虚しい反芻

SF
09 /07 2009
東京MXテレビでは、かなり前のアニメやドラマを再放送していて、週末夕方には「未来少年コナン」や「赤毛のアン」などの1970年代後半の作品が見られる。

再放映を待つまでもなく、今やDVDやネット上の動画サイトなどで幾らでも過去、琴線に触れた作品を視聴出来る環境が整っている。
1970年に日本で放映された「謎の円盤UFO」もその一つ。
自分が小学5年生の頃、洗礼を受けたイギリス製本格的SFドラマ。「新世紀エヴァンゲリオン」キャラクターの元ネタにもなっている名作だ。
動画サイトでそのオープニングを久しぶりに見たが、やはりカッコいい。
10歳の頃初めて観た感覚と同じだ。
この世に生まれて10年しかたっていないのに、これをカッコいいと理解する感受性がすでに出来上がっており、そして50歳近くになった今でもその感覚は変わっていないことに軽い脅威を感じてしまう。
何なのだろう?
ここに「時間差」は存在しないのだ。
「未来少年コナン」や「赤毛のアン」を観た時の感覚もまた同じように時を跨いで感性が時空を超えて繋がっている。
その頃あった他諸々の出来事は遥か記憶の果てで忘却の彼方に打ち捨てられているというのに、これらの作品群の記憶はまったく鮮明に己の中で生き続けているのだ。
これは懐かしさとは違う。事あるごとにそう思うのだ。
ネットが普及する前は往年の名作を含め容易にリピート鑑賞できるプラットホームなどなかったから大抵は記憶に上書きされてしまうものだが、現環境下ではどんな時代の創作物も瞬時に呼び出すことが出来てしまう。
だからいつまでも「忘却」が起こらない。
エリス中尉が月面基地で着替えたりするシーンがこんなにセクシーだったことを再確認出来るのも然り。
流石に小学校5年の自分には劇中コスチュームのエロさに反応するほど「覚醒」はしていなかったのだが、それは別問題だとしてもSONYのコンポステレオCMや小森のおばちゃまの解説シーンを含め、40年の時空を超え、捕らえ方は今と一緒なのだ。
まだテレビは一家に一台の時代。無論、家庭用ビデオなんかない。
おそらく兄弟と親父で居間のテレビで観ていたはず。土曜の午後8時、日本テレビだ。
その頃のくだらない出来事や学校家庭での稚拙なエピソードはどっかにすっ飛んでいるのに、この作品から受けた影響だけはやけに高尚だった。たった10歳の時に本格的SFを丸ごと飲み込むことが出来たなど信じがたい。
学校のクラスメートの中にもこの作品に夢中になっているのが居て、自慢げに俳優エドビショップやらの名前を全部記憶するほどの熱の入れようだった。
その部分だけはもういい大人が「新世紀エヴァンゲリオン」に夢中になった時の振る舞いとそっくりだった。
そんな、本来ならば記憶に上書きされるものを同時間帯に並列に置き換える行為とはいったい何なのだろう。
そこには通過儀礼は存在せず、ただ永遠に「反芻」が繰り返されるだけ。
そのうちどちらが過去でどちらが未来の作品か解らなくなってしまい、時間の感覚すらなくなってしまう。
10歳の自分と50歳の自分がクロスオーバーする。
もしかすると「謎の円盤UFO」を夢中になって見ていた小学校5年生の自分は己の「未来」の姿かもしれない。
成長を止め、通過儀礼を止めた絶望独身男性にとって、40年前は過去ではなく、これから反芻する「未来」なのだ。
「謎の円盤UFO」の公式サイトには当時のスタッフ俳優が同窓会みたいな感じで集っている映像もあった。皆老け込んでいて、もはやかつての姿はない。
しかし、ネットや記憶の中では、時間の経過は存在しないのだ。
この差は果たして何なのか?
実世界では必ず人は老い、死んでいく。
この生命の法則に逆らう奇妙な感覚は、単に打ち捨てられた人間の儚い妄想でしかないのか。

虚しい反芻はどこまで続くのだろう。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/