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旧友たちとの宴

日常
05 /01 2010
先日、久しぶりに大学の漫画研究会同期だった旧友達と会う。
きっかけは自分のホームページにアクセスした旧友からメールを貰った事に始まる。
いつしか幹事も決まって宴席の場を設ける運びとなった。
集まったのは13人。
無論、男ばかり。50代に掛からんとする世代ではもはや女性部員に連絡出来る術がない。女性は家庭に入ってしまうと「別世界」の住人となってしまう。
それはさておき、こうして纏まって会うのは十数年ぶりだろうか?
その中の8人が妻帯者で子持ち。子息はすでに大学進学しているというから驚きだ。
子供が二十歳前後であることが信じがたい。自分らが大学在学中の頃と同じ年齢なのだ。
まさに御伽噺の世界。
そこに現実の妻子が見えないからまだ耐えて聞いていられたが、実際やってきたら卒倒してしまうだろう。
確かに旧友たちはそれ相応の「50代」になってはいたが、実際会うと「空白」の十数年が抜けたようになって、その年月は意識されないから余計奇妙な感じに捉われる。

だが妻帯者と独身の間には「越えられない見えない壁」が歴然と横たわっていた。
20年間、子育てをし、子供を大学に通わせているという妻帯者と、己の遺伝子を残せず、ただ時間に委ねて流されただけの独身者とでは「生きるステージ」が格段に違う。
かつて気兼ねなく馬鹿話出来た旧友たちの間には底知れぬ恐るべき溝が存在していたのもまた事実であった。
会話もどこか他人行儀。やはり子供を大学に通わせるというステイタスが在るなしでは身分が違う。
妻帯者からすれば、独身者など身体障害者並みの片輪。だから丁重に扱わないと失礼という意識が見え隠れする。
実際身障者手帖を持った独身者同輩もいたし、やはり独身者はどこかしら障害があると言わざるを得ない。
一方、妻帯者たちは、ミクシーもツイッターもスマートフォンも無縁な者が多い。
なぜならそんなもの必要でないからだ。
そのようなネット情報ツールに頼らなくても十分に「リア充」は確保できる事がここに証明されている。
要するにミクシーもツイッターも本来の幸せには何ら貢献していないのだ。
「リア充」には必要ない無駄な情報だけが彷徨い、独身者たちを戸惑わさせているだけ。
その事実を知っただけでも、自分は情けなく辛くなる。
何も残せない自分。
妻帯者の「沈黙なる自信」がひしひしと迫って自分の惨めさが浮き彫りになってくる。

子育て中心に生きてきた妻帯者は「上から目線」で独身者を見下ろす権利がある。
そして独身者は己の惨めさを再確認しなければならぬ義務がある。
子育て支援も受けられず、ただ「犯罪者予備軍」「ニート」「ひきこもり」と責められ続け、挙句孤独死を迎えざるを得ない哀れな絶望独身男性に宴を楽しむ余裕は何処にもなかった。

さて、宴での話題はもっぱら「自殺」。
「あの人自殺したねえ」「会社の上司、自殺したよ」
さすが年間3万人を誇る自殺者の国である。
50代となれば身近な人間の死の原因は自殺が定番となろう。
「自殺話」を肴に焼肉を頬張る。
恰も自殺者の死肉を貪るかのごとく、刹那的に宴は進む。
しかし妻帯者にとって子育てはほぼ終了。哺乳類として人生は成就しているのだから、たとえ自殺話が出たとしても他人事だ。
一方、独身者にとっては「明日は我が身」。
焼肉が自分の死体に感じたので思わずレタスに包んで現実を忘れようとする。

同輩の一人が尋ねる。
「お前は全然変わらんなあ。変わらないということはいいことでもある」と。
しかし、それは志を成した者に限って言えることだ。
何も成せずして変わらないのは単なる木偶の坊。
無論、社交辞令だったのだろうがそれを素直に受け取る余裕もない。
いっそこう言って貰えればよかったのだ。
「お前はいつまでたっても役立たずの50歳児だな。恥を知れよ」
そして自分はこう応えるのだ。
「あいすみません」

独身者の一人が、四半世紀前、合宿免許の宿舎で片思いだった女の子の話をし始める。
今更どうにもなるまいのに回想は止まらない。
自分は苛立ってこう返す。
「いっそ、タイムマシンであの頃に帰って彼女を妊娠させるんだ!妊娠させるんだよ!この意気地なしがあ!今の惨めさはあの時の意気地なしの自分にあるんだ!このダメ人間の俺!ぐぎゃあーー」
かなり酔いが回っていたのでよく覚えていないがそんな内容の妄言を吐いた気がする。
更に我々の席の隣に女の子グループが居たので思わず同輩の独身者に進言する。
「今からでも遅くはないんだ。あの女性グループの席に近寄り、焼肉に己のタンパク質を振りかけて、全員を妊娠させるんだ!それが俺たち惨めな独身50代の最後の希望だ!菊水作戦だ!ちくしょう!」
しかしもう誰も自分の話は聞いていない。

極めつけ、本日のメインディッシュはこれだ。
同席した旧友が持ってきた学生時代の写真。
その中に、昔、想いを寄せた後輩の女の子も写っていた。
1980年前後、聖子ちゃんカットにハマトラファッション全盛期。その集合写真に残された彼女は今や50に近い。
現在、その彼女は2児の母親なのである。彼女の旦那は同サークルの旧友でこの宴にも同席しており、なんとその場で次女の写真が披露されたのである。
いかにも今風な中学生の女の子の姿が、その携帯の液晶に投影されていた。
奇妙で複雑な想いが脳裏を駆け巡り、失禁しそうになる。
まるでネモ船長がナディアをフォログラムで観た時の如く。
就職、結婚、子育てという「通過儀礼」を悉く放棄してここまで生きてきた自分にとって、思いを寄せた後輩の女の子の娘の姿は俄かに信じがたい。
自分の中ではその後輩は今でも18歳のままで大学の教室で佇んでいるはずなのだ。
その彼女に中学生の娘が居る。
そんな馬鹿な!
これは狂った世界だ!
時空が歪んで別の宇宙と繋がったに違いない。
これは嘘世界だ!
こんな写真を見せられるということは、まさに己の人生の「敗北宣言」に他ならない。
彼女には幸せな家庭がある。
しかし自分にはそんなものは何もない。
妻も子も財産も未来も栄光も名誉も・・・。
何もないのだ!
何一つ!
ぐぎゃーーああああ!

その娘の写真が突然、喋り始めた。
こんなふうに。

「あなたが28年前、私のお母さんにあこがれたキモイ先輩ね。
あんたまだ独身やってるの?惨めね。
結婚も子育てもせず、だらだらと自称漫画家やってて恥だと思わないの?この人間のクズ!
お母さんもこんなクズ人間に好かれていたなんて気の毒だわ。
あんた一生独身で孤独死よ。
でも私は愛するパパとママをずっと見守っていくわ。
これが真っ当な人生というものよ。
結婚し、子を残す。これが出来ない人間は人間に有らず。
とっとと朽ち果てるがいいわ!キモイ独身男!
さっさと死ねよ」

無論、これは幻聴であったが、自分はこれを受信した瞬間、ガクガクブルブルとなり、「どぎゃああああああ!」と叫び机の下に逃げ込んだ!
そして独りすすり泣くのだった。
焼肉を焼いている店のお姉さんがキチガイを見るような目でこちらを窺がう。
そうだ。
己はなんの役に立たない片輪であり、キチガイなのだ。
畜生!

嗚呼、何という残酷なる現実なのだろう。
リアル人生ゲーム!
貴族舞踏会に招かれて優雅な人生を美しい妻と可愛い娘に囲まれて過ごす「人生の勝利者」たる妻帯者。
その一方で、地位も名誉も財産も妻も子も何もない「貧乏農場行き」の「人生の敗北者」たる絶望独身男性。
この歴然たる事実を目のあたりにして、己の惨めな人生をこれでもかこれでもかと再確認せざるを得ないのである。
やがて妻帯者の子息たちが、自分のような絶望独身男性を追い落とす日が来るのだろう。
己の遺伝子を残せない独身者の行く末は惨めの一言に尽きる。
これでもかこれでもかとその歴然たる事実が己を打ちのめすのだ。



哀れみと恥をたっぷりと味わい、惨めに宴は終了した。

帰り際、妻帯者の一人が言う。
「もう一生会うことはないと思っていたけれど、こんな宴を設けてくれたことで再び顔を見ることが出来たよ」
おそらく、同年代の惨めな独身者を見物出来て面白かったという意味なのだろう。
哀れの極みだ。
そうだ。
次の再会の場は誰かの告別式会場かもしれない。
だが、それも妻帯者の誰かの可能性が高い。なぜなら独身者は死んでも誰にも気づかれず告別式すら執り行われないからだ。
娘にも息子にも妻にも看取られないから連絡される術もない。
独身者は死しても惨めなのだ。

店の外に出ると、NTT代々木ビルに巨大な満月が掛かり、惨めな独身者を哂うかのごとく月光が「人生の敗北者」に恥のスポットライトを浴びせていた。

絶望独身男性に救いはない。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/