クラス会に来なかった者達
ラジオ
先日、TBSラジオ伊集院光の番組で光氏自らが参加した中学時代のクラス会について述べていた。
伊集院氏は現在45歳らしい。
クラスメートの中には息子娘に子供が出来て「祖父」になってしまった者も居るとか。
そんなクラス会に参加して、光氏が気になったのは「クラス会に来なかった」学友の事だそうだ。
大抵の場合、クラス会を主催するのは、当時から社交性があって「ヤンチャ」な性格な同級生だと語る。
一方で、クラス会にやってこないのは内向的だったり、いじめられたり、目立たないタイプ。
そんな「クラス会に来なかった」クラスメートで伊集院氏が想いを馳せるのは、駅の改札口でひたすら切符を拾っていた友人だったそうな。
なぜ彼がそんなことをしていたかというと、捨てられた切符の中に遥か遠方の駅で発行されたものがあって、それに惹かれるのだと。
これを聴いて、ふと思ったのだ。
中学校というのは人生において最初の分岐点みたいな場所であると。
コミュニケーション能力があって学力にも恵まれていれば、リアルな世界で自分の立ち位置が明確となり、自ずと学校が教える「大人への階段」を忠実に登っていく事に何の迷いもなかろう。
一方、内向的で成績も振るわず、学友も少なく、存在感が薄い者にとって学校での教えやコミュニケーションは苦痛以外のなにものでもない。
やがて孤立化を深め、己だけの世界に活路を求め始める。
伊集院氏が語った、この切符を拾う「クラス会に来なかった」学友は典型的な後者だ。
自分も、切符は拾わなかったものの、似たり寄ったりだ。
クラスメートとの交流よりも自分の世界にのめり込んでいった。
そして真っ当な大人への階段を踏み外すのである。
自分ももう15年近く前、中学校のクラス会に出たことがあった。
伊集院氏の経験と同様に、主催したのは「リア充」っぽいクラスメートで、自分と気の合いそうな同窓生は誰一人やって来なかった。
話題も、自分にとっては知らない事や覚えていない事ばかりで、取りあえず社交辞令で取り繕うしかなかった。
そう、「クラス会に来なかった」学友たちは果たして何処へ消えたのだろう。
単に都合がつかなかっただけかもしれない。
だが、多くは競争社会から脱落、いや、競争自体に参加することすらなく、この世界から霧散してしまったのだろうか?
クラス会に遣って来る学友は確かに成績も良く、一流企業に就職し、真っ当な結婚をし、子供も居る者が多い。
しかし、彼らは既存の常識人が用意した「大人への階段」をただ忠実に登ってきただけだ。
彼らは堅実ではあるが、絶望的にロマンが欠如している。
だから彼らの浮世話はうんざりするほどつまらない。
自分より格下の者をすげさんで、己のポテンシャルに満足するのだ。
中学校時代、己より成績が下の者を馬鹿にしていた性格がそのまま大人になっているのだ。
すでに自分の学友の中にも「祖父」「祖母」になってもおかしくない年齢に達している。
恐らく「クラス会に来なかった」学友の多くは、就職や結婚にも恵まれず、世捨て人となって、どこか人知れず彷徨っているのかもしれない。
此処まで来ると、もはやこの格差は覆い隠せるものではない。
中学校という「人生最初の分岐点」で進む道を分かち、遂に同窓生という意義すら失って、二度と会うことも思い出すこともなくなるのだ。
「真っ当な社会人」と「世捨て人」。
伊集院氏が語っていた切符を拾っていた学友も、己の世界の中で今尚、改札口の脇に佇んでいるのだろうか。
そして、その幻の切符で誰も知らない地平の果て行きの列車に乗り込み、浮世から消えてゆくのだ。
彼らが赴いた先は何処なのだろう。
少なくとも「真っ当な社会人」には想像も出来ぬ場所に違いない。
もしかすると、本当の明日を創造しているのは「クラス会に来なかった」者達なのかもしれない。
伊集院氏は現在45歳らしい。
クラスメートの中には息子娘に子供が出来て「祖父」になってしまった者も居るとか。
そんなクラス会に参加して、光氏が気になったのは「クラス会に来なかった」学友の事だそうだ。
大抵の場合、クラス会を主催するのは、当時から社交性があって「ヤンチャ」な性格な同級生だと語る。
一方で、クラス会にやってこないのは内向的だったり、いじめられたり、目立たないタイプ。
そんな「クラス会に来なかった」クラスメートで伊集院氏が想いを馳せるのは、駅の改札口でひたすら切符を拾っていた友人だったそうな。
なぜ彼がそんなことをしていたかというと、捨てられた切符の中に遥か遠方の駅で発行されたものがあって、それに惹かれるのだと。
これを聴いて、ふと思ったのだ。
中学校というのは人生において最初の分岐点みたいな場所であると。
コミュニケーション能力があって学力にも恵まれていれば、リアルな世界で自分の立ち位置が明確となり、自ずと学校が教える「大人への階段」を忠実に登っていく事に何の迷いもなかろう。
一方、内向的で成績も振るわず、学友も少なく、存在感が薄い者にとって学校での教えやコミュニケーションは苦痛以外のなにものでもない。
やがて孤立化を深め、己だけの世界に活路を求め始める。
伊集院氏が語った、この切符を拾う「クラス会に来なかった」学友は典型的な後者だ。
自分も、切符は拾わなかったものの、似たり寄ったりだ。
クラスメートとの交流よりも自分の世界にのめり込んでいった。
そして真っ当な大人への階段を踏み外すのである。
自分ももう15年近く前、中学校のクラス会に出たことがあった。
伊集院氏の経験と同様に、主催したのは「リア充」っぽいクラスメートで、自分と気の合いそうな同窓生は誰一人やって来なかった。
話題も、自分にとっては知らない事や覚えていない事ばかりで、取りあえず社交辞令で取り繕うしかなかった。
そう、「クラス会に来なかった」学友たちは果たして何処へ消えたのだろう。
単に都合がつかなかっただけかもしれない。
だが、多くは競争社会から脱落、いや、競争自体に参加することすらなく、この世界から霧散してしまったのだろうか?
クラス会に遣って来る学友は確かに成績も良く、一流企業に就職し、真っ当な結婚をし、子供も居る者が多い。
しかし、彼らは既存の常識人が用意した「大人への階段」をただ忠実に登ってきただけだ。
彼らは堅実ではあるが、絶望的にロマンが欠如している。
だから彼らの浮世話はうんざりするほどつまらない。
自分より格下の者をすげさんで、己のポテンシャルに満足するのだ。
中学校時代、己より成績が下の者を馬鹿にしていた性格がそのまま大人になっているのだ。
すでに自分の学友の中にも「祖父」「祖母」になってもおかしくない年齢に達している。
恐らく「クラス会に来なかった」学友の多くは、就職や結婚にも恵まれず、世捨て人となって、どこか人知れず彷徨っているのかもしれない。
此処まで来ると、もはやこの格差は覆い隠せるものではない。
中学校という「人生最初の分岐点」で進む道を分かち、遂に同窓生という意義すら失って、二度と会うことも思い出すこともなくなるのだ。
「真っ当な社会人」と「世捨て人」。
伊集院氏が語っていた切符を拾っていた学友も、己の世界の中で今尚、改札口の脇に佇んでいるのだろうか。
そして、その幻の切符で誰も知らない地平の果て行きの列車に乗り込み、浮世から消えてゆくのだ。
彼らが赴いた先は何処なのだろう。
少なくとも「真っ当な社会人」には想像も出来ぬ場所に違いない。
もしかすると、本当の明日を創造しているのは「クラス会に来なかった」者達なのかもしれない。