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祖父のこと

日常
05 /29 2015
公式サイトの自己紹介ページをずっと更新せぬまま放置しすぎたので、思い切ってリニューアル作業を行なう。
写真も更新し、詳細な経歴を載せることにした。
漫画らしきモノを描き始めてから37年経った事に改めて吃驚する。

経歴を記していくうちに、自分の父方の祖父の事が引っかかり始めた。
おぼろげに「こんな人」というのは聞いてはいたが・・。
名前は安部豊。
明治19年生まれで大分出身。
明治〜昭和期の演劇評論家、編集者だったそうだ。
20世紀日本人名事典によると
『明治39年上京、泰明小学校教員となり、演芸画報社の中田辰三郎社主に誘われ「演芸画報」編集に従事。一時「新演芸」に移ったが再び戻り、昭和18年演劇誌統合で「演劇界」となっても継続、25年の解散時まで携わった。坪内逍遙、5代目中村歌右衛門、6代目菊五郎らに信頼され豪華写真集「舞台の団十郎」「五世尾上菊五郎」「魁玉歌右衛門」、個人写真集「舞台のおもかげ」、歌舞伎の型の記録芸談集「魁玉夜話」などを編集出版した』
だそうである。

だがこれは全てネットで調べて解ったこと。
実はこの祖父は自分の生まれる2年前に鬼籍に入ってしまい、姿を見たことがない。
姿どころか、著作物一切、手にしたことも読んだこともないのだ。
祖父の次男である父は典型的な昭和サラリーマン。祖父の環境を一切継ぐことはなく、180度違う仕事に就いていたから実家に居たにも拘らず祖父の著作、創作の残滓すら覗えなかったし、祖父の仕事の話もまったくと言っていいほど聞かなかった。
著書は祖父の死後、全て図書館に寄贈したらしく影も形もなかったし、交流のあったはずの歌舞伎関係者が実家に出入りすることもなかったし、歌舞伎にすら招待されたことはなかった。
だから幼い頃から自分も父方の祖父が何をしていたかなんてまったく興味も湧かなかった。
唯一、祖母のもとに『演劇界』という歌舞伎関係の雑誌が毎月、届いていたのが僅かに祖父の影を知る手立てだった。
父親は祖父のような「物書き」とは対極の人であった。
実直なサラリーマンで演劇界のことなどまるで無関心(のように見えた)。想像力にも欠けてクリエーティブな雰囲気は一切なかった。自分が子供時代、絵を描いたり創作っぽい事をしても褒めるどころか「下らないことするな」みたいに叱られた。
基本的に祖父が持っていた「創作の血」はまったく継がれていないように思われた。
本当のところは解らぬが、祖父の世界とは隔絶していたのは確かな気がする。
だから自分の息子が漫画家を目指している様子を苦々しく感じているようでもあった。
漫画家、小説家、アクターなどの中には「親の七光り」で先代から受け継いだ人脈を活かして活躍する人もいる。正直、羨ましいと思う。
自分はまったくそんなものはなかった。
どう考えても父親は出版や漫画界とは殆ど無縁な業種にいた。
結局、自分がデビューするためにはすべて自分の足で出版社周りをしなければならなかった。伝手など一切なかった。
もし、父親が祖父の人脈を継いでいたら、どんなに恵まれたかと思うことはあった。
無論、そうだとしても本当に上手くいったかは解らないが。
それに、この父親が息子の将来に本当に無関心だったかも、今となっては解らない。
その父親も10年以上前に鬼籍に入った。

祖父の著書は早稲田演劇博物館とか演劇関係の蔵書が集められている施設に行けば読むことが出来ると思われる。
ただ、自分も歌舞伎には疎いし、読んだとしても理解出来るかは解らない。
それにあまりにも古典過ぎてまともに読解出来るか怪しい。
そういえば、唯一、父親が祖父に関して話していたのは、祖父と共に同郷大分の旧陸軍大臣阿南惟幾と会って握手したことがあるとかないとか。
これすらあやふやな記憶で本当だったかも解らない。
とにかく、そんな祖父がいたにも拘わらず、その孫である自分がネットで検索しなければ経歴を知ることが出来ぬとは何とももどかしい。
だが、祖父の業績を知った所で、今更己の人生が変わるものでもない。
所詮、血が繋がっていたとて、全ては遥か過去の事。

時は遷うのだ。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/