花鳥風月人生
日常
ゴールデンウイークも終り、新緑も深まってきた。
いつの間にか気温も上がって窓を開け放つ日も増えた。
ここ数年、花鳥風月に慣れ親しむ生き方にシフトしてきたような気がする。
そもそも自分は他人と競争するような「人生ゲーム」から逸脱して生きてきた。
この期に及んで今更「人生の勝利」など望むべくもない。
人は半世紀も生きるといい加減、人工的な競争に駆り立てられることにうんざりしてくる。
かといって、競争を続けなければ生きていけない事も事実。
新卒採用、終身雇用、年功序列を獲得した者は65まで突っ走って、あとは年金生活で悠々自適な老後が待っている。
しかしその本道から外れた者には、そもそも「老後」という概念すらない。
今更、「人生の勝利者」と比べたところでどうにもなるまい?
諦めが肝心だ。
だったら早めに競争を放棄し、花鳥風月に浸り、自然の中で朽ちていくほうが幸いというものだ。
問題は朽ちていく段階でも最低限のお金はいるという事。
年金も老後の蓄えもない「人生の敗北者」は花鳥風月に生きる事も間々ならない。
余裕がなければ乞食の如く老後を過ごさねばならない。
これはきつい。
先日、昔読んだ事のある漫画家の訃報が流れた。
享年は50歳前後か。
漫画家の寿命としては平均的かもしれない。
一部の例外的な漫画家を除けば、漫画家という生業は50も生きれば十分だろう。
ストーリー構築、作画、営業、広報、金銭管理を全て一人でこなしていかねばならない漫画家はフリーランス職業の中でもかなり過酷な分野に入るのではなかろうか。
更に、発想力、作品に対する情熱、時代感性を常時高く維持しなければいけない。
特にアシスタントやスタッフを雇わない自分のような漫画家は己の創作意欲維持が唯一の原動力となる。
それがなくなったらおしまいだ。
ランダムに100人の漫画家を集めたとする。
そのなかで大卒即入社、年功序列、終身雇用を獲得したサラリーマンと同等の生涯賃金を得ている者はどれくらいいるか考えてみた。
恐らく誰もいないだろう。
1000人くらい集めればその中に大ヒットを飛ばして桁違いの収入を得ている漫画家がいるかもしれない。
しかしそれは、ごく例外に過ぎない。
9割以上は貧困層に含まれる程度の収入しか得られないと想像出来る。
ヒットを飛ばせないまま半世紀生きた漫画家の大半は、誰かの援助がない限り、残りの人生を惨めに過ごさねばならなくなる。
だから、漫画家は50歳程度が人生の潮時なのだ。
漫画家は夢を売る商売なのだから、妄想と空想に長けていなければならない。
その想像力を50過ぎてなお維持していくのは至難の業だ。
それが出来るのは稀有な天才に限られる。
しかし天才といえど、身体の老化に抗う事は出来ない。
売れる売れないに拘わらず、漫画家という者は五十路あたりが寿命だろう。
その時点を越えて描けるのはほんの一部の「選ばれし者」だけだ。
大家だったとしても過酷な労働条件の下で心身は酷使され、五十路以上生きられる者は稀。
ましてや売れない漫画家は蓄えがないから、たとえ心身が健康であっても生きる術がない。
どっちみち漫画家専業として五十路以上に生きられる者は殆ど居ないのだ。
だから、むしろ50前後で鬼籍に入った漫画家の報を聞くと「ああ、漫画家として大往生したんだな」と思う。
そう、漫画家は五十路であの世に行くのがちょうどよい。
身を削ることを生業とすれば今も昔も「人生五十」なのだ。
とはいえ、漫画家が全部五十路で死にたいなんて思っている訳でもない。
健康で創作意欲が維持されていれば年齢など関係がない。
時々、自分も雑誌の新人賞に投稿してやろうかと思うことがある。
審査員はみんな年下。
恐らく見向きもされないだろうが、今もって悪い意味で精神年齢13歳位だからやってやれない事はない。
しかし、もう若い頃のように「思ったらすぐに描く」みたいな行動力は失われているから、これも妄想でしかない。
結局、人は花鳥風月に慣れ親しむようになったら「人生の黄昏」なのである。
その黄昏を如何に生きるかが問題だ。
いや、そもそも自分は生まれてきてからずっと花鳥風月シフトだったような気もする。
最初から「老人」だったのだ。
つまり、何にも変わっていないって事になる。
人生の勝敗も何も、最初からレースに参加せずトラックの端でアリンコの巣を突っついて過ごしてきたようなものだ。
取りあえず、まだ1日3回は自慰出来るので大丈夫かもしれない。
と自分に言い聞かせて、原稿用紙に向かおう。
いつの間にか気温も上がって窓を開け放つ日も増えた。
ここ数年、花鳥風月に慣れ親しむ生き方にシフトしてきたような気がする。
そもそも自分は他人と競争するような「人生ゲーム」から逸脱して生きてきた。
この期に及んで今更「人生の勝利」など望むべくもない。
人は半世紀も生きるといい加減、人工的な競争に駆り立てられることにうんざりしてくる。
かといって、競争を続けなければ生きていけない事も事実。
新卒採用、終身雇用、年功序列を獲得した者は65まで突っ走って、あとは年金生活で悠々自適な老後が待っている。
しかしその本道から外れた者には、そもそも「老後」という概念すらない。
今更、「人生の勝利者」と比べたところでどうにもなるまい?
諦めが肝心だ。
だったら早めに競争を放棄し、花鳥風月に浸り、自然の中で朽ちていくほうが幸いというものだ。
問題は朽ちていく段階でも最低限のお金はいるという事。
年金も老後の蓄えもない「人生の敗北者」は花鳥風月に生きる事も間々ならない。
余裕がなければ乞食の如く老後を過ごさねばならない。
これはきつい。
先日、昔読んだ事のある漫画家の訃報が流れた。
享年は50歳前後か。
漫画家の寿命としては平均的かもしれない。
一部の例外的な漫画家を除けば、漫画家という生業は50も生きれば十分だろう。
ストーリー構築、作画、営業、広報、金銭管理を全て一人でこなしていかねばならない漫画家はフリーランス職業の中でもかなり過酷な分野に入るのではなかろうか。
更に、発想力、作品に対する情熱、時代感性を常時高く維持しなければいけない。
特にアシスタントやスタッフを雇わない自分のような漫画家は己の創作意欲維持が唯一の原動力となる。
それがなくなったらおしまいだ。
ランダムに100人の漫画家を集めたとする。
そのなかで大卒即入社、年功序列、終身雇用を獲得したサラリーマンと同等の生涯賃金を得ている者はどれくらいいるか考えてみた。
恐らく誰もいないだろう。
1000人くらい集めればその中に大ヒットを飛ばして桁違いの収入を得ている漫画家がいるかもしれない。
しかしそれは、ごく例外に過ぎない。
9割以上は貧困層に含まれる程度の収入しか得られないと想像出来る。
ヒットを飛ばせないまま半世紀生きた漫画家の大半は、誰かの援助がない限り、残りの人生を惨めに過ごさねばならなくなる。
だから、漫画家は50歳程度が人生の潮時なのだ。
漫画家は夢を売る商売なのだから、妄想と空想に長けていなければならない。
その想像力を50過ぎてなお維持していくのは至難の業だ。
それが出来るのは稀有な天才に限られる。
しかし天才といえど、身体の老化に抗う事は出来ない。
売れる売れないに拘わらず、漫画家という者は五十路あたりが寿命だろう。
その時点を越えて描けるのはほんの一部の「選ばれし者」だけだ。
大家だったとしても過酷な労働条件の下で心身は酷使され、五十路以上生きられる者は稀。
ましてや売れない漫画家は蓄えがないから、たとえ心身が健康であっても生きる術がない。
どっちみち漫画家専業として五十路以上に生きられる者は殆ど居ないのだ。
だから、むしろ50前後で鬼籍に入った漫画家の報を聞くと「ああ、漫画家として大往生したんだな」と思う。
そう、漫画家は五十路であの世に行くのがちょうどよい。
身を削ることを生業とすれば今も昔も「人生五十」なのだ。
とはいえ、漫画家が全部五十路で死にたいなんて思っている訳でもない。
健康で創作意欲が維持されていれば年齢など関係がない。
時々、自分も雑誌の新人賞に投稿してやろうかと思うことがある。
審査員はみんな年下。
恐らく見向きもされないだろうが、今もって悪い意味で精神年齢13歳位だからやってやれない事はない。
しかし、もう若い頃のように「思ったらすぐに描く」みたいな行動力は失われているから、これも妄想でしかない。
結局、人は花鳥風月に慣れ親しむようになったら「人生の黄昏」なのである。
その黄昏を如何に生きるかが問題だ。
いや、そもそも自分は生まれてきてからずっと花鳥風月シフトだったような気もする。
最初から「老人」だったのだ。
つまり、何にも変わっていないって事になる。
人生の勝敗も何も、最初からレースに参加せずトラックの端でアリンコの巣を突っついて過ごしてきたようなものだ。
取りあえず、まだ1日3回は自慰出来るので大丈夫かもしれない。
と自分に言い聞かせて、原稿用紙に向かおう。