吉村昭「大本営が震えた日」を読む
読書
今は亡き父親の書庫には吉村昭の著書がたくさん残っている。恐らく全著作そろっているのではないだろうか。
たまに自分もその書庫より徐に吉村昭の本を手に取ことがある。
先日読んだのは「大本営が震えた日」というノンフィクション。
もしかすると以前にも読んだことがあったかもしれないがよく覚えていない。
内容は1941年12月8日の対米戦争開始前夜の話。
全て極秘に進められていた真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦。それは一国の運命が掛かっていた。
もし情報が漏れれば、作戦計画は露呈し、破綻する。
案の定、様々なアクシデントから機密漏洩の危機が訪れた。
このノンフィクション小説はその国運を賭けた機密の保持と漏洩をなんとしても食い止めたい日本大本営の苦悩と逡巡を描いている。
結局、機密保持のために多くの尊い人命が奪われるが、その甲斐あってか奇襲作戦は成功裏に終わる。
あれから70余年。
折りしも国会で「特定秘密保護法」が成立した。
「機密の保護」と「知る権利」。
果たしてどちらを守るべきことなのか?
そこに絶対的な解答は存在しない。
人間社会は常に相対的な存在。環境に応じて生き残る策を探りつつ生きていく。
1941年の開戦前夜、当時日本は「ハルノート」という最後通牒を突きつけられ、大陸からの完全無条件撤退要求と戦略物資の禁輸処置で苦境に立たされていた。
大衆世論は白豪主義の傲慢に怒り、もはや米英との戦争は避けられない、一矢報いねばならないと誰もが思っていたはずだ。
そしてそのための軍隊もある。
当時の民衆にとって「知る権利」など途方もないことだった。
そして「勝つために機密を保護すること」に異を唱える声は皆無に近かったと想像に難くない。
戦争は大衆が支持してこそ成立する。
当時は全世界が戦争という「狂気の祭典」に酔っていた。
それが当時のスタンダードな世界だったのだ。
酔っ払いに正義と平和を説いたところで取合う者は居まい。
それが全体主義だ。
先のフィリピン台風の被災地に、多くの自衛隊が派遣されている。
その映像を観ていささか吃驚する。
ついこの前まで自衛隊の海外派遣はタブー事項だった。
国会で激しく議論され、かなり荒れたことも記憶する。
しかし、1990年代の湾岸戦争、阪神大震災、そして直近の東日本大震災を見るにつけ、自衛隊が内外問わず災害現場で働くことに違和感を抱く日本人は殆ど居ない。
いや、むしろ「ごくろうさま」と声をかけることが当たり前のようになっている。
かつては自衛隊員が電車で移動することすら労働組合によって阻害されたりする例があったことを考えると隔世の感。
更には武器輸出もかなり緩和されるらしい。
以前はこれもタブーだったはずではなかったのか?
ところが今、そのことに異論の声を挙げる世論など聴いたこともない。
自衛隊が「外」で業務展開することは、今の世では常識なのだ。
だが自衛隊が軍隊であることは疑いなく、戦争になれば国土内地で激しい戦闘を繰り広げる組織なのだ。
「秘密保護法」反対のニュースを見ていると集会に集っているのは殆ど老域に入らんとする年齢世代の人たちが目立つ。茶色い服。白髪交じりの髪、曲がった背中。
中には若い世代も幾分かは混じっているだろうが、総じての印象は老人会のリクレーション。
1960年代学生運動華やかなりし頃のデモと比べたら雲泥の差。
あの頃のモーレツなジグザグデモのエネルギーは映像で観ているだけでも威圧感を感じた。
当時は学生の父兄がデモに参加する息子娘に心労したというエピソードがあったが、今は逆なのかもしれない。
だが整然と歩くデモは所詮形骸だ。
人は年を取れば皆臆病となる。
誰もが「秘密保護法」には反対するけど己の生活と引き換えに潰そうとは思っていまい。
しかし、1960年代のデモ隊は命に代えても世界を変えるみたいな意気込みはあったはずだ。
あれは世代間の価値観闘争だった。
だが今のは単にかつての学生運動世代が歳をとっても同じようなことをしているに過ぎない。
60代の人間が「知る権利」云々を叫んだとしても、それは高齢者世代の既得権を守りたいからであって、若い世代の価値観とはまったく関係ないのであろう。
若者はいまでもつんぼ桟敷だ。
世界は若い者が動かしていく。
90年代東欧民主化の際、指導者は叫んだ。
「若者万歳!」
89年の中国民主化運動の象徴だった天安門事件も、その中心は大学生だった。
今でもギリシャやトルコのデモは映像を観ていると若年層中心。
だからあんなに激しい。だから世界のメディアも注目する。
若い男が歴史を動かす。これには疑う余地もない。
その若者が日本から居なくなった今、この国に自らを変えるエネルギーは存在しない。
超少子高齢化とはそういうものだ。
先日、たまたまテープライブラリーに残っていた1989年天安門事件時のニューステープを聴き直してみた。
すると興味深いことに気が付く。
民主化弾圧によって西側諸国から制裁を受けていた中国も、当時は日本との関係を無視することは出来なかった。
それは「改革解放路線」にとって日本からの経済援助が必要不可欠だったからに他ならない。
同時に東欧民主化やソ連邦崩壊直後のロシアも同じ事で、ニュースの中では頻繁に「日本からの経済援助を交渉の議題に」とかいう言葉が飛び交っていた。
そう、当時は圧倒的な経済力が日本の外交カードとして有効に働いていたのを物語っている。
海部とか宮沢とかもう記憶に薄い宰相の名前が出てくるが、そんな存在感のなかった首相の下でも磐石な経済力が日本を支えていた。
そしてそれが四半世紀後の2013年現在、完全に中国に取って代わられていることに愕然とするのだ。
今やその中国が先の大戦の復讐かのごとく日本を威圧し、領土すら奪おうと動き出している。
戦後昭和の高度経済成長を謳歌し、戦後半世紀を安泰に過ごしてきた日本。
しかし、少子高齢化が新たな世代の価値観を育むことなく劣化し、気が付けば強大に膨れ上がった隣の大国に飲み込まれんとしている。
それは日本自身がバブルに浮かれ、破綻し、おぼろげな「核の傘」を盲信し、自らの新たなアイデンティティーを構築してこなかった怠慢に全ての責任がある。
余裕も豊かさも失えばいつしか世情はかつての「知る権利」よりも「勝つための機密保護」に重きを置く事を望むかもしれない。
70年前はアメリカの「ハルノート」。
そして今度は中国の威圧的な力による現状変更。
歴史は繰り返す。
「大本営が震えた日」の最後に著者はこう綴っている。
「陸海軍人230万、一般80万人のおびただしい死者をのみこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。しかもそれは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ」。
だが結局のところ、その戦争を望んだのは紛れもない庶民そのものだった。
たまに自分もその書庫より徐に吉村昭の本を手に取ことがある。
先日読んだのは「大本営が震えた日」というノンフィクション。
もしかすると以前にも読んだことがあったかもしれないがよく覚えていない。
内容は1941年12月8日の対米戦争開始前夜の話。
全て極秘に進められていた真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦。それは一国の運命が掛かっていた。
もし情報が漏れれば、作戦計画は露呈し、破綻する。
案の定、様々なアクシデントから機密漏洩の危機が訪れた。
このノンフィクション小説はその国運を賭けた機密の保持と漏洩をなんとしても食い止めたい日本大本営の苦悩と逡巡を描いている。
結局、機密保持のために多くの尊い人命が奪われるが、その甲斐あってか奇襲作戦は成功裏に終わる。
あれから70余年。
折りしも国会で「特定秘密保護法」が成立した。
「機密の保護」と「知る権利」。
果たしてどちらを守るべきことなのか?
そこに絶対的な解答は存在しない。
人間社会は常に相対的な存在。環境に応じて生き残る策を探りつつ生きていく。
1941年の開戦前夜、当時日本は「ハルノート」という最後通牒を突きつけられ、大陸からの完全無条件撤退要求と戦略物資の禁輸処置で苦境に立たされていた。
大衆世論は白豪主義の傲慢に怒り、もはや米英との戦争は避けられない、一矢報いねばならないと誰もが思っていたはずだ。
そしてそのための軍隊もある。
当時の民衆にとって「知る権利」など途方もないことだった。
そして「勝つために機密を保護すること」に異を唱える声は皆無に近かったと想像に難くない。
戦争は大衆が支持してこそ成立する。
当時は全世界が戦争という「狂気の祭典」に酔っていた。
それが当時のスタンダードな世界だったのだ。
酔っ払いに正義と平和を説いたところで取合う者は居まい。
それが全体主義だ。
先のフィリピン台風の被災地に、多くの自衛隊が派遣されている。
その映像を観ていささか吃驚する。
ついこの前まで自衛隊の海外派遣はタブー事項だった。
国会で激しく議論され、かなり荒れたことも記憶する。
しかし、1990年代の湾岸戦争、阪神大震災、そして直近の東日本大震災を見るにつけ、自衛隊が内外問わず災害現場で働くことに違和感を抱く日本人は殆ど居ない。
いや、むしろ「ごくろうさま」と声をかけることが当たり前のようになっている。
かつては自衛隊員が電車で移動することすら労働組合によって阻害されたりする例があったことを考えると隔世の感。
更には武器輸出もかなり緩和されるらしい。
以前はこれもタブーだったはずではなかったのか?
ところが今、そのことに異論の声を挙げる世論など聴いたこともない。
自衛隊が「外」で業務展開することは、今の世では常識なのだ。
だが自衛隊が軍隊であることは疑いなく、戦争になれば国土内地で激しい戦闘を繰り広げる組織なのだ。
「秘密保護法」反対のニュースを見ていると集会に集っているのは殆ど老域に入らんとする年齢世代の人たちが目立つ。茶色い服。白髪交じりの髪、曲がった背中。
中には若い世代も幾分かは混じっているだろうが、総じての印象は老人会のリクレーション。
1960年代学生運動華やかなりし頃のデモと比べたら雲泥の差。
あの頃のモーレツなジグザグデモのエネルギーは映像で観ているだけでも威圧感を感じた。
当時は学生の父兄がデモに参加する息子娘に心労したというエピソードがあったが、今は逆なのかもしれない。
だが整然と歩くデモは所詮形骸だ。
人は年を取れば皆臆病となる。
誰もが「秘密保護法」には反対するけど己の生活と引き換えに潰そうとは思っていまい。
しかし、1960年代のデモ隊は命に代えても世界を変えるみたいな意気込みはあったはずだ。
あれは世代間の価値観闘争だった。
だが今のは単にかつての学生運動世代が歳をとっても同じようなことをしているに過ぎない。
60代の人間が「知る権利」云々を叫んだとしても、それは高齢者世代の既得権を守りたいからであって、若い世代の価値観とはまったく関係ないのであろう。
若者はいまでもつんぼ桟敷だ。
世界は若い者が動かしていく。
90年代東欧民主化の際、指導者は叫んだ。
「若者万歳!」
89年の中国民主化運動の象徴だった天安門事件も、その中心は大学生だった。
今でもギリシャやトルコのデモは映像を観ていると若年層中心。
だからあんなに激しい。だから世界のメディアも注目する。
若い男が歴史を動かす。これには疑う余地もない。
その若者が日本から居なくなった今、この国に自らを変えるエネルギーは存在しない。
超少子高齢化とはそういうものだ。
先日、たまたまテープライブラリーに残っていた1989年天安門事件時のニューステープを聴き直してみた。
すると興味深いことに気が付く。
民主化弾圧によって西側諸国から制裁を受けていた中国も、当時は日本との関係を無視することは出来なかった。
それは「改革解放路線」にとって日本からの経済援助が必要不可欠だったからに他ならない。
同時に東欧民主化やソ連邦崩壊直後のロシアも同じ事で、ニュースの中では頻繁に「日本からの経済援助を交渉の議題に」とかいう言葉が飛び交っていた。
そう、当時は圧倒的な経済力が日本の外交カードとして有効に働いていたのを物語っている。
海部とか宮沢とかもう記憶に薄い宰相の名前が出てくるが、そんな存在感のなかった首相の下でも磐石な経済力が日本を支えていた。
そしてそれが四半世紀後の2013年現在、完全に中国に取って代わられていることに愕然とするのだ。
今やその中国が先の大戦の復讐かのごとく日本を威圧し、領土すら奪おうと動き出している。
戦後昭和の高度経済成長を謳歌し、戦後半世紀を安泰に過ごしてきた日本。
しかし、少子高齢化が新たな世代の価値観を育むことなく劣化し、気が付けば強大に膨れ上がった隣の大国に飲み込まれんとしている。
それは日本自身がバブルに浮かれ、破綻し、おぼろげな「核の傘」を盲信し、自らの新たなアイデンティティーを構築してこなかった怠慢に全ての責任がある。
余裕も豊かさも失えばいつしか世情はかつての「知る権利」よりも「勝つための機密保護」に重きを置く事を望むかもしれない。
70年前はアメリカの「ハルノート」。
そして今度は中国の威圧的な力による現状変更。
歴史は繰り返す。
「大本営が震えた日」の最後に著者はこう綴っている。
「陸海軍人230万、一般80万人のおびただしい死者をのみこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。しかもそれは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ」。
だが結局のところ、その戦争を望んだのは紛れもない庶民そのものだった。