全ては縁故で決まる

報道
01 /18 2011
夕食時、照明代わりに点灯していたテレビをぼうっと眺めていたら、21時のNHKトップニュースでなんかの文学賞の事が流れた。
小説を生業とすると一般ニュースでもトップで伝えられる「偉い人」になれるらしい。
それはさておき、例によって受賞者の中に若い女性が。
この人に実際、類稀な才能があったとしても受賞者が「若い女性」というだけで「胡散臭い」というイメージがこびり付いてしまい、もうだめである。
拒絶反応しか出てこない。
昨今、文学に与えられる賞なるものがタレントだったりルックス重視だったりするのを鑑みて、なんだかもう「どうでもいい」という感想しかない。
そんな「恵まれた人」が片手間に書いた文章を、ありがたがって買いたいという気が知れない。
その文章がたとえ素晴らしいものだったとしても御免被る。
そのタレントが実は文学を目指していて、タレント業を仮の姿としていただけだとしても嫌だ。
最初から知名度があって、出版社もそれを売りにするから、売れるのは当たり前。
その前提ありきの商品。
「文学」というより「売れる本」。
そんなものは、もういい。
「売れる本」を買うぐらいなら、道端で寂しそうに手作り詩集を配っている無名の自称小説家、詩人が綴った「無料肉筆誌」のほうを選ぶ。
「売れる」前提の無い者が苦渋の選択で、絶望の果てに己の表現物を頒布する姿にこそ「人の生き様」を直に感じる事が出来る。
それが「文学」というもんじゃないのか?
最初から「売れて当たり前」のポジションに居る人間の書いた文章に如何程の価値があるのか?
文脈から感じ取れる気配はこんなものだ。

「おれは著名人。ありがたく俺の文章を読め。出版社も編集者も俺に頭を下げる。だから読者も俺に頭を下げて俺の本を買って読め。褒め称えよ」

これは「表現物」じゃない。
メディアに乗っかった怪しげなマルチ商品の類だ。
本人にその気がなくとも、そういうレッテルを貼られても仕方ないだろう。
もし、有名タレントや美人が真の表現をしたければ、己の姿を一切見せぬ形で自費出版しろ。
本当に優れたものならば口コミで広がろう。
そこで初めて商業出版すればよい。
そうやって己の才能の真価を問え。

今回の文学賞をとった女性は聞くところによると、親族も文学関係者だとか。
つまりは縁故で賞を貰ったのだ。
前も確かそんな女性受賞者が居たような気がする。
世の中、所詮は縁故なのである。
サラリーマンだろうが小説家だろうか、血縁者に有力者が居るからこそ「夢」を叶えることが可能になる。
己の血縁にそのような有力者が存在しなければ「夢」を抱く資格すらない。
世の中はそういうものだ。
大卒就職難とニュースは騒ぐが、大手企業など全て縁故で入社が決まっている。
「就職出来ない」と嘆いているのは所詮、血縁に有力者が居ない「雑兵」ばかり。
そんな「雑兵」が安定を求めて大手企業就職を希望すること自体「身の程知らず」だ。
血筋を怨むがよかろう。
この女性受賞者はインタビューでいろいろと薀蓄を披露していたが、そんな「戯言」も血縁に有力者あってこそ。
まったく同じ言葉を路上の無名自称小説家、詩人が発したとしても、ただの「妄言」。
誰も聞いちゃくれない。
しかし血縁の庇護の下でステイタスを獲得すれば「ありがたいお言葉」となり、メディアを通じて何百万もの人が耳を傾けてくれる。
たとえ「寝言の類」でもマスコミが取り上げ、適当に尾びれがついて「偉い人の格言」と相成る。
ここに揺るぎない「超えられない壁」が存在する。
路上自称小説家、詩人が幾ら頑張っても己の「表現」をこの世に問う事は出来ぬ。
「心の叫び」は永遠に人々の耳には届かない。
泣こうが喚こうが己の身分に抗う事は出来ない。
いずれ、路上に倒れ野垂れ死ぬのがオチ。「身元不明人」として処理されてお終いだ。
多くの小説家志望者はこうして無残に死んでいく。
一度たりとも陽を見ることもなくね。

この世は全て縁故で決まる。
それ以下でもそれ以上でもないのだ。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/