阿佐ヶ谷某BAR開店20周年の宴
日常
これまで日記やブログで時折話題にした阿佐ヶ谷某BARが開店20周年を迎え、その記念宴に出席した。
近年、通う頻度は落ちたものの開店以来、自分にとって唯一、カウンターで一人グラスを凝視できる場だ。
マスターは自分と同じ年齢、そして独身。自分の本や絵も置いてもらっている。
開店当時の1995年前後は、駅前にあった出版社のクロッキーワークショップに通い出したり、同人誌活動を開始して大きく交友関係が広がった時期。
『新世紀エヴァンゲリオン』初放映もこの頃で、ある意味自分の生活環境や創作エネルギーが質転換した「セカンドインパクト」でもあった。
まさに「カンブリア爆発」のごとき1995年、この阿佐ヶ谷某BAR開店はコミケと並んで己のレボリューション橋頭堡の一つとなった。
この店に通った20年間。此処で出会った数々のクリエーター諸氏に様々な影響を受けた記憶が蘇る。
客層には映画監督、漫画家、音楽家、放送関係者なんかが多く訪れていた。
謎の女性バイオリニストもその一人。単行本『絶望記の終わり』収録「絶望線上のアリア」でモデルになった人でもあった。
女史は今、風の便りによると数年前結婚し、子供を設け、東京都下リサイタルホール館長に納まっているとか。
また自分が手がけた最初の創作同人誌『阿佐ヶ谷遊覧』共著者もこの某BAR創設時に関わったイラストレーターさんだった。
そんな「人間交差点」としての阿佐ヶ谷某BARも20年を経たのか。
人口減で飲食街が総じて苦戦を強いられる中、なんとか20年間、店を取持ってきたマスターの気苦労は想像に難くない。
この場を借りて敬意を表したい。
さて、20周年記念宴であるが参加者は30名くらいだったか。残念ながら名前と顔が一致するのはほんの数名。
通う頻度や交友グループの差異によって殆ど接点がない人が大半、あまり話が出来る相手も見つからず、独り寂しく飲む宴に。
比較的交友の深かった人々は地元を離れてしまったか、仕事や結婚等で環境が変わったのだろうか?
それともたまたま都合がつかなかったのだろうか、いずれにしろ肩身が狭い。
机には某有名漫画家からの花束が飾ってあった。
この阿佐ヶ谷某BARには実は超有名売れっ子漫画家の何人かが稀に人知れず訪れる店でもある。壁にはそのクリエーターが記した大きな寄せ書きが立てかけられている。
それが公になると落ち着けないので、本人達もお客もマスターもそのことはあまり公言しないらしい。
無論、自分はそういった超有名漫画家交友グループとは接点がない。
仮にそんな場に出くわしても、自分の立場がないので、独りカウンターに座っているだろう。
そちらのほうが性に合っている。
何本ものワインを空けて宴は続く。
店のBGMは1960年代フォークから1970年代初頭のニューミュージック(J-POPSと呼称するのは似合わない)が多い。
そういえばこの日の朝、TBSのパックインミュージックDJが一人また鬼籍に入ったニュースを耳にした。
小島一慶、林よしお、愛川欣也、野沢那智、白石冬美、山本コウタロー・・。
その何人が今、生き残っているだろうか。
馴染みのタレントや役者の訃報はもう聞き慣れ、あまり想うところもないが、やはりラジオDJの訃報は妙に引っかかる。
声だけのラジオは、そのDJを己の中でイメージする。
だからそのイメージの対象は己が生き続ける限り己の中に存在し続けている。
たとえ本人が死んだとしても語り部としての魂は、今尚、リスナーの中で漂い続ける。
ラジオの力と真骨頂はそこに存在するんじゃないかと思ったりする。
親に隠れて布団の中で密かにトランジスタラジオに耳を傾けていた、あの1970年代初頭深夜放送の日々。
そのローティーンの頃に刻まれた声の記憶は、今尚褪せる事はない。
その深夜放送を共有したリスナー世代すら、もう五十路を超えんとしている。
阿佐ヶ谷某BARマスターはこれからも店を頑張るという。
50過ぎれば人生の付録のようなものだと酔って説く事もあるが、右肩下がりの事ばかり呟いたところで思考停止だ。
現世の状況を嘆いてもどうなるものでもない。否が応でも明日は遣って来るのだ。
そして自ら敷いた己の道も明日に通じている。
であればその道を歩んでいかねばならない。
躓いて酷い転び方をしたとしても、その先に己の墓場があったとしても、迷いなくその終点に辿り着ければ人生は成就する。
迷いは捨てよ。
自分もその道をただひたすら歩むだろう。
23時過ぎ、阿佐ヶ谷某BARを出て家路に就く。
近年、通う頻度は落ちたものの開店以来、自分にとって唯一、カウンターで一人グラスを凝視できる場だ。
マスターは自分と同じ年齢、そして独身。自分の本や絵も置いてもらっている。
開店当時の1995年前後は、駅前にあった出版社のクロッキーワークショップに通い出したり、同人誌活動を開始して大きく交友関係が広がった時期。
『新世紀エヴァンゲリオン』初放映もこの頃で、ある意味自分の生活環境や創作エネルギーが質転換した「セカンドインパクト」でもあった。
まさに「カンブリア爆発」のごとき1995年、この阿佐ヶ谷某BAR開店はコミケと並んで己のレボリューション橋頭堡の一つとなった。
この店に通った20年間。此処で出会った数々のクリエーター諸氏に様々な影響を受けた記憶が蘇る。
客層には映画監督、漫画家、音楽家、放送関係者なんかが多く訪れていた。
謎の女性バイオリニストもその一人。単行本『絶望記の終わり』収録「絶望線上のアリア」でモデルになった人でもあった。
女史は今、風の便りによると数年前結婚し、子供を設け、東京都下リサイタルホール館長に納まっているとか。
また自分が手がけた最初の創作同人誌『阿佐ヶ谷遊覧』共著者もこの某BAR創設時に関わったイラストレーターさんだった。
そんな「人間交差点」としての阿佐ヶ谷某BARも20年を経たのか。
人口減で飲食街が総じて苦戦を強いられる中、なんとか20年間、店を取持ってきたマスターの気苦労は想像に難くない。
この場を借りて敬意を表したい。
さて、20周年記念宴であるが参加者は30名くらいだったか。残念ながら名前と顔が一致するのはほんの数名。
通う頻度や交友グループの差異によって殆ど接点がない人が大半、あまり話が出来る相手も見つからず、独り寂しく飲む宴に。
比較的交友の深かった人々は地元を離れてしまったか、仕事や結婚等で環境が変わったのだろうか?
それともたまたま都合がつかなかったのだろうか、いずれにしろ肩身が狭い。
机には某有名漫画家からの花束が飾ってあった。
この阿佐ヶ谷某BARには実は超有名売れっ子漫画家の何人かが稀に人知れず訪れる店でもある。壁にはそのクリエーターが記した大きな寄せ書きが立てかけられている。
それが公になると落ち着けないので、本人達もお客もマスターもそのことはあまり公言しないらしい。
無論、自分はそういった超有名漫画家交友グループとは接点がない。
仮にそんな場に出くわしても、自分の立場がないので、独りカウンターに座っているだろう。
そちらのほうが性に合っている。
何本ものワインを空けて宴は続く。
店のBGMは1960年代フォークから1970年代初頭のニューミュージック(J-POPSと呼称するのは似合わない)が多い。
そういえばこの日の朝、TBSのパックインミュージックDJが一人また鬼籍に入ったニュースを耳にした。
小島一慶、林よしお、愛川欣也、野沢那智、白石冬美、山本コウタロー・・。
その何人が今、生き残っているだろうか。
馴染みのタレントや役者の訃報はもう聞き慣れ、あまり想うところもないが、やはりラジオDJの訃報は妙に引っかかる。
声だけのラジオは、そのDJを己の中でイメージする。
だからそのイメージの対象は己が生き続ける限り己の中に存在し続けている。
たとえ本人が死んだとしても語り部としての魂は、今尚、リスナーの中で漂い続ける。
ラジオの力と真骨頂はそこに存在するんじゃないかと思ったりする。
親に隠れて布団の中で密かにトランジスタラジオに耳を傾けていた、あの1970年代初頭深夜放送の日々。
そのローティーンの頃に刻まれた声の記憶は、今尚褪せる事はない。
その深夜放送を共有したリスナー世代すら、もう五十路を超えんとしている。
阿佐ヶ谷某BARマスターはこれからも店を頑張るという。
50過ぎれば人生の付録のようなものだと酔って説く事もあるが、右肩下がりの事ばかり呟いたところで思考停止だ。
現世の状況を嘆いてもどうなるものでもない。否が応でも明日は遣って来るのだ。
そして自ら敷いた己の道も明日に通じている。
であればその道を歩んでいかねばならない。
躓いて酷い転び方をしたとしても、その先に己の墓場があったとしても、迷いなくその終点に辿り着ければ人生は成就する。
迷いは捨てよ。
自分もその道をただひたすら歩むだろう。
23時過ぎ、阿佐ヶ谷某BARを出て家路に就く。