オワル セカイ

報道
07 /07 2009
オワルセカイ
ずいぶん前の日記にも記したことがあったが、1960年代後半、一世を風靡した「ゲバゲバ90分」というバラエティー番組があった。
その中で、国際反戦デーか何かの学生デモを見下ろしながら生放送するという企画があったそうだ。
そんな企画が通り、実際に放送され、高視聴率を稼ぐ。作り手にとってはとてつもなくやり甲斐のある時代だったろう。
デモ隊が東京の町を大規模に練り歩き、それを公共の電波で生中継する。
それもゴールデンタイムだ。何が起こるか解らない。これがきっかけで「革命」や「クーデター」が起こるやもしれぬ。
それでも放送は中断されなかった。
現状が破壊されることを恐れなかったのは、恐らく捨てるものより得るものが大きいと確信出来たからだ。

「大きく食べて50円とはいいことだ!」
森永エールチョコレートのCMで太った指揮者は叫ぶ。
すると何百人もの若者が一斉にチョコを突き出し「50円!」と応える。
前のめりに押し出す若いエネルギーは不器用で粗雑ながらもとにかく新しい価値観を強引に押し出す勢いがあった。
社会も政治も文化も芸術も何もかも壊れる以上に何かが作り出されていた気がする。

あれから、40年。
地上波テレビは低視聴率にあえぎ、新聞は発行部数を減らし続け、出版社は次々に潰れているという。
世は現状が壊れることを恐れ、何も作り出そうとしない。
挑戦することを止め、些細な危険を恐れ、規制を広め、それが更に萎縮を強めるからますます先細りスパイラルを招く。
観て見よ。今の地上波テレビの凋落ぶりを。
かつてその画面から垣間見えた「生きた映像」、すなわち勝敗に一喜一憂した巨人戦中継や危ないトークで満たされたバラエティーやいかがわしい11PM等の深夜番組。
そんなものが一切ない消毒液に浸かった屍骸のような「当たり障りのない」出来損ないの食品見本みたいな「死んだ映像」を誰が楽しめると言えるか?
それでも新しい挑戦を試みようともしないのはもはや既得権だけに縋り付く以外に生き残る術がないからだ。
遂には新しい胎動を極端に恐れ、その兆しすら片っ端から排除し始める。
かつてテレビに噛り付いている民衆のことを識者は「一億白痴」と揶揄した。
だがそんな「白痴」からも見放されたテレビに何の価値があるのか?
こうなったら、もうおしまいだ。

警察はダガーナイフ取締りを声高に叫ぶ。だが回収は一向に進まないらしい。
現実と離反した取り締まりや法律だけが一人歩きしても誰も従おうとはしない。
「傘を差しての自転車運転は禁止」とテレビは言う。
だが、この日も多くの者が傘を片手に自転車に乗って職場に急ぐ。
人は思う。
「そんなことまでいちいち指図されねばいけないのか?」
なるほど、傘をさしての自転車走行は確かに危険には違いない。
ダガーナイフだって普通の包丁より殺傷能力があるかもしれない。
中古電化製品は火を噴くかもしれない。
だがそれを取り締まったところで著しくこの世が「正される」というのか?
この世界ではもっとするべきことがあるはずだ。
人々から権利や自由、財産権までも奪って「得られる」ものってなんなのだ?誰が得をするのだ?

1970年代初頭、テレビから流れてきた妖精のような歌声。
かつて香港からやってきたアイドル歌手が40年後、どこぞの「慈善団体」広報として「児童ポルノ」なるものをこの世界から追放しようと訴えている。
この元アイドルが如何なる経緯でその立場に成れたのかは知らない。
しかしこの歌手が日本でデビュー出来たのは「ゲバゲバ90分」同様新しい価値観が惜しげもなく投入可能な時代だったからに他ならない。
TBSラジオ、林美雄のパックインミュージックに出演したり、大学に進学したり等リベラルな活動が彼女に出来たのは何ゆえか?
彼女に進学する権利や活動の自由が与えられたからこそ、今の存在がある。
この国で守旧的な価値観しか与えられなければ、今頃香港で寂しく過ごしていたろうに、そんな彼女が今度は日本の純朴なる男子から権利、自由を奪い、財産権まで剥奪しようと日本の行政府に働きかけているのは如何なる所業か?
お前を支持した者に「恩を仇で返す」事を一切の呵責なしにいられるのか?それともその自覚すらないのか?
「児童ポルノ」単純所持を罰していないのは先進国で日本とロシアだけだという。だから日本も単純所持を取り締まるべきと推進論者は言う。
しかしそんなものは詭弁でしかない。
だったら先進欧米諸国の大半が「捕鯨禁止」を訴えているのだから日本も当然「捕鯨禁止」すべきではないか?
ところが日本はあくまで捕鯨を「推進」する。なぜならば捕鯨が水産業者の既得権に関わっているからだ。だから欧米各国の反発や捕鯨を実力で妨害する反捕鯨団体の行動に対しても頑なに譲らない。
「内政干渉だ」「海賊行為だ」とね。
一方、同様に世界の趨勢に反する「児童ポルノ」単純所持に反発しないのは、そこに既得権がないからに過ぎない。
既得権が絡めばパチンコという賭博だって平然と許可されてしまうのを見ても解るだろう。。
アメリカ合衆国で銃が自由に取得できるのも「全米ライフル協会」という既得権組織があるからである。
それで大量に人が死のうとお構いなし。「地獄の沙汰も金次第」だ。
元アイドル歌手はそんな既得権者の都合の良いスポークスマンな訳で、いわば反捕鯨団体の「シーシェパード」と同じ。
最前線の旗振り役である。
元アイドル歌手がもし反捕鯨を掲げたら国会どころか入国すら許可されないだろう。

今や既得権者にとって最大の武器は「子供と女性の権利」という常套句。
これを錦の旗とすれば一切の反論を封じ込め、意のままに世を操ることが出来る。
そんな意味からも「児童ポルノ改正」により単純所持まで禁止すれば既得権者にはマコトに都合の良い状況が完成するのである。
このような硬直した社会は、しかし、一握りの既得権者以外にとってはあらいる自由と権利、そして財産権を奪う形として現れ極端な抑圧社会を生み出す。
その結果はいちいち論ずる必要もなかろう。
歴史の本を少しでも読み返せばいくらでもその事例は転がっている。
数多の可能性や選択肢を奪うことは、すなわち文明の衰退である。

自分らが若かった頃、少なくとも1990年代までは価値観の選択肢の幅は右肩上がりだった。
当時はこんな呟きで満たされていた。
「昔は禁止されていたこんな表現も許されるようになった。自由な時代になったものだ」
ところが2009年はどうか。
「昔は普通に使えた表現も今じゃ無理だからな。使えば犯罪者だ。不自由な時代になったものだ」

人々から表現の自由と財産権を奪わなければ維持できない社会とは何か?
それは「セカイのオワリ」である。
少子高齢化が急速に加速し、新しい価値観を生むことの出来ない「セカイ」。
こんな「セカイ」は必ず終わる。
「焚書」を容認する時点で「セカイ」に未来はないだろう。
テレビも新聞も雑誌も遅かれ早かれ「終焉」が訪れる。
己の棺桶のごとき意味合いにも等しい「児童ポルノ法改正」の動向を見て見ぬふりで一切伝えようとしないテレビ、新聞、雑誌は実際「死んでいる」に等しい。
規制で己の首を絞めるのに、それを認めなければ生き残れないテレビ、新聞の状況は末期がん患者の終末治療の様相だ。
いつしかテレビ、新聞は「空っぽの器」となり不要なものとして捨てられる。

「セカイ」は終わり、やがて混沌がやってくる。
そんな「カオス」の中で再び新しい価値観が生まれるかは知らない。
もうテレビから浅間山荘事件や王貞治756号の瞬間やアポロ11号月面着陸みたいな「世紀の瞬間」は永遠に流れない。
デジタルテレビになれば真の「ライブ中継」は存在しない。すべて「検閲済み」の画像でしかなくなる。
そんなものに観る価値化は微塵もない。
「欺瞞と嘘」で塗り固められた情報で満足するほど人は愚かではなかろう。
猥雑なモノでも人は「生」の情報に渇望する。
「児童ポルノ法」もかつての「禁酒法」と同じ道を辿るのは論を待たない。
いくら規制を強めようとも情報はネットに流れ、離合集散しながら蚊柱のように彷徨する。
「児童ポルノ」なる存在はその欲求が人間の中に普遍的に存在する限り、永遠になくすことは出来ない。

この日本は建前上、軍隊も賭博も売春も存在しないことになっている。
ところが自衛隊が軍隊じゃないなんて誰も思っちゃいないし、ちょっと駅前に行けばパチンコという「賭博」が楽しめるし、ソープランドは事実上の売春施設である。
法律で禁止されているモノがこれほ堂々と存在する国も珍しい。
この「いい加減さ」がないと生きて来れなかったこの国に本気で「規制」なんて始めること自体、この国の「オワリ」を暗示させている。
これからの日本人は如何に「オワラセル」かを生きる流儀として心得る必要があるだろう。
この先細りの流れは決して変わらない。
自由と権利、財産権はさまざまな口実によって著しく損なわれていく。そのうち行動の自由すら奪われよう。
かつて人口比で大多数を占めた若年層が健在だった時代は、それでもその「オワルセカイ」の混沌から闘争して勝ち残り、新たな「セカイ」を作っていった。
「座して死ぬか」あるいは「抑圧者と刺し違える」という選択肢だって今よりは容易に決断可能だった。
この「終わりありき」の「オワルセカイ」に生きている以上、覚悟しなければいけないことだ。
しかし高齢者が大半を占め「戦争」すら遂行できない時代となった今、ただただ「セカイ」は終わるに任せるのみ。
縮んでいく風船のような「セカイ」の中でどう人生に決着をつけるか。
いまや誰も照らし示すことが出来ない。

そう遠くない未来、テレビは究極の「自主規制」によって画面が真っ白か真っ黒のモノトーンしか映らなくなる。
「有害で危険なものは一切排除」という規定を厳密に守った結果である。
「こんなの誰が見るのか?」という心配はご無用。
テレビの前には誰も居ないから。
その代わり、町中の監視カメラが24時間、君を撮ってくれるているだろう。
誰が見ているのかは知らないがね。

オワルセカイに乾杯。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/