「ゲゲゲの女房」とあすなひろし展
映像鑑賞
NHK朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」は、興味深く見続けている。
特に漫画家と編集者を描く考証は実に研究されていてリアルだ。
この辺りの描写が原作にあるのかは知らないが、少なくともかなり正確に描いている事は間違いない。
たとえば、出版社の中で漫画雑誌編集部の立場が文芸関係より下に見られているとか、人事の描写とか。そして漫画家と編集者とのやり取りも上手く作ってある。
ドラマではちょうど水木しげるが大手出版社からの依頼に応えて作品執筆するところなのだが、観ていて感慨深い。
水木の担当者はタイミングよく編集長に抜擢された男。
そう、編集長が直に担当するところに味噌がある。
だからこそ水木はここで大成するのだ。
もし、これがペイペイの平編集者であったなら、このような「ザラッとした」マイナー漫画家の作品などメジャー誌に採用される可能性は万に一つもなかったろう。
結果第一主義の編集長なら有無を言わせず「没」にする。
常に「売れる事」第一に考える大手出版社は最初から売れ筋の漫画家を起用し、海のものとも山のものとも付かないマイナー40代漫画家には絶対依頼しない。
それでも依頼が来るのは、絶大な権限をもった編集長の「眼力」以外に考えられぬ。
そんな奇特な「眼力」を持った編集長に見初められた漫画家だけが水木のような「唯我独尊」的世界をメジャー界で発揮できるのである。
そう、マイナーな世界をひたすら描く漫画家がメジャーの道を切り開くには相当の実力を持った「奇特」な編集者との出会いなくしては成しえないのだ。
そのあたりの描写は実に上手く作ってある。
他にも興味深いシーンが見受けられた。
水木が細かい網線をペンで入れている様子を編集者が見て「これは印刷では潰れてしまいますね」というと、水木は「それは判っています。でも描かずにはいられない。これが自分の描き方だから」みたいな台詞があって、なんだか他人事には思えなかった。
効率よりも自分の信じる描き方をひたすら踏襲する姿勢があるからこそ、「貧乏神」にも打ち勝つ事が出来る。
NHK朝の連続ドラマにしてはよく出来すぎているほどの完成度だ。
原作がよかったのか脚本がよかったのかは知らぬが、リアリティーに関しては脱帽である。
たまたま先日「あすなひろし」原画展に足を運んだ。
「孤高の漫画家」と謳われているが、原画を鑑賞すると漫画の基本技法に忠実で決して特殊な描き方をする人ではない。
応用が独特なだけだ。
現役中に描いた枚数は万単位らしく、つまり大量生産大量消費に対応出来る「高度成長的ガンバリ」時代の申し子だ。
この時代の漫画原稿は右から左へ消費され、忘れられ破棄されるのが当たり前だった。
だから1960年代の漫画原稿を今、こうして鑑賞出来ることだけでも貴重な体験に繋がっている。
その原稿から溢れ出る「高度成長的」エネルギーはパソコンで処理される今のデジタル原稿とはステージが違う。
すべて生身の人間による筆圧のこもった「タイムカプセル」のようなもの。
修正跡や下書きの鉛筆さえも貴重な遺産になっている。
おそらく「ゲゲゲの女房」で描かれている水木もまた同じく、大量生産大量消費時代の中で「高度成長的ガンバリ」を実践してきた漫画家。
決して「芸術家」ではないのだ。
生活のために身を削る姿勢は、当時の「モーレツサラリーマン」と変わらないだろう。
だから、現代のマイナー漫画家とは「似て異なる」存在だ。
もはやモーレツに突っ走る目標も養う妻子もない己の如きマイナー漫画家が水木のような「サクセスストーリー」を獲得することは夢のまた夢。
一方、当時はコミケのような自費出版市場など存在しなかったので、プロの道を絶たれたら即都落ちするしかなく、ネットもないから他に自分の作品を公に発表する場も皆無だった。
しかし、それだけ選択肢がない厳しい世界だったからこそ皆必死になった。
単純にどちらがよいかは判らない。
ただ「歴史」を刻むことが出来るのは間違いなく1960年代に創作に没頭していた水木のような人々だ。
紙の原稿にひたすらペンを走らせる。
「描くべし!描くべし!」
それが未来への唯一の扉だ。
この原則は、今も昔も変わるまい。
特に漫画家と編集者を描く考証は実に研究されていてリアルだ。
この辺りの描写が原作にあるのかは知らないが、少なくともかなり正確に描いている事は間違いない。
たとえば、出版社の中で漫画雑誌編集部の立場が文芸関係より下に見られているとか、人事の描写とか。そして漫画家と編集者とのやり取りも上手く作ってある。
ドラマではちょうど水木しげるが大手出版社からの依頼に応えて作品執筆するところなのだが、観ていて感慨深い。
水木の担当者はタイミングよく編集長に抜擢された男。
そう、編集長が直に担当するところに味噌がある。
だからこそ水木はここで大成するのだ。
もし、これがペイペイの平編集者であったなら、このような「ザラッとした」マイナー漫画家の作品などメジャー誌に採用される可能性は万に一つもなかったろう。
結果第一主義の編集長なら有無を言わせず「没」にする。
常に「売れる事」第一に考える大手出版社は最初から売れ筋の漫画家を起用し、海のものとも山のものとも付かないマイナー40代漫画家には絶対依頼しない。
それでも依頼が来るのは、絶大な権限をもった編集長の「眼力」以外に考えられぬ。
そんな奇特な「眼力」を持った編集長に見初められた漫画家だけが水木のような「唯我独尊」的世界をメジャー界で発揮できるのである。
そう、マイナーな世界をひたすら描く漫画家がメジャーの道を切り開くには相当の実力を持った「奇特」な編集者との出会いなくしては成しえないのだ。
そのあたりの描写は実に上手く作ってある。
他にも興味深いシーンが見受けられた。
水木が細かい網線をペンで入れている様子を編集者が見て「これは印刷では潰れてしまいますね」というと、水木は「それは判っています。でも描かずにはいられない。これが自分の描き方だから」みたいな台詞があって、なんだか他人事には思えなかった。
効率よりも自分の信じる描き方をひたすら踏襲する姿勢があるからこそ、「貧乏神」にも打ち勝つ事が出来る。
NHK朝の連続ドラマにしてはよく出来すぎているほどの完成度だ。
原作がよかったのか脚本がよかったのかは知らぬが、リアリティーに関しては脱帽である。
たまたま先日「あすなひろし」原画展に足を運んだ。
「孤高の漫画家」と謳われているが、原画を鑑賞すると漫画の基本技法に忠実で決して特殊な描き方をする人ではない。
応用が独特なだけだ。
現役中に描いた枚数は万単位らしく、つまり大量生産大量消費に対応出来る「高度成長的ガンバリ」時代の申し子だ。
この時代の漫画原稿は右から左へ消費され、忘れられ破棄されるのが当たり前だった。
だから1960年代の漫画原稿を今、こうして鑑賞出来ることだけでも貴重な体験に繋がっている。
その原稿から溢れ出る「高度成長的」エネルギーはパソコンで処理される今のデジタル原稿とはステージが違う。
すべて生身の人間による筆圧のこもった「タイムカプセル」のようなもの。
修正跡や下書きの鉛筆さえも貴重な遺産になっている。
おそらく「ゲゲゲの女房」で描かれている水木もまた同じく、大量生産大量消費時代の中で「高度成長的ガンバリ」を実践してきた漫画家。
決して「芸術家」ではないのだ。
生活のために身を削る姿勢は、当時の「モーレツサラリーマン」と変わらないだろう。
だから、現代のマイナー漫画家とは「似て異なる」存在だ。
もはやモーレツに突っ走る目標も養う妻子もない己の如きマイナー漫画家が水木のような「サクセスストーリー」を獲得することは夢のまた夢。
一方、当時はコミケのような自費出版市場など存在しなかったので、プロの道を絶たれたら即都落ちするしかなく、ネットもないから他に自分の作品を公に発表する場も皆無だった。
しかし、それだけ選択肢がない厳しい世界だったからこそ皆必死になった。
単純にどちらがよいかは判らない。
ただ「歴史」を刻むことが出来るのは間違いなく1960年代に創作に没頭していた水木のような人々だ。
紙の原稿にひたすらペンを走らせる。
「描くべし!描くべし!」
それが未来への唯一の扉だ。
この原則は、今も昔も変わるまい。