9月の妄言
日常
9月というのにまだまだ暑い。今日も東京は33C位か?
この夏は積乱雲が青空に生えて絵になっていた。夕景も美しい。
秋の釣瓶落しの時刻、 駅に通じる商店街の街灯に吊るされた祭り堤燈の灯りを見ていると「千と千尋の神隠し」の世界に迷い込んだような気がする。
いや、元々己の人生などずっと迷宮の中を彷徨っているようなものだ。今更驚くこともあるまい。
蝉も秋の虫も雄達が必死になって雌を誘うため身をすり減らして鳴いている。
が、人生の黄昏を迎えんとする今、己はいったい何をやっているのか・・。
先日、BSで『俺たちの旅』だったか、1970年代初頭に制作された吉祥寺を舞台とした青春群像(死語)みたいなドラマを放映していた。
その中でエリートビジネスマンが、主人公たちの「何でも屋」みたいな振る舞いを見て一喝するシーンがあった。
「お前らみたいないい加減な事が出来るのも俺たちが頑張って日本経済を背負っているからだ!」
当時は、まだまだ高度成長期の延長上。
終身雇用も専業主婦も当たり前だった。
そんな時代に、今で言う「フリーター」みたいな生き方をしている若者は、まさに「けしからん」存在だったのだろう。
この回のエピソードはエリートビジネスマンの部下が浮世に現を抜かし、人生転落しかかったのを引き戻させたはいいが、会社のために人生賭けた挙句、失うモノもあって大変だみたいな話。
最後の〆に「あなたはニッポンの経済と愛とどちらが大切ですか?」みたいなテロップが出て終わる。
飛ぶ鳥を落とす勢いのエコノミックアニマル、ジャパンバッシングたけなわの頃のドラマだからこんなエピソードが成立したのだろう。
だが日本にかつての勢いがなくなった今日から見ると、世の中に反抗して好きで「フリーター」家業出来た時代が羨ましくも滑稽に映る。
今や、致し方なく「フリーター」になってしまう若年層にビジネスマンかフリーターかの選択肢はないのだから。
このドラマの主人公たちは、ちょうど自分と同じく1970年代に青春期を過ごした世代。
コンビニもパソコンもスマートフォンもなかった。
このドラマのエピソードは、現代の「3種の神器」さえば、あっさり解決してしまうような出来事に四苦八苦しているのだ。
連絡が取れない故の行き違いや情報不足、生身故の露骨な人間関係の衝突、24時間は明確な昼夜があって夜中には何も存在していない故の葛藤など等。
今だったら「ミクシーとツイッターとフェイスブック見れば全部わかるからよろしく。ちょっとコンビニいってきまーす。」の一言で終わってしまおう。あとはそれぞれ引き篭もっていればよろしい。
ドラマは15秒でエンディングだ。
もう生身の人間同士の葛藤は必要なくなった。
必死になって働く事も浮世で切磋琢磨することも、そんな疲れることは誰も望まない。
人に愛し愛される事にのた打ち回り、生涯会社に人生賭ける競争時代は遠く過ぎてしまったのだ。
「ニッポンの経済」も「愛」もどこかに霧散し、ただ微温湯の様な堕ちていくだけの日常があるだけ。
競争する事は無意味だ。
なぜならば競う前に優劣は決まっているからね。
パラリンピックは殆ど観ないまま終わったようだ。
自分は障害者の競技を観ても感動することが出来ない人間。
彼らは確かに障害を負っているが、同時に彼らにはお金がある。
財力なしにあのような立場に這い上がる事は出来ない。
障害者の99パーセントは、ただひたすらに絶望の人生を歩むしかなかろう。
本人も介護補佐する者にとっても人生は地獄に近い。
パラリンピックを視たからといって彼らが救われる訳でもない。
ほんの僅かな恵まれた者の嗜みでしかないのがパラリンピック。
ハンディーを背負った者が高名な地位に立てることは稀有だ。
社会に順応出来ず、芸の道を歩んだとしても、成功に辿り着く者はほんの一握り。
いじめられた者、疎外された者、脱落した者、順応できない者、障害を持つ者、その大半が苦渋に満ちた末路に堕ちていくしかないんだと、歳を重ねるごとに確信を持てるようになった。
問題は如何に楽に生涯を終えるかだけ。
辛いという言葉以外に何があるだろうか。
だからパラリンピックで障害者が救われるみたいな構図は好きになれない。
あれはただの特権階級に過ぎないのだ。
かつてJR中央線は甲武鉄道と呼ばれ、そのルート設定に難航したという。
理由は周辺住民が未知なる交通機関に恐怖と懐疑心を抱いて反対したかららしい。
同時にかつての大航海時代。
ヨーロッパ人が帆船で太平洋の島々を訪れた時、現地の人々はその高いマストを見て恐れおののき、あるいは伝説の神が遂に降臨したのだと信じ、激しく動揺したという。
今、オスプレイ反対のニュースを見ているとそれと感覚が似ていることに気が付く。
未開人が見たこともない奇怪な機械に対し、恐れおののく様子と殆ど変わらない。
オスプレイは確かに従来の航空機にはない独特な機能を有す。
しかしそれは航空工学の発展故であり、魔法でも何でもない。
どんな航空機でも開発途上では事故も多発する。オスプレイも例外ではなかろう。
しかしそんな普遍的な文明の利器を、恰も「魔人が操る奇怪な道具」の如く反対する様は異様だ。
あれを観た欧米人は日本人の事をどう思うだろう。
失笑を買う事はあるにしろ、尊敬はされまい。
密集地の中にある基地に配備されることが危険というのならば、ありとあらゆる航空機は危険だ。
「安全が担保される」航空機などありえない。
機械は必ず故障し事故を起す。
危険というのなら、家の側を走るパチンコ屋に急ぐ車のほうが余程怖い。
補償能力のない人間が運転する自動車に轢かれた方がオスプレイの墜落で命を失うよりよっぽど悲惨だ。
少なくとも平時に軍用機の事故に巻き込まれたら、国家は相当額を犠牲者や遺族に賠償するだろう。
更に頻度は極々低い。
一方、低所得者の車に轢かれる頻度はその何倍か?
でも「低所得者は車に乗るな」なんていう反対運動は聞いた事がない。
「昔エンタープライズ、今オスプレイ」
結局のところ、これは安全とか危険というレベルではないのだろう。
全ての文明の利器は光と影がある。
垂直離陸機だろうが原発だろうが、必ずいつかは事故を起す。
それ全て含めて「文明の利器」なのだ。
危険なものを全て排除したいのならば「文明の利器」を捨てればよい。
そして肉食動物に恐れ慄きながらビクビクと木の上で暮らせばよいのだ。
それが出来ないのは誰にだって解っている。
にも拘らず、「反対」を声高に叫ぶのは他意があるからだ。
エンタープライズも原発もオスプレイも反対を叫んだところでこの世から消えてなくなる事はない。
反対を扇動している者も先刻承知だろう。
それ自体、どうでもいいのである。
真の目的はこれらを憑代にして「祀り事」を立ち上げる事にある。
憑代とは「神霊が寄りつくもの。神霊は物に寄りついて示現(じげん)されるという考えから、憑依(ひょうい)物としての樹木・岩石・動物・御幣など」とある。
神官はオスプレイに悪霊が取り付いていて禍を齎すものなのだと説き、民を扇動する。
そして「祀り事」が始まる。
「祀り」には人が集い、民は悪霊退散を祈願するため勧んで財を神官たちに提供する。
神官は叫ぶ!
「オスプレイには悪魔が取りついておる!さあ!者どもよ!悪霊が乗り移った悪魔の飛行体を追い払うのじゃ!」
彼らにとってオスプレイは神輿と同じ。
ワッショイワッショイと神輿を担いで最後には神殿の前で火を掛けて禍を昇華させ、祭りは最高潮に。
神官は民達の「お布施」で潤い、民は安心を得るという構図だ。
日本は遥か縄文の時代から何も変わっていない。
憑代が土器か原発か航空母艦か垂直離陸機の差だけなのだ。
こう考えると解りやすい。
外から齎された奇怪なものを利用して利を得るのは日本民族の専売特許だ。
それに乗り遅れると「村八分」にされて、この国では生きていけない。
駅からの帰り、商店街の街灯に吊るされた祭り堤燈が語りかけてきた。
「人生の敗北者よ。お前には何も残っていない。
1970年代の常識だった終身雇用にも乗り遅れ、専業主婦の妻を娶ることにも失した。
財力もないからマイノリティーのルサンチマンも発揮する事が出来ない。
かといって憑代に憑依した悪霊退散のお祭に参加するほど割り切れもしない。
お前はどこに行っても居場所がないのだ。
いつまでもお前は絶望のままだ。
例によって下らない己のブログで駄文でも綴って貴重な人生をすり減らしていろ!」
自分は「ひいー」と叫んで一目散に商店街から逃げ出した。
空はムンクの『叫び』の如き真っ赤な黄昏色であった。

この夏は積乱雲が青空に生えて絵になっていた。夕景も美しい。
秋の釣瓶落しの時刻、 駅に通じる商店街の街灯に吊るされた祭り堤燈の灯りを見ていると「千と千尋の神隠し」の世界に迷い込んだような気がする。
いや、元々己の人生などずっと迷宮の中を彷徨っているようなものだ。今更驚くこともあるまい。
蝉も秋の虫も雄達が必死になって雌を誘うため身をすり減らして鳴いている。
が、人生の黄昏を迎えんとする今、己はいったい何をやっているのか・・。
先日、BSで『俺たちの旅』だったか、1970年代初頭に制作された吉祥寺を舞台とした青春群像(死語)みたいなドラマを放映していた。
その中でエリートビジネスマンが、主人公たちの「何でも屋」みたいな振る舞いを見て一喝するシーンがあった。
「お前らみたいないい加減な事が出来るのも俺たちが頑張って日本経済を背負っているからだ!」
当時は、まだまだ高度成長期の延長上。
終身雇用も専業主婦も当たり前だった。
そんな時代に、今で言う「フリーター」みたいな生き方をしている若者は、まさに「けしからん」存在だったのだろう。
この回のエピソードはエリートビジネスマンの部下が浮世に現を抜かし、人生転落しかかったのを引き戻させたはいいが、会社のために人生賭けた挙句、失うモノもあって大変だみたいな話。
最後の〆に「あなたはニッポンの経済と愛とどちらが大切ですか?」みたいなテロップが出て終わる。
飛ぶ鳥を落とす勢いのエコノミックアニマル、ジャパンバッシングたけなわの頃のドラマだからこんなエピソードが成立したのだろう。
だが日本にかつての勢いがなくなった今日から見ると、世の中に反抗して好きで「フリーター」家業出来た時代が羨ましくも滑稽に映る。
今や、致し方なく「フリーター」になってしまう若年層にビジネスマンかフリーターかの選択肢はないのだから。
このドラマの主人公たちは、ちょうど自分と同じく1970年代に青春期を過ごした世代。
コンビニもパソコンもスマートフォンもなかった。
このドラマのエピソードは、現代の「3種の神器」さえば、あっさり解決してしまうような出来事に四苦八苦しているのだ。
連絡が取れない故の行き違いや情報不足、生身故の露骨な人間関係の衝突、24時間は明確な昼夜があって夜中には何も存在していない故の葛藤など等。
今だったら「ミクシーとツイッターとフェイスブック見れば全部わかるからよろしく。ちょっとコンビニいってきまーす。」の一言で終わってしまおう。あとはそれぞれ引き篭もっていればよろしい。
ドラマは15秒でエンディングだ。
もう生身の人間同士の葛藤は必要なくなった。
必死になって働く事も浮世で切磋琢磨することも、そんな疲れることは誰も望まない。
人に愛し愛される事にのた打ち回り、生涯会社に人生賭ける競争時代は遠く過ぎてしまったのだ。
「ニッポンの経済」も「愛」もどこかに霧散し、ただ微温湯の様な堕ちていくだけの日常があるだけ。
競争する事は無意味だ。
なぜならば競う前に優劣は決まっているからね。
パラリンピックは殆ど観ないまま終わったようだ。
自分は障害者の競技を観ても感動することが出来ない人間。
彼らは確かに障害を負っているが、同時に彼らにはお金がある。
財力なしにあのような立場に這い上がる事は出来ない。
障害者の99パーセントは、ただひたすらに絶望の人生を歩むしかなかろう。
本人も介護補佐する者にとっても人生は地獄に近い。
パラリンピックを視たからといって彼らが救われる訳でもない。
ほんの僅かな恵まれた者の嗜みでしかないのがパラリンピック。
ハンディーを背負った者が高名な地位に立てることは稀有だ。
社会に順応出来ず、芸の道を歩んだとしても、成功に辿り着く者はほんの一握り。
いじめられた者、疎外された者、脱落した者、順応できない者、障害を持つ者、その大半が苦渋に満ちた末路に堕ちていくしかないんだと、歳を重ねるごとに確信を持てるようになった。
問題は如何に楽に生涯を終えるかだけ。
辛いという言葉以外に何があるだろうか。
だからパラリンピックで障害者が救われるみたいな構図は好きになれない。
あれはただの特権階級に過ぎないのだ。
かつてJR中央線は甲武鉄道と呼ばれ、そのルート設定に難航したという。
理由は周辺住民が未知なる交通機関に恐怖と懐疑心を抱いて反対したかららしい。
同時にかつての大航海時代。
ヨーロッパ人が帆船で太平洋の島々を訪れた時、現地の人々はその高いマストを見て恐れおののき、あるいは伝説の神が遂に降臨したのだと信じ、激しく動揺したという。
今、オスプレイ反対のニュースを見ているとそれと感覚が似ていることに気が付く。
未開人が見たこともない奇怪な機械に対し、恐れおののく様子と殆ど変わらない。
オスプレイは確かに従来の航空機にはない独特な機能を有す。
しかしそれは航空工学の発展故であり、魔法でも何でもない。
どんな航空機でも開発途上では事故も多発する。オスプレイも例外ではなかろう。
しかしそんな普遍的な文明の利器を、恰も「魔人が操る奇怪な道具」の如く反対する様は異様だ。
あれを観た欧米人は日本人の事をどう思うだろう。
失笑を買う事はあるにしろ、尊敬はされまい。
密集地の中にある基地に配備されることが危険というのならば、ありとあらゆる航空機は危険だ。
「安全が担保される」航空機などありえない。
機械は必ず故障し事故を起す。
危険というのなら、家の側を走るパチンコ屋に急ぐ車のほうが余程怖い。
補償能力のない人間が運転する自動車に轢かれた方がオスプレイの墜落で命を失うよりよっぽど悲惨だ。
少なくとも平時に軍用機の事故に巻き込まれたら、国家は相当額を犠牲者や遺族に賠償するだろう。
更に頻度は極々低い。
一方、低所得者の車に轢かれる頻度はその何倍か?
でも「低所得者は車に乗るな」なんていう反対運動は聞いた事がない。
「昔エンタープライズ、今オスプレイ」
結局のところ、これは安全とか危険というレベルではないのだろう。
全ての文明の利器は光と影がある。
垂直離陸機だろうが原発だろうが、必ずいつかは事故を起す。
それ全て含めて「文明の利器」なのだ。
危険なものを全て排除したいのならば「文明の利器」を捨てればよい。
そして肉食動物に恐れ慄きながらビクビクと木の上で暮らせばよいのだ。
それが出来ないのは誰にだって解っている。
にも拘らず、「反対」を声高に叫ぶのは他意があるからだ。
エンタープライズも原発もオスプレイも反対を叫んだところでこの世から消えてなくなる事はない。
反対を扇動している者も先刻承知だろう。
それ自体、どうでもいいのである。
真の目的はこれらを憑代にして「祀り事」を立ち上げる事にある。
憑代とは「神霊が寄りつくもの。神霊は物に寄りついて示現(じげん)されるという考えから、憑依(ひょうい)物としての樹木・岩石・動物・御幣など」とある。
神官はオスプレイに悪霊が取り付いていて禍を齎すものなのだと説き、民を扇動する。
そして「祀り事」が始まる。
「祀り」には人が集い、民は悪霊退散を祈願するため勧んで財を神官たちに提供する。
神官は叫ぶ!
「オスプレイには悪魔が取りついておる!さあ!者どもよ!悪霊が乗り移った悪魔の飛行体を追い払うのじゃ!」
彼らにとってオスプレイは神輿と同じ。
ワッショイワッショイと神輿を担いで最後には神殿の前で火を掛けて禍を昇華させ、祭りは最高潮に。
神官は民達の「お布施」で潤い、民は安心を得るという構図だ。
日本は遥か縄文の時代から何も変わっていない。
憑代が土器か原発か航空母艦か垂直離陸機の差だけなのだ。
こう考えると解りやすい。
外から齎された奇怪なものを利用して利を得るのは日本民族の専売特許だ。
それに乗り遅れると「村八分」にされて、この国では生きていけない。
駅からの帰り、商店街の街灯に吊るされた祭り堤燈が語りかけてきた。
「人生の敗北者よ。お前には何も残っていない。
1970年代の常識だった終身雇用にも乗り遅れ、専業主婦の妻を娶ることにも失した。
財力もないからマイノリティーのルサンチマンも発揮する事が出来ない。
かといって憑代に憑依した悪霊退散のお祭に参加するほど割り切れもしない。
お前はどこに行っても居場所がないのだ。
いつまでもお前は絶望のままだ。
例によって下らない己のブログで駄文でも綴って貴重な人生をすり減らしていろ!」
自分は「ひいー」と叫んで一目散に商店街から逃げ出した。
空はムンクの『叫び』の如き真っ赤な黄昏色であった。
