男は「必要とされる人間」でなければ生きていけない
日常
伊集院光のラジオをもう何年も聴いている。
「ダメ人間」を標榜したトークでシンパシーを感じるが、彼は決してダメ人間ではない。
人は誰かに必要とされていなければ生きていけない。
伊集院光は、そのトークが世間に認められているし、元アイドルを妻に娶り、テレビでの仕事もある。
彼は時々、自著原稿の催促に追われることを嘆くが、締め切りをいくら延ばしても本は出してもらえる。
なぜなら彼は出版社からも「必要とされる人間」だからである。
彼は40半ばだが、これからも恐らく様々な分野から「必要とされる人間」として今後も過不足なく生きていけるだろう。
だが、人生半ばを過ぎて世間から「必要とされない人間」にそんな安泰な人生は用意されていない。
仕事、社会、プライベート・・。
あらゆる側面において「必要とされない人間」とはなにか?
それが絶望独身男性。
社会的地位を有しない絶望独身男性が辿る道は厳しい。
もっとも人生半ばを過ぎて、世間から必要とされる稀有な技能、才覚を持った人間はそう多くはない。
大半の人間は50を過ぎれば存在価値がない。
だが、既婚サラリーマンであれば定年後は年金、貯蓄で残りの半生を生き抜く事は辛うじて可能だろう。
なにより妻を娶り、子を設け、会社で築いた社会的地位は、定年後も生きる礎として有益に機能する。
だからこのような人間は特殊技能がなくとも定年後も悠々自適に生きていく事が出来る。
しかし、それら全てを持ち合わせていない人間はどうか?
50を過ぎればもう、生きていく足場を失う。
特にニートを含めた大成しないフリーランスの独身者は悲惨だ。
社会的地位も、家族も貯蓄もなく、誰からも必要とされない独身者はやがて本当の絶望を知るのだ。
若ければ、まだ精神力でこの苦境に立ち向かうエネルギーはあろう。
しかし、全てが下り坂の50代を過ぎた時点では、もう全てが万事休す。
体力は弱り、怪我や病気でもすればもうお終いだ。
入院費もなく、看病してくれる家族も居ない。
社会から必要とされないから誰一人、自分を救ってくれる「声」は届かない。
こうして、大抵の大成しないフリーランスは人知れずに死んでいくのだ。
だからこそ、そうなる前に妻を娶り、子を設けなければいけない。
子は親を頼るしかない。
子供のために何でもするのが親だ。
親になれば生きるための闘争に参加出来る。
それが生きるということだ。
たとえ、社会的に必要とされなくとも、妻と子からは必要とされる人間になれるのだからね。
それが50を過ぎて生きていける男の最低限の条件だ。
蓄えがあったり、社会的に必要とされる特殊技能や才覚があれば独身でも何とか生きられよう。
しかし、それらがない男が、50を過ぎて生きようとするならば妻を娶り、子を設けなければだめだ。
そんなものが何もない男は、いずれ大久保の安い独身寮で生活保護を受けながら寂しく死んでいかねばならなくなる。
無論、その覚悟があればそんな死に方もよろしかろう。
だが孤独で悲惨な未来に耐えられる独身者が多いとは思えない。
自分たちはこれまで飢えとか貧困、疎外、孤独、嘲笑とは比較的無縁で生きられた。
だが「世間から必要とされない独身男性」はこれからその全てが覆いかぶさってくる。
その恐怖に慄き、ガクガクブルブル震えている絶望独身男性の怯えで日本中が小刻みに揺れているのが解る。
悲惨な戦争体験に似た状況が50、60を過ぎてわが身に襲ってくるのだ。
50を過ぎて、どうやって生きようか?
ゲームのように電源を切ってリセットなど出来やしない。
人間はそう簡単に死ねない分、生き恥を晒さねばいけなくなる。
世の中がひっくり返える事象が起これば楽になれるかなと思いきや、実際大地震が来て原発が吹っ飛んでも楽になれなかった。
それどころか、最初に切り捨てられるのは何の社会的地位もない高齢独身男性だ。
そう、必要とされない人間は、正直な話、50年生きたら十分だ。
なのにまだ30年以上、生きていかねばならない。
妻も子もなく、蓄えもない男が孤独と「人生の敗北者」というレッテルの中で屈辱的に生きなければいけないのだ。
おそらくそんな状況に近い独身男性がこの日本に何百万と居る。
まるで、シベリア抑留の満州旧日本兵捕虜やスターリングラードに包囲されたドイツ第6軍の敗残将兵のごとく。
敗残者はいつの世も悲惨である。
「ダメ人間」を標榜したトークでシンパシーを感じるが、彼は決してダメ人間ではない。
人は誰かに必要とされていなければ生きていけない。
伊集院光は、そのトークが世間に認められているし、元アイドルを妻に娶り、テレビでの仕事もある。
彼は時々、自著原稿の催促に追われることを嘆くが、締め切りをいくら延ばしても本は出してもらえる。
なぜなら彼は出版社からも「必要とされる人間」だからである。
彼は40半ばだが、これからも恐らく様々な分野から「必要とされる人間」として今後も過不足なく生きていけるだろう。
だが、人生半ばを過ぎて世間から「必要とされない人間」にそんな安泰な人生は用意されていない。
仕事、社会、プライベート・・。
あらゆる側面において「必要とされない人間」とはなにか?
それが絶望独身男性。
社会的地位を有しない絶望独身男性が辿る道は厳しい。
もっとも人生半ばを過ぎて、世間から必要とされる稀有な技能、才覚を持った人間はそう多くはない。
大半の人間は50を過ぎれば存在価値がない。
だが、既婚サラリーマンであれば定年後は年金、貯蓄で残りの半生を生き抜く事は辛うじて可能だろう。
なにより妻を娶り、子を設け、会社で築いた社会的地位は、定年後も生きる礎として有益に機能する。
だからこのような人間は特殊技能がなくとも定年後も悠々自適に生きていく事が出来る。
しかし、それら全てを持ち合わせていない人間はどうか?
50を過ぎればもう、生きていく足場を失う。
特にニートを含めた大成しないフリーランスの独身者は悲惨だ。
社会的地位も、家族も貯蓄もなく、誰からも必要とされない独身者はやがて本当の絶望を知るのだ。
若ければ、まだ精神力でこの苦境に立ち向かうエネルギーはあろう。
しかし、全てが下り坂の50代を過ぎた時点では、もう全てが万事休す。
体力は弱り、怪我や病気でもすればもうお終いだ。
入院費もなく、看病してくれる家族も居ない。
社会から必要とされないから誰一人、自分を救ってくれる「声」は届かない。
こうして、大抵の大成しないフリーランスは人知れずに死んでいくのだ。
だからこそ、そうなる前に妻を娶り、子を設けなければいけない。
子は親を頼るしかない。
子供のために何でもするのが親だ。
親になれば生きるための闘争に参加出来る。
それが生きるということだ。
たとえ、社会的に必要とされなくとも、妻と子からは必要とされる人間になれるのだからね。
それが50を過ぎて生きていける男の最低限の条件だ。
蓄えがあったり、社会的に必要とされる特殊技能や才覚があれば独身でも何とか生きられよう。
しかし、それらがない男が、50を過ぎて生きようとするならば妻を娶り、子を設けなければだめだ。
そんなものが何もない男は、いずれ大久保の安い独身寮で生活保護を受けながら寂しく死んでいかねばならなくなる。
無論、その覚悟があればそんな死に方もよろしかろう。
だが孤独で悲惨な未来に耐えられる独身者が多いとは思えない。
自分たちはこれまで飢えとか貧困、疎外、孤独、嘲笑とは比較的無縁で生きられた。
だが「世間から必要とされない独身男性」はこれからその全てが覆いかぶさってくる。
その恐怖に慄き、ガクガクブルブル震えている絶望独身男性の怯えで日本中が小刻みに揺れているのが解る。
悲惨な戦争体験に似た状況が50、60を過ぎてわが身に襲ってくるのだ。
50を過ぎて、どうやって生きようか?
ゲームのように電源を切ってリセットなど出来やしない。
人間はそう簡単に死ねない分、生き恥を晒さねばいけなくなる。
世の中がひっくり返える事象が起これば楽になれるかなと思いきや、実際大地震が来て原発が吹っ飛んでも楽になれなかった。
それどころか、最初に切り捨てられるのは何の社会的地位もない高齢独身男性だ。
そう、必要とされない人間は、正直な話、50年生きたら十分だ。
なのにまだ30年以上、生きていかねばならない。
妻も子もなく、蓄えもない男が孤独と「人生の敗北者」というレッテルの中で屈辱的に生きなければいけないのだ。
おそらくそんな状況に近い独身男性がこの日本に何百万と居る。
まるで、シベリア抑留の満州旧日本兵捕虜やスターリングラードに包囲されたドイツ第6軍の敗残将兵のごとく。
敗残者はいつの世も悲惨である。