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「訃報」という名の日常

日常
07 /29 2011
SF作家の小松左京氏が亡くなったという。
享年80歳。
近年は表舞台から姿を消していたので差ほど衝撃はなかったものの、やはり日本SF界の重鎮が鬼籍に入ってしまった事実は重い。

小松左京は自分にとって最初の愛読書だった。
中学校の頃、家に転がっていたハヤカワSF文庫『蟻の園』が最初だったと思う。
『日本沈没』はその後だったか。
その後は貪るようにハヤカワSF文庫に収められていた小松左京の作品群を読み込んでいった。
今日まで何回も読み直し、その度に新たな発見をする。
SFがリアルにSFらしかった時代。
未来を垣間見る事に意義があった時代。
そんな時代を象徴したのが小松左京だった。

それにしてもこの訃報の日常化はなんだろう。
本来、人の死というものは新しく生まれ出でる生命や価値観の影でひっそりと語られるものではなかったか?
それが今や主役となってツイッターやSNSで「死の舞踏」の如く激しく駆け回る。
一方で未来を夢想させる新しい発見や事象、初々しい新世代のオピニオンリーダーの話題は殆どない。
ただ気付いていないだけだろうか?
いや、もうこの少子高齢化の社会では旧世代を乗り越えて新しい未来を築こうというエネルギーはどこにもないのだ。
過去の遺産におんぶに抱っこ。
誰もが後ろ向きで前を向こうとはしない。

原子炉事故も人々は原発廃炉という選択肢しか鑑みない。
スペースシャトルも危険な乗り物だからと引退してしまった。
人々は危険をただ恐れ、未来に歩みだす事を止めた。

だから人は過去の遺物に縋るしかなくなった。
その縋るべきものがこの世から消える事は恐怖だ。
その恐怖と不安が最大のニュースとなってネットを駆け巡る。
「恐ろしい!恐ろしい!あの人も死んだ。この人も死んだ」
行くも恐怖。戻るも恐怖。

でも人間は未来に歩み出る勇気を持ってその恐怖を克服し、歴史を作っていった。
しかし、今の人々はその勇気を捨てて過去に逃亡する事でその恐怖を忘れようとする。
寿命という現実に目をつぶり、現状にしがみつくだけ。
しかしそれでは未来はやってこない。

人は必ずいつかは死ぬ。
遅かれ早かれ行き着くところは「滅亡」である。
めぼしいニュースが「訃報」しかない社会は「滅亡」が約束された社会だ。
またひとり、またひとりと「過去」が鬼籍に入る。
そのうち自分に順番が回ってくるだけのこと。

少子高齢化社会は生物学的老化だけでなく精神も老化する。
「訃報」に捉われる社会は不幸だ。
新しい明日、新しい未来を築く社会は「訃報」を多くは語らない。
過去よりも明日を夢想することに忙しいからだ。
過去は未来への礎に過ぎない。

中国の新幹線事故処理に日本人の大多数は疑問を抱いた。
事故犠牲者を省みず、事故原因も検証することなく運転を開始して、尚且つ新線建設に邁進すると。

だが、生きるとはそういうことだ。
人の屍を踏み越え踏み越え、前進する。
喘ぎながらも前に進む事を止めない者たちが最終的には生き残って行くのだ。
良くも悪くもそれが「生きる」ということだ。
原発の危険性に慄き、ひたすら廃炉しか考えない後ろ向きの民族に明日は来ない。

小松左京は未来を語った。
でも今は語る未来もない。

絶望だ。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/