夏の夕暮れに聴く楽曲
日常
渋谷にあった老舗のCD屋が閉店してしまったそうである。原因は売り上げ不振とか。
今や「音楽」はネットで曲名とアーティストを検索すればあっさり動画サイトで聞けてしまうらしい。
それもデジタルな高音質で。
試しにやってみたら、確かにあっという間に出てきた。
魔法みたいなものか。
よくブログなどで自分のお気に入り楽曲としてその動画サイトをリンクしているのを見かけるが、こんな簡単にアクセス出来るとはびっくりである。
だからみんな率先してやるのだろう。
よって試しに自分もやってみる。
このシーズン、夏の夕暮れに高いところから街を見下ろしているとこの曲がBGMみたいに頭の中で聴こえ始める。
高層ビルの展望ロビーから眺める黄昏の街や、幸せそうな恋人同士の客のシルエットをロンリーに眺める己の琴線に触れた曲だった。
オフコースは学生時代よく聴いてた。
この『哀しき街』は歌っているのが小田ではなく、別の人だった記憶がある。
あまりメンバーの名前を覚える事はしなかった。
結局レコードは一枚も買わず、後にCDになっても買わなかった。
唯一、1983年頃、NHKFMで放送された「オフコース特集」かなにかをエアチェックし、カセットテープに録音したものが何本かあるだけ。その中にこの曲もあった。
今でも再生可能だ。
無論、デジタル録音でもなく、アナログの、それもヒスノイズやどこかのイグニッションノイズが紛れ込んだ代物。経年変化もあろう。
だが、今こうして動画サイトから高音質で聴いたからといって、四半世紀前にアナログ録音した「音」に勝っているとはとても思えない。たまたまこれには付いていなかったが「動画」も余計である。己のイメージと合致する事は100%ありえない。
自分の世代において「ダウンロードして楽曲を聴く」という行為は、「音楽」を堪能するということとは程遠い感じがする。
多分、物心ついた頃からネットがある環境に生きている世代であればそんなこともないのだろう。
CDが出てきた頃はアナログレコード派にとって認めがたい音楽媒体だったはずだ。
そして、レコードが発明された頃には「蓄音」された音楽など許しがたい存在と反発した者も多かったろう。
技術革新が音楽媒体の環境を変えていき、聴く側の姿勢も必然的に変わらざるを得ないのだ。
そういう意味では、もはや自分は現在のネット環境についていけない世代になってしまったのだろう。
いずれにしろ、お気に入りの音楽に辿り着くまでは、ラジオにしろ、CDにしろ、ネットにしろ諸々の「過程」が存在するわけでネットの時代になったからといってその「過程」自体が変異した訳ではない。
所詮、聴くのは「生身の人間」だ。
それぞれ心の喜怒哀楽に刻み込まれた人生を経由して、それが「忘れがたい楽曲」となる。
受け取る者によってその楽曲のイメージは全部違う。
そして瞬時に得られる情報は瞬時に忘れられる。
途中の過程をショートカットする情報取得は、いわば熟成されないワインの原液を飲んでいるようなものだ。
アルコール分ゼロの「お酒」を飲んだつもりになっているだけ。
時間を経なければ得られない「旨味」というものがある。
芳醇な香りに辿り着くまでには幾星霜を要する。
ネットといえど、その「工程」を圧縮する事は不可能だ。
ネットは巧みに人からその重要な「工程」を盗み取っていく。
今や「音楽」はネットで曲名とアーティストを検索すればあっさり動画サイトで聞けてしまうらしい。
それもデジタルな高音質で。
試しにやってみたら、確かにあっという間に出てきた。
魔法みたいなものか。
よくブログなどで自分のお気に入り楽曲としてその動画サイトをリンクしているのを見かけるが、こんな簡単にアクセス出来るとはびっくりである。
だからみんな率先してやるのだろう。
よって試しに自分もやってみる。
このシーズン、夏の夕暮れに高いところから街を見下ろしているとこの曲がBGMみたいに頭の中で聴こえ始める。
高層ビルの展望ロビーから眺める黄昏の街や、幸せそうな恋人同士の客のシルエットをロンリーに眺める己の琴線に触れた曲だった。
オフコースは学生時代よく聴いてた。
この『哀しき街』は歌っているのが小田ではなく、別の人だった記憶がある。
あまりメンバーの名前を覚える事はしなかった。
結局レコードは一枚も買わず、後にCDになっても買わなかった。
唯一、1983年頃、NHKFMで放送された「オフコース特集」かなにかをエアチェックし、カセットテープに録音したものが何本かあるだけ。その中にこの曲もあった。
今でも再生可能だ。
無論、デジタル録音でもなく、アナログの、それもヒスノイズやどこかのイグニッションノイズが紛れ込んだ代物。経年変化もあろう。
だが、今こうして動画サイトから高音質で聴いたからといって、四半世紀前にアナログ録音した「音」に勝っているとはとても思えない。たまたまこれには付いていなかったが「動画」も余計である。己のイメージと合致する事は100%ありえない。
自分の世代において「ダウンロードして楽曲を聴く」という行為は、「音楽」を堪能するということとは程遠い感じがする。
多分、物心ついた頃からネットがある環境に生きている世代であればそんなこともないのだろう。
CDが出てきた頃はアナログレコード派にとって認めがたい音楽媒体だったはずだ。
そして、レコードが発明された頃には「蓄音」された音楽など許しがたい存在と反発した者も多かったろう。
技術革新が音楽媒体の環境を変えていき、聴く側の姿勢も必然的に変わらざるを得ないのだ。
そういう意味では、もはや自分は現在のネット環境についていけない世代になってしまったのだろう。
いずれにしろ、お気に入りの音楽に辿り着くまでは、ラジオにしろ、CDにしろ、ネットにしろ諸々の「過程」が存在するわけでネットの時代になったからといってその「過程」自体が変異した訳ではない。
所詮、聴くのは「生身の人間」だ。
それぞれ心の喜怒哀楽に刻み込まれた人生を経由して、それが「忘れがたい楽曲」となる。
受け取る者によってその楽曲のイメージは全部違う。
そして瞬時に得られる情報は瞬時に忘れられる。
途中の過程をショートカットする情報取得は、いわば熟成されないワインの原液を飲んでいるようなものだ。
アルコール分ゼロの「お酒」を飲んだつもりになっているだけ。
時間を経なければ得られない「旨味」というものがある。
芳醇な香りに辿り着くまでには幾星霜を要する。
ネットといえど、その「工程」を圧縮する事は不可能だ。
ネットは巧みに人からその重要な「工程」を盗み取っていく。