「孤族の国」と「断捨離」
日常
26日付の朝日新聞朝刊を見たら1面に「孤族の国の私たち」というタイトルが踊っていた。
それも3面までぶち抜きだ。
大事件が起こったのかと目を疑った。
読んでみると確かに一大事。
「孤独死がやってくるぞよー」「大量死の時代が来るぞよー」「独身男性皆悲惨に死ぬぞよー」といった類の内容。
おもわず、全部読んでしまった。
新聞の1面から3面まで隅々読破したのは久々だ。いや、殆ど記憶にない。
もうまるで「日本終了」のお知らせ。
もはやB級SF映画の小道具に使う架空の新聞かと錯覚するほどの絶望に溢れた記事なのだが、これが実は紛れもない「現実」かと思うとぞっとする。
もはや父親、母親、子供二人なんていう「標準世帯」は霧散し、たった一人きりの世帯がスタンダードになるという。
そして日本人は皆孤独の中で死んでいくと。
その中心が絶望独身男性であると。
己が常々ブログで妄言してきたことが、ついに大手新聞でも取り上げられる時代に来てしまったのだ。
一方、「断捨離」。
これは片付けられない人に、思い切って身の回りの物を整理させる最近流行の整頓術だとか。
「断捨離」を解説するブログにはこう記されている。
「自分とモノとの関係を問い直し、
暮らし・自分・人生を調えていくプロセス。
不要・不適・不快なモノとの関係を、
文字通り、断ち・捨て・離れ
引き算の解決方法によって停滞を取り除き
住まいの、暮らしの、身体の、気持ちの、人生の、
新陳代謝を促す・・・
住まいが、片づかないという悩みはもとより
身体の不調、煩わしい人間関係、忙しすぎる状況をも
解決する」
ということらしい。
この「断捨離」思想は、いよいよモノから人へと進化する。
「断捨離」と「孤族の国の私たち」の記事は妙にシンクロする。
つまり、子も財産も残せない「いらない人間」はどんどん捨てていかないと日本が持たないよと訴えかけているのだ。
この日本はこれからますます高齢化に拍車がかかり、部屋の中に散らばる「捨てるに捨てられない」「不要・不適・不快なモノ」のような人間で一杯になる。
これをすべて留め置いていたら「ゴミ屋敷」となり、身動き取れなくなるよと。
「いらない人間」を如何に処理するか、死んで腐敗する前に如何に「ゴミだし」するかという、今後の日本を左右する一大命題に対する答え。それこそが「断捨離」なのである。
しかしだ。
よく考えてみると、「捨てるに捨てられない」「不要・不適・不快なモノ」が未だ日本の実権を握っているわけで、その実権を墓の中まで持っていこうとする輩でこの国は一杯だ。
なのにどうしてそれを捨てられようか。
そうなると、もう「捨てるべきモノ」が捨てられぬまま「ゴミ屋敷」はますます肥大化して押しつぶされんばかりになる。
もはやこの日本には「捨てるべきモノ」と「残すべきモノ」の判別すら付かなくなっている。
そうだ。
この2010年の日本は実は「ゴミの山」で構築されていて、ゴミだししたら全てなくなってしまう存在だったのだ。
だから「断捨離」なんか実はしないほうがいいんだ。
結局、人間は他人から見たらゴミ同然のモノに依存して生きている。
「断捨離」は欺瞞でしかない。
捨てたら終わりなのだ。
自分はどんなものでも捨てない。部屋を漁ればいろんなものが「発掘」出来る。
31年前、義理で貰ったバレンタインデーの包み紙。
40年前、サンケイアトムズ時代のファン手帖。
32年前に買ったチャンピオンコミックス『ガキデカ』第2巻の単行本。
38年前、中学生時代に履いていたパンツ。
22年前に買った、一生着ないであろう極彩色のジャケット。
かさかさに渇いた31年前のオナニーを拭い取ったちり紙。
42年前に集めたバヤリスオレンジの王冠。
40年前の「学研の科学」の付録についていた鉱石見本。
38年前に作ったタミヤミリタリーミニチュアシリーズ、ドイツ2号戦車に付いていたアフリカ軍団の壊れたフィギュア。等など。
全て、全て、生きた証。
そんなものを捨てよというのか!
否!断じて捨てぬ!
捨てた瞬間に己の「存在の拠り所」、即ち、アイデンティティを失ってしまうからだ!
日本はそんな「過去のゴミ」に埋もれてこそ日本なのだ。
日本よ日本!ゴミだらけの日本。だからこそ日本!
「ゴミを捨てたらなにもない」
それが日本なのだ。
「断捨離」という美辞麗句に騙されちゃいけないんだ。
枝毛1本たりとも捨てちゃいけない。
フケ、垢の一片たりとも捨てちゃいけない。
過去の残滓に埋もれる事。
それが、唯一の希望なんだよ。
「孤族の国の私たち」はゴミ、屑に埋もれることで生きていける。
それが唯一の「生きる糧」。
家族は居ないけど塵なら一杯あるぞ!
塵を家族に見立てれば良いだけの話。
頼りに出来る家族も仲間も社会も存在しないのならば、己が代謝した老廃物やガラクタをその「家族」代わりにして労わればいいんだ。
独身絶望男性は40年前に買ったレベルの月着陸船プラモに向かって己の寂しさを慰さめることが出来る。
「40年後には月と地球は定期便で結ばれていたはずなのに!ムーンベースは月面基地。そうだ。俺は今、ルナシャトルに搭乗している。搭乗しているんだ!いるんだったらいるんだ!」
更年期を迎えた孤独な独身女性は30年前に買った、着る事のないドレスに向い、こう己を慰めよ。
「30年後には玉の輿で悠々自適だったはずなのに。このドレスを着れた頃はそう信じてた!信じてたといったら信じてたのよ!」
こうすれば、たとえ偽りの希望だったとしてもそれに縋ることが出来る。
全て捨ててしまったら、そんな「欺瞞の幸せ」すら失うことになる。
発想の転換こそが生きる知恵。
しかと心得よう。
「孤族の国の私たち」に残された希望は「ゴミの山」に宿っているという事を。
それも3面までぶち抜きだ。
大事件が起こったのかと目を疑った。
読んでみると確かに一大事。
「孤独死がやってくるぞよー」「大量死の時代が来るぞよー」「独身男性皆悲惨に死ぬぞよー」といった類の内容。
おもわず、全部読んでしまった。
新聞の1面から3面まで隅々読破したのは久々だ。いや、殆ど記憶にない。
もうまるで「日本終了」のお知らせ。
もはやB級SF映画の小道具に使う架空の新聞かと錯覚するほどの絶望に溢れた記事なのだが、これが実は紛れもない「現実」かと思うとぞっとする。
もはや父親、母親、子供二人なんていう「標準世帯」は霧散し、たった一人きりの世帯がスタンダードになるという。
そして日本人は皆孤独の中で死んでいくと。
その中心が絶望独身男性であると。
己が常々ブログで妄言してきたことが、ついに大手新聞でも取り上げられる時代に来てしまったのだ。
一方、「断捨離」。
これは片付けられない人に、思い切って身の回りの物を整理させる最近流行の整頓術だとか。
「断捨離」を解説するブログにはこう記されている。
「自分とモノとの関係を問い直し、
暮らし・自分・人生を調えていくプロセス。
不要・不適・不快なモノとの関係を、
文字通り、断ち・捨て・離れ
引き算の解決方法によって停滞を取り除き
住まいの、暮らしの、身体の、気持ちの、人生の、
新陳代謝を促す・・・
住まいが、片づかないという悩みはもとより
身体の不調、煩わしい人間関係、忙しすぎる状況をも
解決する」
ということらしい。
この「断捨離」思想は、いよいよモノから人へと進化する。
「断捨離」と「孤族の国の私たち」の記事は妙にシンクロする。
つまり、子も財産も残せない「いらない人間」はどんどん捨てていかないと日本が持たないよと訴えかけているのだ。
この日本はこれからますます高齢化に拍車がかかり、部屋の中に散らばる「捨てるに捨てられない」「不要・不適・不快なモノ」のような人間で一杯になる。
これをすべて留め置いていたら「ゴミ屋敷」となり、身動き取れなくなるよと。
「いらない人間」を如何に処理するか、死んで腐敗する前に如何に「ゴミだし」するかという、今後の日本を左右する一大命題に対する答え。それこそが「断捨離」なのである。
しかしだ。
よく考えてみると、「捨てるに捨てられない」「不要・不適・不快なモノ」が未だ日本の実権を握っているわけで、その実権を墓の中まで持っていこうとする輩でこの国は一杯だ。
なのにどうしてそれを捨てられようか。
そうなると、もう「捨てるべきモノ」が捨てられぬまま「ゴミ屋敷」はますます肥大化して押しつぶされんばかりになる。
もはやこの日本には「捨てるべきモノ」と「残すべきモノ」の判別すら付かなくなっている。
そうだ。
この2010年の日本は実は「ゴミの山」で構築されていて、ゴミだししたら全てなくなってしまう存在だったのだ。
だから「断捨離」なんか実はしないほうがいいんだ。
結局、人間は他人から見たらゴミ同然のモノに依存して生きている。
「断捨離」は欺瞞でしかない。
捨てたら終わりなのだ。
自分はどんなものでも捨てない。部屋を漁ればいろんなものが「発掘」出来る。
31年前、義理で貰ったバレンタインデーの包み紙。
40年前、サンケイアトムズ時代のファン手帖。
32年前に買ったチャンピオンコミックス『ガキデカ』第2巻の単行本。
38年前、中学生時代に履いていたパンツ。
22年前に買った、一生着ないであろう極彩色のジャケット。
かさかさに渇いた31年前のオナニーを拭い取ったちり紙。
42年前に集めたバヤリスオレンジの王冠。
40年前の「学研の科学」の付録についていた鉱石見本。
38年前に作ったタミヤミリタリーミニチュアシリーズ、ドイツ2号戦車に付いていたアフリカ軍団の壊れたフィギュア。等など。
全て、全て、生きた証。
そんなものを捨てよというのか!
否!断じて捨てぬ!
捨てた瞬間に己の「存在の拠り所」、即ち、アイデンティティを失ってしまうからだ!
日本はそんな「過去のゴミ」に埋もれてこそ日本なのだ。
日本よ日本!ゴミだらけの日本。だからこそ日本!
「ゴミを捨てたらなにもない」
それが日本なのだ。
「断捨離」という美辞麗句に騙されちゃいけないんだ。
枝毛1本たりとも捨てちゃいけない。
フケ、垢の一片たりとも捨てちゃいけない。
過去の残滓に埋もれる事。
それが、唯一の希望なんだよ。
「孤族の国の私たち」はゴミ、屑に埋もれることで生きていける。
それが唯一の「生きる糧」。
家族は居ないけど塵なら一杯あるぞ!
塵を家族に見立てれば良いだけの話。
頼りに出来る家族も仲間も社会も存在しないのならば、己が代謝した老廃物やガラクタをその「家族」代わりにして労わればいいんだ。
独身絶望男性は40年前に買ったレベルの月着陸船プラモに向かって己の寂しさを慰さめることが出来る。
「40年後には月と地球は定期便で結ばれていたはずなのに!ムーンベースは月面基地。そうだ。俺は今、ルナシャトルに搭乗している。搭乗しているんだ!いるんだったらいるんだ!」
更年期を迎えた孤独な独身女性は30年前に買った、着る事のないドレスに向い、こう己を慰めよ。
「30年後には玉の輿で悠々自適だったはずなのに。このドレスを着れた頃はそう信じてた!信じてたといったら信じてたのよ!」
こうすれば、たとえ偽りの希望だったとしてもそれに縋ることが出来る。
全て捨ててしまったら、そんな「欺瞞の幸せ」すら失うことになる。
発想の転換こそが生きる知恵。
しかと心得よう。
「孤族の国の私たち」に残された希望は「ゴミの山」に宿っているという事を。