高畑勲監督最新作「かぐや姫の物語」を観る
映像鑑賞
先日、高畑勲監督最新作「かぐや姫の物語」を観た。
あまり遅くなると余計な情報が入ってしまうので年内中に劇場に足を運ぶ。
ジブリ映画では久しぶりに面白い作品と出会えた。
「風立ちぬ」の居心地の悪さと対象的に作品の世界観にのめり込めたのは収穫だった。
(これ以降はネタバレが含まれるのでまだ未観賞の方は要注意)
総じた感想は、「自分探し」を拗らせて婚期を失い、最終的に宗教に走った女性の生涯・・と言ったところか。
作品の設定としてはプログラムにも綴られていたが月の王の娘が地球という下界に心を惹かれた挙句、王から罰を与えられた形で地球に落とされ、人間として産み落とされるという話なのだが、現代に当て嵌めればやはり「男より宗教を選択した女の生き様」という印象だ。
それは恰も「火垂るの墓」の主人公が戦時中の世間体において処世術に欠けた結果、悲劇的末路を辿ったのと同じく、現実を省みず、嫁ぐ事を否定した挙句、多くの者を悲劇に導いてしまった「女性版清太」と言えようか。
また、高畑勲が東映動画時代に作った「太陽の王子、ホルスの大冒険」のヒロイン、ヒルダと比較しても面白い。
ヒルダは村の結婚式で花嫁衣装の縫い取りがまったく出来なかった。
それを村人から笑われた時、ヒルダはこう叫んだ。
「刺繍が出来なくたって、私にはもっと出来ることがある!」
そのシーンが「かぐや姫」の立ち居地と非常に似通っている。
つまり通り一遍の専業主婦としての能力に欠けていたとしても、自分には他に長けた能力を持って生きていける点だ。
ヒルダは「悪魔の妹」。
命の恩人たる悪魔グルンワルドから「命の珠」を授かっている。
これがある限り、ヒルダは超常的能力を発揮できる。
つまり平凡な男の所に嫁がなくても生きていけるのだ。
かぐや姫もまた見知らぬ男の下で束縛される位なら「月の王国」に帰って不老不死の身で過ごせる。
だからヒルダもかぐや姫も「男」に依存する必要性はどこにもない。
寂しくても一人、自由に歌を唄って人生を謳歌出来るのである。
しかし、ヒルダは結局、「命の珠」を捨て、グルンワルドを裏切って普通の青年ホルスの下に嫁ぎ、寿命の限られた人間界で暮らすことを選んだ。
それは何よりも「ホルスの大冒険」が作られた1960年代、それが唯一の「幸せのカタチ」に他ならなかったから。
専業主婦と終身雇用が絶対的価値観だったからそれ以外の生き方は望むべくもない。
見合いによる結婚こそが誰もが望む幸せであって、それに疑問をはさむ者は皆無だった社会。
一方、今はどうか?
見合い結婚は姿を消し、専業主婦や終身雇用ももはや絶滅危惧種に近い。
若い女性は男性に依存することを辞め、一人自由に生きる事も可能だ。
だがその果てに本当の幸せはあるのだろうか?
結局人間は何かに依存しなくては生きていけぬ。
それが伴侶かもしれないが、理想的な形で伴侶が見つかる可能性は低い。
そのうち理想が嵩じて非現実的な存在に依存を求め、果ては宗教に帰依する者も増えよう。
だがそれが本当の幸せかは知らない。
結局、周りを不幸に巻き込んでまで得た「幸せ」とは何ぞや?
この映画はそれを観る者に問いかけているのかもしれない。
かぐや姫は「命の珠」を捨てずに一生グルンワルドに帰依したヒルダだ。
高貴で金持ちな貴族や帝からのプロポーズも断り、ホルス同様の自然児、捨丸すら否定した。
生身の男を全て拒絶し、人としての依存を否定し、なによりも「母」になることを否定した。
否、元々母になることが許されない女なのだ。
輪廻を否定し不老不死の月の王族に「母」という概念はないのだから。
どこかしらかぐや姫は綾波レイと似ている。
生身の人間からではなく、神によって産み落とされた女。
それも自らの罰として。
かぐや姫が月に還るということは、地上の現世においては「死」となんら変わらない。
清太もかぐや姫も「依存」を否定した挙句、死んだ。
人は一人では生きていけない。
だからといって専業主婦と終身雇用の時代に戻ることも出来ないのだ。
甲斐性のない男とメルヘンの中で生きる女ばかりが徘徊するこの日本。
そして周りは老人ばかり。
一体どうすればよいのか?
答えはどこにもない。
あまり遅くなると余計な情報が入ってしまうので年内中に劇場に足を運ぶ。
ジブリ映画では久しぶりに面白い作品と出会えた。
「風立ちぬ」の居心地の悪さと対象的に作品の世界観にのめり込めたのは収穫だった。
(これ以降はネタバレが含まれるのでまだ未観賞の方は要注意)
総じた感想は、「自分探し」を拗らせて婚期を失い、最終的に宗教に走った女性の生涯・・と言ったところか。
作品の設定としてはプログラムにも綴られていたが月の王の娘が地球という下界に心を惹かれた挙句、王から罰を与えられた形で地球に落とされ、人間として産み落とされるという話なのだが、現代に当て嵌めればやはり「男より宗教を選択した女の生き様」という印象だ。
それは恰も「火垂るの墓」の主人公が戦時中の世間体において処世術に欠けた結果、悲劇的末路を辿ったのと同じく、現実を省みず、嫁ぐ事を否定した挙句、多くの者を悲劇に導いてしまった「女性版清太」と言えようか。
また、高畑勲が東映動画時代に作った「太陽の王子、ホルスの大冒険」のヒロイン、ヒルダと比較しても面白い。
ヒルダは村の結婚式で花嫁衣装の縫い取りがまったく出来なかった。
それを村人から笑われた時、ヒルダはこう叫んだ。
「刺繍が出来なくたって、私にはもっと出来ることがある!」
そのシーンが「かぐや姫」の立ち居地と非常に似通っている。
つまり通り一遍の専業主婦としての能力に欠けていたとしても、自分には他に長けた能力を持って生きていける点だ。
ヒルダは「悪魔の妹」。
命の恩人たる悪魔グルンワルドから「命の珠」を授かっている。
これがある限り、ヒルダは超常的能力を発揮できる。
つまり平凡な男の所に嫁がなくても生きていけるのだ。
かぐや姫もまた見知らぬ男の下で束縛される位なら「月の王国」に帰って不老不死の身で過ごせる。
だからヒルダもかぐや姫も「男」に依存する必要性はどこにもない。
寂しくても一人、自由に歌を唄って人生を謳歌出来るのである。
しかし、ヒルダは結局、「命の珠」を捨て、グルンワルドを裏切って普通の青年ホルスの下に嫁ぎ、寿命の限られた人間界で暮らすことを選んだ。
それは何よりも「ホルスの大冒険」が作られた1960年代、それが唯一の「幸せのカタチ」に他ならなかったから。
専業主婦と終身雇用が絶対的価値観だったからそれ以外の生き方は望むべくもない。
見合いによる結婚こそが誰もが望む幸せであって、それに疑問をはさむ者は皆無だった社会。
一方、今はどうか?
見合い結婚は姿を消し、専業主婦や終身雇用ももはや絶滅危惧種に近い。
若い女性は男性に依存することを辞め、一人自由に生きる事も可能だ。
だがその果てに本当の幸せはあるのだろうか?
結局人間は何かに依存しなくては生きていけぬ。
それが伴侶かもしれないが、理想的な形で伴侶が見つかる可能性は低い。
そのうち理想が嵩じて非現実的な存在に依存を求め、果ては宗教に帰依する者も増えよう。
だがそれが本当の幸せかは知らない。
結局、周りを不幸に巻き込んでまで得た「幸せ」とは何ぞや?
この映画はそれを観る者に問いかけているのかもしれない。
かぐや姫は「命の珠」を捨てずに一生グルンワルドに帰依したヒルダだ。
高貴で金持ちな貴族や帝からのプロポーズも断り、ホルス同様の自然児、捨丸すら否定した。
生身の男を全て拒絶し、人としての依存を否定し、なによりも「母」になることを否定した。
否、元々母になることが許されない女なのだ。
輪廻を否定し不老不死の月の王族に「母」という概念はないのだから。
どこかしらかぐや姫は綾波レイと似ている。
生身の人間からではなく、神によって産み落とされた女。
それも自らの罰として。
かぐや姫が月に還るということは、地上の現世においては「死」となんら変わらない。
清太もかぐや姫も「依存」を否定した挙句、死んだ。
人は一人では生きていけない。
だからといって専業主婦と終身雇用の時代に戻ることも出来ないのだ。
甲斐性のない男とメルヘンの中で生きる女ばかりが徘徊するこの日本。
そして周りは老人ばかり。
一体どうすればよいのか?
答えはどこにもない。