さんに関しては、もうまったく解からないのでコメントしようもない。
だが、それでいいのだろう。
この作品は、ある意味、舞台となった大洗の町を盛り上げるために存在する。
鹿島臨海鉄道の車窓から見た一面の水田と、主人公姉妹の幼少期を描いた場面は妙にシンクロする。
この作品を見て「聖地巡礼」したくなったならばそれで成功なのだろう。

『ガルパン』に限らず、「造り手」の立場にないアニメ作品に接するのは、正直きつい。
この歳で純粋に「受け手」として楽しんだり、感動することは、もう難しいのかもしれぬとつくづく思った日であった。