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映画『カイジ』を観た

映像鑑賞
10 /17 2010
週末の地上波テレビで放映していた映画。たしか『カイジ』とかいう作品。
特に観たかった訳ではない。単にテレビを灯したら目に飛び込んで来ただけ。それも途中からだ。
原作は知らないし、この作品がどんな評価をされているかも解らない。アニメでチラッと観た記憶があるだけ。
だが、それでもなんとなく見入ってしまったのはこんなシーンがあったから。

「人生の負け組」な男たちが起死回生のために唯一選択できる道は、高層ビルに掛かる一本の鉄骨を渡りきる事。
このゲームの胴元みたいな男が言う。
「日々、努力もしないで自堕落な生き方をしてきた男が底辺から這い上がるには、一か八かの命懸けのギャンブルに身を投じるしかないのだ!」
もはや、退路を絶たれた「負け組」男たちは遮二無二その「賭け」に挑むが、結局道半ばで落下し死んでいく。

そうだ。
「人生の敗北者」というのは、こうして二者択一を迫られるような状況に追い込まれる時点で終わっているのだ。
貴族でもない平民が真っ当な人生を歩みたければ日々の地道な努力を積み重ねることのみが最低限の生活を保障できる唯一の道。
自堕落な人間は底辺に堕ちて日々危険と隣り合わせの、それも薄給の中、貧困と病と不安と絶望に塗れ惨めな死を迎えなければならない。
一発逆転の人生など万に一つの可能性もない。
真っ当な生き方をした者が報われない事もあるが、それは例外というものだ。
不運な事故に巻き込まれる確率は、宝くじと同じ。
そんな天文学的な「不運」は極めて稀だ。
それと同じ確率の「賭け」で人生一発逆転を目論む事自体、空しい。
「自堕落人間」「人生の敗北者」にはそんな「幸運」など訪れはしない。
むしろやってくるのは「不運」のほうだ。
「貧すれば鈍す」の諺どおり、「不運」は常に「人生の敗北者」に付きまとう。
幸運は「勝者」にしか微笑まないと相場が決まっている。

昔、タカラの「人生ゲーム」というボードゲームがあった。「上がり」直前で持ち金の足りぬプレーヤーは最後に全財産をルーレットに託してサイコロを振る。だが大抵はその「賭け」に負けて「貧乏農場」行きだ。
一度たりとも勝った例はない。
そんな一か八かの「賭け」に頼る時点で、もうお終いなのだ。
「負け組み」はいつの世も一本の鉄骨の上から断末魔の様相で遥か地上にまっさかさまの最後しか待っていない。
このシーンはまるで己の近未来を見るようで失禁しそうになる。
恐ろしい!

そう。「人生の敗北者」になりたくなければ、日々こつこつと積み重ねた「質量」ある何かを「武器」にして人生を勝ち抜いていかねばならない。
一発逆転などという万に一つの可能性に頼った時点でおしまいだ。
そんな「袋小路」に追い込まれないためには、若い頃から這い蹲って己にしか出来ない「何か」の積み重ねに活路を見出す他ない。
それが、牛乳瓶の蓋であろうと、自分の垢のコレクションであろうと、日々の膨大な蓄積がもしかすると「宝の山」に化ける。
なぜならそのような「蓄積」は誰もマネが出来ぬ「唯一無二の希少価値」を生むからだ。
誰かが一朝一夕にして為しえない事が「財産」となって己を「人生の勝者」に導く。
己の人生を時の運に賭けることなく「底辺」から抜け出るには、どんな馬鹿げたものでも幼少の頃から継続し続けた「何か」を武器として己を救うしかない。

しかし、中年期を過ぎた「人生の敗北者」にとって、そんな「蓄積」は微塵もなかろう。
もし、そんなものが己に手に残っておれば、とっくの遠に惨めな「底辺」から抜け出している事だろう。
「人生の敗北者」はどこまでいっても「敗北」から逃れる事は出来ない。
「貧すれば鈍す」
人生とは何と非情なものか。

だが、今やこの日本に蠢く男達の大半は「人生の敗北者」に成り下がっている。
未来に託せる「財産」などなにもないのだ。
この「枠組み」の中では一生うだつが上がらない。
そこで男たちは想う。
それは自分が悪いのではなく「世の中」が悪いからだ!と。
己が不幸なのは、そんな「世の中」を牛耳る「敵」が居るからだ!とね。
その「敵」を倒さない限り、己の人生に「光」があたることはない!
だから「敵」!「敵」を倒すのだ!
世間から見捨てられた者はこうしてナショナリズムに走り、この世界の秩序を一変させようと試みる。
「敗北者」は「光」を求め、己の敵を外に見出す。
やがてそれは戦争を呼び、彼らは自ら戦場へ馳せ参じ、原野や海原に死屍累々を重ねる。
結局、気が付かぬうちに彼らは一本の鉄骨の上を歩かされていると同じ運命を強いられていたのだ。
微笑むのはこの「人生ゲーム」の胴元たる「人生の勝利者」たち。
人の魂を己の私腹を肥やす道具に為せるのはいつの世も「人生の勝利者」であって、利用されるのは常に「人生の敗北者」なのだ。
そういえば、こんな台詞もあったな。
「命を粗末に扱うなというが、大切に扱うと魂が腐る。粗末に扱ってこそ魂は精錬され輝くのだ!」
そんな口車に乗せられて「人生の敗北者」たちは「胴元」にいいように利用されてしまうのだ。

だが、この死の「人生ゲーム」から逃れる事は誰も出来ない。
たとえ利用されていると解っていても戦わざるを得ないのだ。
日本中の絶望独身男性たる「人生の敗北者」は、いつしか自ら「死の鉄骨渡り」に志願して、断末魔の叫びを上げつつ、絶望の死の谷へとまっさかさまに堕ちていく宿命なのだ。
こんなふうに。

「堕ちる!堕ちる!こんなことならヒキコモリやっていたほうがよかったよう!」
「押すな!堕ちる!押すな!堕ちるう!戦争なんかで死にたくない!でももう後戻り出来ない!畜生!奴ら俺たちを嵌めやがったな!さっさと核武装しときゃあこんな思いはしなかったんだあ!ああ!堕ちるうう!!」
「誰か助けてくれえ!一兵卒は辛いよう!人生の敗北者はどこまで行っても負け続けるんだああ!ぎゃああ!!」

こうして誰一人例外なく全員が死ぬ!
死ぬのだ!!
他に選択肢はない。
惨めな死か、悲惨な死か。その差にたいした意味はない。どっちみち「人生の敗北者」は哀れに死ぬのである。
一発逆転など、万に一つの可能性など存在しない。
運命は胴元たる「人生の勝利者」の手に握られているのだからね。
「人生の敗北者」が賭けに勝つのはフィクションの中だけだ。

恐ろしい。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/