「原発」「いじめ」と銘打った神社の秋祭り

報道
08 /23 2012
かつての原始農業は野焼きが基本だったように記憶する。
それがなくなったのは別に自然環境保全運動の成果ではなく、野焼きにとってかわる農法が編み出されたからだろうと想像に難くない。
かつての日本の主要輸出産業は養蚕だった。しかし今は見る影もない。
これも「お蚕様がかわいそうだ」という愛護運動が実ったせいではない。それにとって代わる産業が勃興しただけである。

今、騒がれている「原発」や「いじめ」も、それにとって代わる「何か」が生まれれば一夜にして消え去る事はないにしても、徐々に表舞台から遠のいていくだろう。
だから「脱原発」というスタンスは現状では非現実的であっても理解は出来る。
自分も昨年は友人に誘われて「脱原発」のデモに行ったこともあった。

しかし、いつしか「脱原発」は「反原発」に宗旨替えさせられ、旧態依然な「反権力市民運動」という名の既得権に飲み込まれていった。
「いじめ」もまた、同じような守旧的既得権者の道具として弄ばれているかのようだ。

「いじめ」は日本という村社会においては必須の土着風習となっており、根底から社会を代えない限り、なくなることはない。
旧日本軍も高度成長期のサラリーマンも「いじめ」という名の起爆剤で突撃させられた。
「いじめ」は日本の専売特許である。
マスコミは「いじめをなくそう」とか盛んにキャンペーンしているが、その一方で「いじめ」で成り立っているような高校野球を賛美奨励している。
「いじめ」の根源を是としている訳だから本気で「いじめ」をなくそうなんて思ってはいないのだ。

「反原発」も「いじめ撲滅キャンペーン」もそれ自体が本来の目的から離反して、単なる既得権を行使する営利団体と化している。

本当に原発をなくしたいのなら、膨大なお金と時間、人材を投入して新エネルギー開発に邁進しなければならない。かつての「マンハッタン計画」のようにね。
本当にいじめをなくしたいのなら、同じように根本から日本の社会制度を変えなければいけない。

しかし、それを訴える人たちの声は殆ど聞かれない。

今、やっていることは「原発」「いじめ」と銘打った神社の秋祭りだ。
なにやらワイワイ騒がしいので人が集まってくる。
するとそこに商売が成り立つと踏んだ者たちが屋台を組むのだ。
その屋台に掲げられた幟には「おいしい反原発運動」とか「楽しいいじめ撲滅キャンペーン」とか記されていて、祭りにあつまってきた群衆が「ちょっと覗いてみるか?」と屋台に立ち寄るといった仕掛けである。
その祭りの元締めがマスコミであって、屋台から場所代を徴収して利益を上げようと奔走する。
芸能人や有名人もこの祭りに乗じて何か物言えばギャラももらえるし、知名度も上がるという算段だ。

所詮そんなものである。
実際、いじめられている者や福島の原発周辺の住民の苦悩などそっちのけでお祭に興じているだけのこと。
「新エネルギー開拓」や「社会の構造改革」など何も語られず、ただドンちゃん騒ぎしたいがための理由付け。
本質的な解決には何も繋がらない。
やがて人々は「原発」「いじめ」にも飽きよう。
すれば、宗旨替えして別のところで似たような祭りが始まるだけだ。

この祭りの構図こそが日本そのものを象徴しているのではないか。
「原発」「いじめ」を祭壇に備え、生贄の儀をやっているようなもの。
そこで人は飲み食いして浮世を忘れるのである。
所詮、日本の底流にはそんな原始土着宗教が息づいているのだ。

誰もが生贄にはなりたくないが、生贄なしには成り立たない。
それが日本。
そんなお祭に参加するしないは自由。
しかし、参加しなければ「村八分」にあって「いじめ」の対象にされ、生贄として吊るされるかもしれない。
だから、みんなお祭に参加するのだ。

あと一ヶ月もすれば秋祭りだなあ。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/