都青少年育成条例改正案成立後の行方

報道
12 /15 2010
都青少年育成条例改正案成立。

今更、自分がこの件に関して何か述べたところでどうなるものでもないし、状況はほぼ決まってしまった感もあるからじたばたしても始まらない。
この事案はこれまでも当ブログで何回か書いたし、思うこともたくさんある。
ただ取り止めもなく文を連ねるよりか、以前、自分が商業誌に描いた、あるシーン5Pを見てもらったほうが言わんとしたいことが伝わると思ったので、その部分をアップしてみた。雑誌からスキャンしたので絵はクリアではないが大体ストーリーは追えると思う。順番は左から右。

絶望帝国01 絶望帝国02 絶望帝国03 絶望帝国04 絶望帝国05


これは2007年に幻冬舎コミックス「月刊コミックバーズ」に発表した『絶望帝国の興亡』という作品の1シーン。
一連の「影男シリーズ」の終盤エピソード。体制側が漫画、アニメを規制して東京ビッグサイトで抵抗するファンやクリエーターを権力側が弾圧するという場面である。
カバーイラストを担当させていただいたマイクロマガジン社発行の『マンガ論争』(編 著 永山薫 / 昼間たかし) 1巻2巻の表紙カバー表4にも1部分が抜粋されている。
このシーンは3年前、その「来るべき危機」に対して、何らかの対処を促すべきじゃないのかという思いと、同時に状況が変わらなければいずれマンガ、アニメ愛好者はこんな風に殲滅されてしまうよという警告と諦めと絶望を籠めて描いたと記憶する。
別段、今回の状況を見越して描いた訳でもないが、このような「対立構図」は漫画がこの世界に登場して以来、常にあったし、取締りや弾圧はいつ起きてもおかしくない。
だから今後、このような暴力的取締りも可能性は大いにあるんじゃないかと。
昨今の都青少年育成条例改正案騒動は「いつか起こるであろう」必然でしかないし、混乱の序章でしかないと思っている。

さて、その都青少年育成条例改正案可決がいよいよという段階で様々な声が響いてくるのだけれども、なんだかどれも空しく響く。
たとえば、「東京がダメなら他の地域に避難すればよい」という声。
これは本気で言っているのだろうか?
マンガ、アニメ、ゲームなんていうカウンターカルチャーは東京のような「特殊」な土壌でこそ育つのであり、東京以外の如何なる場所でも成立し得ないと思う。
人口密集度、交通アクセス、施設インフラの充実、多様な価値観等など。
日本でこの条件を満たすのは東京以外の何処にある?
東京にずっと住んでいると解らないのだが、地方出身者に聞くと、如何に東京が「特殊な土地柄」であるかを教えてくれる。
日本の地方の「守旧」レベルは想像を絶する。
新しいものを許容する「受け皿」がどこにも見当たらない。
あるのはパチンコ屋と中古車販売店位のもの。
そんな日本の「地方」に「萌」を代表とするコンテンツ文化が根付く土壌は絶対にないと確信できる。
地方出身者が漫画家を目指すには、兎に角東京に出なければ話にならない。出版社の大半は東京にあるし、情報や人脈も東京に居ないと圧倒的に不利だ。
いくらネットが普及したとはいえ、地方に居ながら仕事できるのはある程度知名度がある作家だけだろう。
ましてや何十万単位のイベントを滞りなく遂行できるインフラがどこにあろう?
地方で開かれるイベントは数万単位でも大混乱だ。車しか移動手段が無いからすぐに大渋滞。公共交通機関がまともに存在しないからだ。
茨城の百里基地祭などいい例。毎回、半日ほどバスの中に閉じ込められるのが当たり前。
地方で東京並の動員数を考えたら途方もない状況が予想される。
また、イベント参加者の多くは東京在住の者が多いのも事実で、仮に地方開催となれば交通費、宿泊費負担が増大しイベント参加のメリットがない。必然的に参加者の減少を招き、文化そのものの衰退が予想される。
インフラだけではない。
地方の首長も議員も住民も異様に保守的で新しい文化を受け入れる思考回路が東京都と比べ著しく鈍い。
アメリカの例ではあるが、未だ教育現場では「進化論」は拒絶し、「人は神によって造られた」と学校で教えている。程度の差はあれ、日本も同じようなものだ。
そんな人間しか居ないところで「萌文化」が育つものか。
400パーセント無理。
東京以外のの首都圏に拠点を移したとて、すぐに似たような条例が施行されるのは時間の問題。
所詮、神奈川、埼玉、千葉も遅かれ早かれ「東京へ右に倣え」がオチである。
よって、東京がダメだから他所に行けばよいなどという考えはまったく意味をなさない。
東京を拠点に出来なければ、ジャパニメーションもクールジャパンもへったくれもない。
お終いである。

次に東京都主催の「国際アニメフェアー2011」に主要出版社ボイコット。
少なからず喝采を送る人も居るようだが果たしてどうなのだろう?
勿論、大手出版社の決めた事であるから付け焼刃で行動しているとは思えない。
どんな妙案があるのかは知らないが。
自分レベルの人間が大きな版元の行動にあれこれ言える立場にもない。
出版社側が本当に漫画家やマンガ文化の未来を誠実に考えて行動しているのかも解らない。
が、もしかして利益追求の「捨石」として漫画家を位置づけていたとしたらこんな「悲劇」はなかろう。
もし、そうだとしたら石原都知事と大手出版社は皮肉にも共に漫画家の未来を潰している事になる。
東京国際アニメフェアーは、個人の作家ブースもあって、零細なアニメ作家も出展出来て、世界のクリエーターと交流している。何年前だったか自分の知人のアニメ作家もブースを無償で提供してもらい、交流に勤しんでおられた。
このような場を設けられるのも自治体という大きな存在あってのこと。
良くも悪くも自治体、それも東京都がバックアップしているのは利益至上主義の大手企業に頼る事の出来ない作家にとっては嬉しい事でもある。
もし、大手出版社ボイコットによりこの国際アニメフェアーが中止となった場合、その個人作家の活動の場はどうなってしまうのか?
更には日本のコンテンツ産業を世界市場に広げるという戦略を自ら捨てることにはならないか?
同じ東京都といっても、都知事や条例強化を画策する都青少年・治安対策本部の思惑とアニメフェアーの目的はまったく異なる。都条例は残るものの知事や治安対策本部長は任期が終わればどこかに消える。しかしアニメフェアーの理念は少なくとも数年で終わるものではなく、次世代に繋がる戦略を担っているはずだ。
狂信者まがいの倉田潤都青少年・治安対策本部長や老害任期切れ寸前の呆け石原都知事の「妄動」に釣られて、ボイコットを決定したとすればそれはやや拙速ではなかったか。
無論、繰り返しにはなるが大手出版社が束になって決行した事案であるから「思いつき」ではあるまい。
何らかの根回しや策略があってこそのボイコットと思いたい。
しかし、このアニメフェアーの実行委員長は確か石原都知事自身。出版社のボイコットに弱気になって譲歩するような人間ではない。寧ろ「卑しき漫画家」を東京都から追放する恰好の口実にするかも知れぬ。
その辺りは大丈夫なんだろうか?
諸手を挙げて、このボイコット決起に賛同する気にあまりなれないのは、国が創ろうとした国立メディア芸術総合センターも少なからずコンテンツに携わるものからも反対の声が挙って潰れてしまった件があったから。

己の権益を広げんと欲すれば国や自治体をも取り込み「地位向上」を目指さなければ次のステージには登れないのはどの世界も同じ。
それを否定して旧態依然の貧乏根性を発揮し、薄給の低待遇をよしとするならば、所詮日本のマンガ、アニメに未来を語る資格など無い。
いいように規制派の餌食にされればよろしい。
だが、自分はそれを是とは思わない。
今更、貸本マンガのレベルに戻れというのか?
零細産業に零落れて、傷の舐め合いでもしろと?
そんなのは真っ平御免である。
世界に冠たるジャパニメーション。
それを目指さずして、なにがクールジャパンだ。
条例は所詮、教条主義者の作文。
何十万のファンが国際アニメフェアに押し寄せ、活況を示せばキチガイカルト警察官僚の野望やボケ都知事の妄動など何の意味もなさぬ。
人の数で圧倒する事。
それが最大の戦略だ。
そもそも一部規制派カルトを喜ばせるために都民が協力するか?
否。
そんな馬鹿は何処にもいない。「マンガ規制」で世の中が良くなるなんて誰も信じちゃいない。実際そのような「有害マンガ」など巷の何処にも見当たらないのだからね。
それより人が押し寄せるイベント開催によって「お金が落ちる」ほうを望むのが真っ当な都民の選択だろう。
いずれ条例は形骸化して意味をなさなくなる。
『北風と太陽』という寓話ではないが、人は懐が暖まるほうを選択するに決まっている。不況下なら尚更だ。
カルトは「浄化」を訴えるが、そんなもの胡散臭いだけで一銭にもならない。
だが、逆にイベントが衰退すればそれこそ規制派の思う壺である。
弱い存在は叩かれやすい。
そういうことだ。


国政と支持する政党が180度正反対というのも大いなる皮肉だ。
民主党政権になってから外交をはじめとする「無能」さを垣間見ると、むしろ石原都知事の発言にシンパシーを抱いてしまう事が多かった。
ところが、マンガ、アニメ規制などの「表現の自由」となると、もうまったく支持する対象がまっさかさまとなる。オセロのごとし。
国政では「仙谷許すまじ!」だが、表現規制では「石原許すまじ!」である。
これはどういうことか?
つまりは、日本のマンガ・アニメはジャパニメーションとして世界に誇れる次期基幹産業(本当はどうだか解らぬが)なのだから、一種のナショナリズムの一翼を担う存在であると信じたいがゆえに「右翼的」な思考とシンクロしたヲタク層が、弱腰外交の民主党に反感を持つ一方で、石原の国粋的な発言にシンパシーを持つに至るということなんだろう。
だから、当然石原都知事もジャパニメーションを日本の誇りと位置づけ、支援してくれるだろうと。
ところがそんなヲタクたちの期待に反して都知事はマンガ、アニメ規制に乗り出す。
一方、無能弱腰外交、政権能力なしと罵声を浴びせていた「自分たちの敵」であったはずの民主党や社民党は、なんと「表現規制反対」の声を挙げ、皮肉にもヲタクたちの味方に付く。
いったいこりゃどういうことなんだ?!

そう!
結局のところ、日本のマンガ、アニメの真髄を真に理解する政治家なんてこの日本には存在していなかったのだ。

石原都知事は、ジャパニメーションを日本ナショナリズムの一翼なんてこれっぽっちも考えておらず、マンガ、アニメに拘わる者など「卑しい商売」をやってる低レベルの存在と馬鹿にしているだけだった。
同じく、民主党や社民党もジャパニメーションや日本のコミックが「世界制覇」の原動力、プライドの拠り所なんていう観点ではなく、単なる「表現の自由」の侵害という論点のみで規制に反対しているだけ。
どちらも真の理解者でもなく支持者でもない。
彼らがもし、そのことに気が付いたらどう対処するつもりなのか?
なんと悲しい存在なのか?
おまけに都議会民主党は結局、改正案賛成に回るというどんでん返しまで披露してくれた。
もはや語る言葉もない。


いったいいつになったら、日本のアニメ、マンガは世界から真の理解を得られるのか?
ジャパニメーションの黎明期からすれば、もう半世紀は過ぎている。
にも拘らず、この国の指導者のなかに真の理解者など誰一人としていないのだ!
50年経っても!
誰一人として!
思いを巡らせば巡らすほど絶望感に襲われる。

事実上条例改正案が成立し、今後マンガ、アニメ周辺の状況がどうなるか予断を許さない。
好転する事はないだろう。
ただ以下のことだけは確かだ。

東京以外にコンテンツ産業を支える場所は存在しない。
大手出版社の国際アニメフェアボイコットは好転材料になるのか不透明。場合によっては自分の首を絞める。
政治家の中に、日本のマンガ、アニメの真の理解者は存在しない。
少なくとも政党全体の意思を決定出来る有力者は居ない。


自分のいっている事が正しいかは解らない。
大きな勘違いがあるかもしれない。
自分が関知しないところで様々な動きがあるのだろうと思うから多分状況は変わっていくだろう。
果たして杞憂に終わるのか、もっと酷い事になるのか・・。

少なくとも自分がこの世界で生きていかなくてはならないと考えたとき、静観することは許されないと思う。
自分の出来うる力で自分たちの権益を守っていかねばならない。
結局、そんな当たり前のことをみんな怠ってきただけなのだ。


最後に営業文。
因みにこの闘争エピソードが入っている『絶望帝国の興亡』は、今のところまだ単行本化されていない。
幻冬舎コミックスでは「影男シリーズ」として『晴れた日に絶望が見える』『絶望期の終わり』がコミックス化されているが、完結編である『絶望帝国の興亡』を含む終盤6エピソードが未だ単行本化される目処が立っていない。
一昨年、「コミックバーズ」の編集長が変わり、編集方針も転換された際(まあよくあること)、「影男シリーズ」のようなマイナー作品はなかなか取り上げて頂けず、恐らく今の状況では幻冬舎コミックスでの単行本化は不可能と思われる。
よって、現在、この「影男シリーズ」を改めてどこか別の出版社で出せないかと検討中でもある。
私事になってしまうが、この世界観をより多くの人に伝えたいという想いは強い。当然、この世界で食っていくためにもである。
『晴れた日に絶望が見える』と『絶望期の終わり』、そしてこの『絶望帝国の興亡』を含む未収録6エピソードまとめて完結させ、世に放つ事が目下のあびゅうきょプロジェクト最大優先事項。
もし、このブログを見て多少なりとも関心を持たれる編集の方が居られたらご一報願いたい。

fb6y-ab*asahi-net.or.jp(*の所を@に替えて下さい)


あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/