「いらない人間」が過ごした夏休み
日常
8月31日は夏休み最終日。
この歳になっても幼少の頃のサイクルが染み付いて諸々の下らなくて情けない記憶が甦る。
劣等生で何の取柄もなかった小学校3年くらいまでは、夏休みの宿題なんて一切やっていなかった。
プール教室をボイコットし、仮病を使っても「嫌な事」から逃げ出す位が夏休みの「最大行事」だった。
東海大相模が高校野球決勝に進出したのが40年ぶりだということだったが、その当時、テレビの前で無邪気に観戦していた記述が、夏休み絵日記帳に残されていた。
その頃、親に買ってもらったグローブは今でも使う事が出来る。
まさか、40年後、これでキャッチボールしているとは夢にも思わなかったろう。
残念ながらキャッチボールの相手は息子ではないが。
いずれにしろ、当時の絵日記を紐解くたびに、己の情けない幼少の頃が甦り、いたたまれなくなる。
こんな知的障害のような役立たずの小学生に将来の夢なんかあろうはずもない。
まったくもって出来損ないの自分の子供時代に無性に腹が立つ。
クラスメートの女子に集団で馬鹿にされ、成績も殆どの科目が「劣っている」の欄にチェックされ、担任の女教師からは「足手まとい」「迷惑な存在」「役立たず」とあからさまに罵られたのを、今でも鮮明に覚えている。
今日の絶望の源泉はあの小学校5~6年時の女担任教師の賜物である。
現在、生きているかは知らぬが40年後、自分が担任した教え子にこんなふうに蒸し返されているとは思いも寄るまい。
人の欠点ばかり論ってねちねち責めてくるタイプの女性に標的にされやすかったから、その典型的なタイプの教師である彼女は水を得た魚の様に自分を突き回してきた。
今から思えばまさに精神的リンチのようだったが、幼少の自分には解るはずもない。
あんな教師の下で過ごさなかったら、もう少しマシな人間になっていたかもしれない。
小学生時代にどんな教師につくかで人間の出来不出来が決まってしまうかを如実に物語る経験だった。つくづく先生なんかになりたくないと思った。
嫌な事があったら「逃げ出す事」しか思いつかなかった幼少の自分。
蝉時雨の中、ただひたすら逃げて逃げて逃げ回った。
だがその感情を表に出す勇気もなく、絵日記には親に媚びていたのか「これからはちゃんとやろうと思う」なんて嘘八百を並べていたのだ。
挙句、40年後はこの有様である。
幼少の自分を嫌悪するのと同じく、当時の自分が2010年、50になったこの「絶望独身男性」たる自分をみたらどう思うだろう?
結婚もせず、子供も設けられず、煮え切らない日々を送っている「50歳の自分」を観たら、恐らくは卒倒してしまうだろう。
こんな大人になるなんて絶対嫌だと泣き喚くだろう。
だがもう遅いのだ!10歳のお前!
泣こうが喚こうが「人生の敗北者」とはこういうものなんだ。
当時のお前と同じく、屈辱に塗れ、誰からも必要とされない「いらない人間」として朽ち果てるしかないのだよ!
ざまあみろ!当時の自分。
ダメな人間は幾つになろうともダメなんだ!思い知れ!
夏休みが終わる。
宿題も何もやっていないが、否応なしに8月は終わって結果を迫られる。
なにもやっていない自分は例の如く、先生から叱咤され、クラスメイトからは嘲笑を浴びるのだ。
同じようにまもなく人生の黄昏が迫るというのに、結婚も子供も設けられず、男として成就したものはなにもないまま、年貢の納め時がやってくる。
恐ろしい!恐ろしい!
劣等生はどこまで行っても劣等生のまま。どん底人生救いなし。
ヒグラシとツクツク法師が合唱する夏の黄昏。人生の黄昏。
明日が9月1日ではなく「8月32日」に続く分岐点があったなら、迷わず自分は「8月32日」に進んだだろう。
その結果が「今」だとしても、もはや9月1日への道はとっくに閉ざされている。
「人生の閉経」
「8月32日」のなかでひとり寂しく朽ち果てるしかないのだ。
絶望の夏休みはまだまだ続く。
この歳になっても幼少の頃のサイクルが染み付いて諸々の下らなくて情けない記憶が甦る。
劣等生で何の取柄もなかった小学校3年くらいまでは、夏休みの宿題なんて一切やっていなかった。
プール教室をボイコットし、仮病を使っても「嫌な事」から逃げ出す位が夏休みの「最大行事」だった。
東海大相模が高校野球決勝に進出したのが40年ぶりだということだったが、その当時、テレビの前で無邪気に観戦していた記述が、夏休み絵日記帳に残されていた。
その頃、親に買ってもらったグローブは今でも使う事が出来る。
まさか、40年後、これでキャッチボールしているとは夢にも思わなかったろう。
残念ながらキャッチボールの相手は息子ではないが。
いずれにしろ、当時の絵日記を紐解くたびに、己の情けない幼少の頃が甦り、いたたまれなくなる。
こんな知的障害のような役立たずの小学生に将来の夢なんかあろうはずもない。
まったくもって出来損ないの自分の子供時代に無性に腹が立つ。
クラスメートの女子に集団で馬鹿にされ、成績も殆どの科目が「劣っている」の欄にチェックされ、担任の女教師からは「足手まとい」「迷惑な存在」「役立たず」とあからさまに罵られたのを、今でも鮮明に覚えている。
今日の絶望の源泉はあの小学校5~6年時の女担任教師の賜物である。
現在、生きているかは知らぬが40年後、自分が担任した教え子にこんなふうに蒸し返されているとは思いも寄るまい。
人の欠点ばかり論ってねちねち責めてくるタイプの女性に標的にされやすかったから、その典型的なタイプの教師である彼女は水を得た魚の様に自分を突き回してきた。
今から思えばまさに精神的リンチのようだったが、幼少の自分には解るはずもない。
あんな教師の下で過ごさなかったら、もう少しマシな人間になっていたかもしれない。
小学生時代にどんな教師につくかで人間の出来不出来が決まってしまうかを如実に物語る経験だった。つくづく先生なんかになりたくないと思った。
嫌な事があったら「逃げ出す事」しか思いつかなかった幼少の自分。
蝉時雨の中、ただひたすら逃げて逃げて逃げ回った。
だがその感情を表に出す勇気もなく、絵日記には親に媚びていたのか「これからはちゃんとやろうと思う」なんて嘘八百を並べていたのだ。
挙句、40年後はこの有様である。
幼少の自分を嫌悪するのと同じく、当時の自分が2010年、50になったこの「絶望独身男性」たる自分をみたらどう思うだろう?
結婚もせず、子供も設けられず、煮え切らない日々を送っている「50歳の自分」を観たら、恐らくは卒倒してしまうだろう。
こんな大人になるなんて絶対嫌だと泣き喚くだろう。
だがもう遅いのだ!10歳のお前!
泣こうが喚こうが「人生の敗北者」とはこういうものなんだ。
当時のお前と同じく、屈辱に塗れ、誰からも必要とされない「いらない人間」として朽ち果てるしかないのだよ!
ざまあみろ!当時の自分。
ダメな人間は幾つになろうともダメなんだ!思い知れ!
夏休みが終わる。
宿題も何もやっていないが、否応なしに8月は終わって結果を迫られる。
なにもやっていない自分は例の如く、先生から叱咤され、クラスメイトからは嘲笑を浴びるのだ。
同じようにまもなく人生の黄昏が迫るというのに、結婚も子供も設けられず、男として成就したものはなにもないまま、年貢の納め時がやってくる。
恐ろしい!恐ろしい!
劣等生はどこまで行っても劣等生のまま。どん底人生救いなし。
ヒグラシとツクツク法師が合唱する夏の黄昏。人生の黄昏。
明日が9月1日ではなく「8月32日」に続く分岐点があったなら、迷わず自分は「8月32日」に進んだだろう。
その結果が「今」だとしても、もはや9月1日への道はとっくに閉ざされている。
「人生の閉経」
「8月32日」のなかでひとり寂しく朽ち果てるしかないのだ。
絶望の夏休みはまだまだ続く。