「戦争娯楽映画」に想う
日常
1960~70年代ごろの史実に基づいた戦争映画大作をたまに思い出したように観ることがある。
これらの作品は公開当時「戦争娯楽」という形容詞がついていたような記憶がある。
戦争と娯楽は相容れない気がするが、当時は別段気にもしなかった。
「史上最大の作戦」や「空軍大戦略」、「バルジ大作戦」、「パットン大戦車軍団」、「トラトラトラ」などの超大作はみんな「戦争娯楽映画」として上映されていた。
今、普通に思えば不謹慎に聞こえる。
だがよく考えてみると1970年は第2次世界大戦が終わってから25年しか経っていない。
映画制作者も監督も俳優も脚本家も、そして観客もまだまだ戦争体験者で占められていた時代。
戦争をまったく知らぬ者が戦争と娯楽をくっつけて興行していたというのなら解るが、むしろ戦争を知り尽くしていた世代が普通に使っていたのだ。
時は移り、70年代から80年代頃には「ディアハンター」などのベトナム戦争を題材とした反戦作品が目立った。そして最近は「プライベートライアン」など、個人の視線から描いた第2次大戦物の戦争映画が製作される傾向が目立つようだ。
だが最近の戦争映画は決して「戦争娯楽作品」とは形容されない。
2012年は第2次世界大戦が終了してから67年。
もはや戦争体験者は限りなく少数派となった。
にも拘らず「戦争娯楽」なんて評すれば非難の嵐が何処からともなく飛んでくる。
近年はあまり史実に基づいた戦争大作映画は撮られない。
特に大局に視点を据えた作品はもう殆ど聞かない。
近年の第2次大戦ものはCGを駆使してリアルな戦場を再現してはいるが、どことなくうそ臭い。
対して1960~70年代の「戦争娯楽大作」は確かに今日のデジタル画像処理映像に比べれば稚拙なシーンは多々ある。
しかし、戦争当時使っていたオリジナルの兵器などが登場するシーンは圧倒的だ。
即ち、それは本物だから。
今日どんなにCGで再現しようとも本物のリアリティーには敵わない。
また、映画に携わっている監督、俳優も戦争経験者であるし、衣装も仕立ても当時のオリジナルに近い造りになっているはずだ。
何よりもストーリーが史実に基づいて描かれており、「歴史資料」として観ても遜色ない。
真珠湾攻撃を描いた『トラトラトラ』しかり。
それに比べれば近年の『パールハーバー』は荒唐無稽極まりないC級映画と成り果てている。
娯楽性でいえば余程こちらのほうが強い。
「戦争」をリアルな表現対象として考える時、当然作り手が戦争を体験しているほど有利なはずだ。
にも拘らず、戦争を知る世代が多かった時代ほど戦争に娯楽を結びつけていた事実。
それはなぜか?
無論、フィクションとしての「戦争」という定義を敢えて強調しなければならぬ「大人の事情」もあったであろう。
しかし、理由はそれだけではあるまい。
当然の事ながら、戦争は国家間の闘争だ。
そこに個人の意思など入る隙間はない。
国民はプロパガンダに扇動されて、まるで催眠術に掛かったように血を滾らせて闘争に邁進する。
それは巨大な魂の祭典みたいなものだ。
人の生死も平時のそれとはまったく違う。
人は勧んで己の魂を国に捧げた。
一種のトランス状態の中で人は自ら「名誉の戦死」を選択する。
戦争という状況は、祭そのものだ。
人は神輿の上に乗ってしまえばいくらでも危険なことが出来てしまう。
戦争と娯楽は紙一重だ。
それを知っているから、1970年頃までの戦争映画は娯楽と称されることに何ら抵抗はなかったのだろう。
大戦終了から約70年。
人は戦争から祭りの要素があることを忘れ、何だか得体の知れない恐怖だけを描くようになった。
CGを駆使して凄惨な場面をいくら再現しようとも、所詮は虚構でしかない。
トランス状態の兵士、一般市民にとって何十万人、何百万人死のうと、それは平時の人の死とはまったく違う。
勝利のためには犠牲を厭わなくなるのだ。
その「異常性」を無視して戦争を描くとただの無意味な残酷シーンの羅列で終わってしまう。
特に最近の戦争物はそうだ。
そもそも個人の目から見た戦争なるものは存在しない。
戦争は常に集団心理によるトランス状態。
その状況下で冷静に戦争の意味なんかを考える時間的余裕も空間もない。
皮肉な事に戦争を局所的にリアリティーに描けば描くほど実際の戦争とはかけ離れていく。
戦争が残酷なだけであれば誰も武器を取ったりなどしないし扇動に乗っかったりもしない。
1960年代の戦争映画の中に描かれる生身の人間のモブシーンを観ているとあれこそ「戦争の本質」ではないかと思ってしまう。
産業革命以降、爆発的人口増加が人類の発展と闘争に火を着けたのは疑いがない。
世界大戦もその必然であった。
加えて戦後の高度成長もまた、その余勢の結果でもある。
だが、21世紀を迎えて少子高齢化、人口減となった今、この流れは停滞し、やがて逆流し始める。
戦争だけに拘わらず、科学技術の発展もまた爆発的人口増加に支えられてきた。
原子力も然り。
1960年代の原発建設記録映画などを観ると無垢なほど希望に溢れている。
何の疑いもなく未来に前向きであり、未来建設のためなら多少の犠牲も厭わないという気概が窺える。
福島原発も建設当時は、これが2012年まで稼動しているとは誰も思っていまい。
これはゴールではなく、次の一歩に過ぎないのだから。
その科学技術信仰は戦争のそれと似通っている。
映像から洩れ出る息吹はまさに「戦争娯楽映画」に近い。
それから半世紀弱が経過した。
今や誰も彼もが後ろ向きだ。
原子力にしても過去の技術にしがみ付くだけで新たな革新的展望のないままに継続運用するしかない。
半世紀前の技術で作られた原子炉を未だ使うしかないのだからね。
一方で「脱原発」を叫べど代替エネルギーの革新的開拓を推し進める声はあまり聞かれない。
だからといって今更、電力のない生活を是認しようという訳でもない。
どっちにせよ過去にしがみ付き、現状の維持しか往きべき道がなくなった。
新たな革新的技術は多大な犠牲と膨大な資金、全国民のポジティブな総意がなければ為しえない。
「原発推進」にしろ「代替エネルギー開発」にしろ、これは必須条件。
それはすなわち戦争と同じだ。
これらは人口増の中、若年層が大半を占める状況でなければ生まれない。
しかし、今日の少子高齢化、人口減の世界ではそれを望む事は絶望的だ。
誰も犠牲を払いたくないし、危険を冒したくない。
即ちそれは何もしない事と同じ。
そのうち過去の技術の維持管理さえ破綻がやってきて人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す時が来るだろう。
もう全てが手遅れだ。
1960年代の「戦争娯楽映画」の中に封入されたポジティブなエネルギー。
良くも悪くもそのエネルギーが未来を築いた。
それがなくなった今、人々はもう前に進む事が出来ない。
引き潮に浚われるように、皆深海の底へ堕ちていくのだ。
終局は近い。
これらの作品は公開当時「戦争娯楽」という形容詞がついていたような記憶がある。
戦争と娯楽は相容れない気がするが、当時は別段気にもしなかった。
「史上最大の作戦」や「空軍大戦略」、「バルジ大作戦」、「パットン大戦車軍団」、「トラトラトラ」などの超大作はみんな「戦争娯楽映画」として上映されていた。
今、普通に思えば不謹慎に聞こえる。
だがよく考えてみると1970年は第2次世界大戦が終わってから25年しか経っていない。
映画制作者も監督も俳優も脚本家も、そして観客もまだまだ戦争体験者で占められていた時代。
戦争をまったく知らぬ者が戦争と娯楽をくっつけて興行していたというのなら解るが、むしろ戦争を知り尽くしていた世代が普通に使っていたのだ。
時は移り、70年代から80年代頃には「ディアハンター」などのベトナム戦争を題材とした反戦作品が目立った。そして最近は「プライベートライアン」など、個人の視線から描いた第2次大戦物の戦争映画が製作される傾向が目立つようだ。
だが最近の戦争映画は決して「戦争娯楽作品」とは形容されない。
2012年は第2次世界大戦が終了してから67年。
もはや戦争体験者は限りなく少数派となった。
にも拘らず「戦争娯楽」なんて評すれば非難の嵐が何処からともなく飛んでくる。
近年はあまり史実に基づいた戦争大作映画は撮られない。
特に大局に視点を据えた作品はもう殆ど聞かない。
近年の第2次大戦ものはCGを駆使してリアルな戦場を再現してはいるが、どことなくうそ臭い。
対して1960~70年代の「戦争娯楽大作」は確かに今日のデジタル画像処理映像に比べれば稚拙なシーンは多々ある。
しかし、戦争当時使っていたオリジナルの兵器などが登場するシーンは圧倒的だ。
即ち、それは本物だから。
今日どんなにCGで再現しようとも本物のリアリティーには敵わない。
また、映画に携わっている監督、俳優も戦争経験者であるし、衣装も仕立ても当時のオリジナルに近い造りになっているはずだ。
何よりもストーリーが史実に基づいて描かれており、「歴史資料」として観ても遜色ない。
真珠湾攻撃を描いた『トラトラトラ』しかり。
それに比べれば近年の『パールハーバー』は荒唐無稽極まりないC級映画と成り果てている。
娯楽性でいえば余程こちらのほうが強い。
「戦争」をリアルな表現対象として考える時、当然作り手が戦争を体験しているほど有利なはずだ。
にも拘らず、戦争を知る世代が多かった時代ほど戦争に娯楽を結びつけていた事実。
それはなぜか?
無論、フィクションとしての「戦争」という定義を敢えて強調しなければならぬ「大人の事情」もあったであろう。
しかし、理由はそれだけではあるまい。
当然の事ながら、戦争は国家間の闘争だ。
そこに個人の意思など入る隙間はない。
国民はプロパガンダに扇動されて、まるで催眠術に掛かったように血を滾らせて闘争に邁進する。
それは巨大な魂の祭典みたいなものだ。
人の生死も平時のそれとはまったく違う。
人は勧んで己の魂を国に捧げた。
一種のトランス状態の中で人は自ら「名誉の戦死」を選択する。
戦争という状況は、祭そのものだ。
人は神輿の上に乗ってしまえばいくらでも危険なことが出来てしまう。
戦争と娯楽は紙一重だ。
それを知っているから、1970年頃までの戦争映画は娯楽と称されることに何ら抵抗はなかったのだろう。
大戦終了から約70年。
人は戦争から祭りの要素があることを忘れ、何だか得体の知れない恐怖だけを描くようになった。
CGを駆使して凄惨な場面をいくら再現しようとも、所詮は虚構でしかない。
トランス状態の兵士、一般市民にとって何十万人、何百万人死のうと、それは平時の人の死とはまったく違う。
勝利のためには犠牲を厭わなくなるのだ。
その「異常性」を無視して戦争を描くとただの無意味な残酷シーンの羅列で終わってしまう。
特に最近の戦争物はそうだ。
そもそも個人の目から見た戦争なるものは存在しない。
戦争は常に集団心理によるトランス状態。
その状況下で冷静に戦争の意味なんかを考える時間的余裕も空間もない。
皮肉な事に戦争を局所的にリアリティーに描けば描くほど実際の戦争とはかけ離れていく。
戦争が残酷なだけであれば誰も武器を取ったりなどしないし扇動に乗っかったりもしない。
1960年代の戦争映画の中に描かれる生身の人間のモブシーンを観ているとあれこそ「戦争の本質」ではないかと思ってしまう。
産業革命以降、爆発的人口増加が人類の発展と闘争に火を着けたのは疑いがない。
世界大戦もその必然であった。
加えて戦後の高度成長もまた、その余勢の結果でもある。
だが、21世紀を迎えて少子高齢化、人口減となった今、この流れは停滞し、やがて逆流し始める。
戦争だけに拘わらず、科学技術の発展もまた爆発的人口増加に支えられてきた。
原子力も然り。
1960年代の原発建設記録映画などを観ると無垢なほど希望に溢れている。
何の疑いもなく未来に前向きであり、未来建設のためなら多少の犠牲も厭わないという気概が窺える。
福島原発も建設当時は、これが2012年まで稼動しているとは誰も思っていまい。
これはゴールではなく、次の一歩に過ぎないのだから。
その科学技術信仰は戦争のそれと似通っている。
映像から洩れ出る息吹はまさに「戦争娯楽映画」に近い。
それから半世紀弱が経過した。
今や誰も彼もが後ろ向きだ。
原子力にしても過去の技術にしがみ付くだけで新たな革新的展望のないままに継続運用するしかない。
半世紀前の技術で作られた原子炉を未だ使うしかないのだからね。
一方で「脱原発」を叫べど代替エネルギーの革新的開拓を推し進める声はあまり聞かれない。
だからといって今更、電力のない生活を是認しようという訳でもない。
どっちにせよ過去にしがみ付き、現状の維持しか往きべき道がなくなった。
新たな革新的技術は多大な犠牲と膨大な資金、全国民のポジティブな総意がなければ為しえない。
「原発推進」にしろ「代替エネルギー開発」にしろ、これは必須条件。
それはすなわち戦争と同じだ。
これらは人口増の中、若年層が大半を占める状況でなければ生まれない。
しかし、今日の少子高齢化、人口減の世界ではそれを望む事は絶望的だ。
誰も犠牲を払いたくないし、危険を冒したくない。
即ちそれは何もしない事と同じ。
そのうち過去の技術の維持管理さえ破綻がやってきて人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す時が来るだろう。
もう全てが手遅れだ。
1960年代の「戦争娯楽映画」の中に封入されたポジティブなエネルギー。
良くも悪くもそのエネルギーが未来を築いた。
それがなくなった今、人々はもう前に進む事が出来ない。
引き潮に浚われるように、皆深海の底へ堕ちていくのだ。
終局は近い。