いったいお前はナニモノだ?
日常
曇天の朝。
上空の逆転層に反射され、都市ノイズが低い「ゴオ」という響きと共に落ちてくる。
新宿とか渋谷と池袋とか、激烈なる人の渦に巻き込まれる時、必ず思うこと。
これ、すべて母親の胎内から生まれでた存在であるということを。
それも例外なく。
ごく当たり前の、人類、いや有性生殖生物がこの地球に存在し始めてから延々と営まれていた結果が、この3000万首都圏の人の渦を形成している事実。
これまで人は例外なく、就職、結婚、出産という「ごく当たり前」の通過儀礼を経て、人生を全うし死んでいった。
それはなんの疑いもない誰もが受け入れなければいけない宿命だったのだ。
きょうNHKドラマ「ゲゲゲの女房」を見ていたら、島根から東京へと嫁ぐ主人公が、故郷に今生の別れみたいな覚悟を強いるシーンがあって、その紛れもない「通過儀礼」は苦痛と悲しみに満ちていた。
「幸せな日常の放棄」。
当時はそれが当たり前でそうでなければ生きていけなかった訳でもあるが、その「通過儀礼」あってこそ「未来」が築かれていったことも、また事実なのだ。
だが、2010年現在、この大都市の真ん中に巣食う己のような絶望独身男性はそんな「当たり前」な通過儀礼を経ることなく、半世紀を生き、壮年期から初老期を窺がおうとする人生の「第4カーブ」に差し掛かろうとしている。
にも拘らず、己はその宿命を受け入れることを未だ拒絶し続ける。
人は変わることを恐れ始めた。
変わることは失うこと。
いつしか就職、結婚、出産は人生において損失であり己の破壊であるという「囁き」が蔓延しはじめた。
男も女も「通過儀礼」を恐れ、ただひたすらに「己の殻」に閉じこもる。
そして人生に対する「年貢」を納めることなく生きるようになる。
人は豊かになれば「自己犠牲」を伴う通過儀礼を捨てる。
誰も「年貢」は納めたくないのだ。
「年貢」のない世界は理想郷かも?という幻想が支配していく。
結果、人は子孫を育むことなく老い朽ちていく。
恐らく、それは遺伝子の中に組み込まれた「絶滅プログラム」なのかもしれない。
増えすぎた種は地球上の環境を維持する上で著しく不均衡な存在となる。
だからそのような存在はある一定の「豊かさ」レベルを超えると「自滅」するように作られているのだろう。
この3000万首都圏に渦巻く人の流れは、明らかに許容範囲を超えている。
この人口を抱えるための資源は、恐らくもうこの地球上で確保することは困難になるかもしれない。
この閉塞した時代。袋小路の端っこに閉じ込められ、いじいじと石の下の虫のように生き続けることが「最高の贅沢」となった今、かつての「通過儀礼」は意味を成さない。
「通過儀礼」の果てにあった「幸せ」はもう何処にもない。
そんな幸せは人口が増え続けた時代の専売特許だ。
ついに人口減の時代に入り、新しい未来を築かなくなった社会に、就職、結婚、出産、子育ては必要なくなった。
あるのは滅びだけなのだ。
だが、人は所詮、ホモサピエンスという哺乳動物。
その本能には抗えない。
たとえ理屈で解っていようとも、その理性を乗り越えて、本能はこれでもかこれでもかと大脳被質を乗り越え、その衝動で人を突き動かす。
そして、その衝動が人類の歴史を作ってきたのだ。
望むと望まぬに拘わらず、それが人の「宿命」なのだ。
人はその「宿命」に年貢を払い、多くの自己犠牲を伴って次世代を育んできた。
本能が理性を突破する時、人は変わる。歴史が変わる。
「生きるって事は変わるってことだ」
どこかで聞いた他愛のないアニメの台詞が己の心の片隅で響く。
この気の遠くなるような、人の洪水は、すべて本能に突き動かされた結果なのだ。
望むと望まぬに拘わらず、一切の例外なく己に突きつけられた紛れもない現実がこの3000万の人の渦だ。
闊歩する人々はその背後に何万という先人の霊を背負い、またこの世に生まれ出る前に「刈り取られた」存在をも抱えて生きている。
己自身にも、先祖の霊が幾重にも重なり「生かされて」いるのだ。
その霊たちが己に囁く。
「さあ子孫を作れ!」
「お前の遺伝子を未来に告ぐのだ!」
「我らの血統を残すのだ!それがお前の義務なのだ!」
またこの世に生まれ出ることなく「刈り取られた」存在も己に訴える。
「お前はこの世に生まれでて幸いなんだぞ。その前に消されてしまった俺たちの無念は如何程か解っているのか!」
「その怨念でお前は生かされている。我らが得られなかったこの世に生まれ出た者の権利を行使せずして老い朽ちて逃げ切る気か!許すまじ!許すまじ!」
その底なしの衝動が、一切の理性をかなぐり捨て己を「危険な」宿命へと駆り立てる。
宇宙開闢以来のエントロピー増大の宿命が、これでもかこれでもかと急き立てる。
一方で「理性」も己の中で反駁する。
「そんな本能に突き動かされたら、己の破滅だ。お前のような弱き者が通過儀礼を選択した瞬間、あっという間に滅ぼされるぞ!」
「いいじゃないか。このままで。今もこうして下らない戯言をネット上の日記で垂れ流せるんだ。それがお前の人生で関の山だったんだよ。これも幸せなカタチさ。」
本能の衝動は激しく急き立て、その一方で通過儀礼の恐怖に抗う己。
理性と本能の衝突が己を引き裂く!
ぐぎゃああーーー!
もはや父親になる権利も失いつつある惨めな己にも、その恐ろしい「本能の叫び」はずっと付いて回る。
そしてその衝動は、滅びと繁栄の分水嶺で木霊のように響き渡る。
「おまえはいったいナニモノだ?」
満員の中央線。その沿線に広がる膨大な人の営みの居。
これすべて「本能の叫び」が生んだ結果である。
「通過儀礼」を拒み、その「本能の叫び」を拒絶し続けた果てには孤独死しかない。
だがその「通過儀礼」を受け入れたところで数多の者は破れ、惨めに朽ち死んでいったのだ。
弱肉強食。
弱きものは淘汰され、この世から消え去る。
その「通過儀礼」のステージに引き出され、現実と闘争させられる恐怖と、このまま朽ち果てる無念さとどちらが勝るか?
闘争の末、僅かの望みを勝ち取るか、はたまた孤独死か?
はっきりせよ自分!
恐ろしい逡巡の日は続く。
人生とは何ぞや。
上空の逆転層に反射され、都市ノイズが低い「ゴオ」という響きと共に落ちてくる。
新宿とか渋谷と池袋とか、激烈なる人の渦に巻き込まれる時、必ず思うこと。
これ、すべて母親の胎内から生まれでた存在であるということを。
それも例外なく。
ごく当たり前の、人類、いや有性生殖生物がこの地球に存在し始めてから延々と営まれていた結果が、この3000万首都圏の人の渦を形成している事実。
これまで人は例外なく、就職、結婚、出産という「ごく当たり前」の通過儀礼を経て、人生を全うし死んでいった。
それはなんの疑いもない誰もが受け入れなければいけない宿命だったのだ。
きょうNHKドラマ「ゲゲゲの女房」を見ていたら、島根から東京へと嫁ぐ主人公が、故郷に今生の別れみたいな覚悟を強いるシーンがあって、その紛れもない「通過儀礼」は苦痛と悲しみに満ちていた。
「幸せな日常の放棄」。
当時はそれが当たり前でそうでなければ生きていけなかった訳でもあるが、その「通過儀礼」あってこそ「未来」が築かれていったことも、また事実なのだ。
だが、2010年現在、この大都市の真ん中に巣食う己のような絶望独身男性はそんな「当たり前」な通過儀礼を経ることなく、半世紀を生き、壮年期から初老期を窺がおうとする人生の「第4カーブ」に差し掛かろうとしている。
にも拘らず、己はその宿命を受け入れることを未だ拒絶し続ける。
人は変わることを恐れ始めた。
変わることは失うこと。
いつしか就職、結婚、出産は人生において損失であり己の破壊であるという「囁き」が蔓延しはじめた。
男も女も「通過儀礼」を恐れ、ただひたすらに「己の殻」に閉じこもる。
そして人生に対する「年貢」を納めることなく生きるようになる。
人は豊かになれば「自己犠牲」を伴う通過儀礼を捨てる。
誰も「年貢」は納めたくないのだ。
「年貢」のない世界は理想郷かも?という幻想が支配していく。
結果、人は子孫を育むことなく老い朽ちていく。
恐らく、それは遺伝子の中に組み込まれた「絶滅プログラム」なのかもしれない。
増えすぎた種は地球上の環境を維持する上で著しく不均衡な存在となる。
だからそのような存在はある一定の「豊かさ」レベルを超えると「自滅」するように作られているのだろう。
この3000万首都圏に渦巻く人の流れは、明らかに許容範囲を超えている。
この人口を抱えるための資源は、恐らくもうこの地球上で確保することは困難になるかもしれない。
この閉塞した時代。袋小路の端っこに閉じ込められ、いじいじと石の下の虫のように生き続けることが「最高の贅沢」となった今、かつての「通過儀礼」は意味を成さない。
「通過儀礼」の果てにあった「幸せ」はもう何処にもない。
そんな幸せは人口が増え続けた時代の専売特許だ。
ついに人口減の時代に入り、新しい未来を築かなくなった社会に、就職、結婚、出産、子育ては必要なくなった。
あるのは滅びだけなのだ。
だが、人は所詮、ホモサピエンスという哺乳動物。
その本能には抗えない。
たとえ理屈で解っていようとも、その理性を乗り越えて、本能はこれでもかこれでもかと大脳被質を乗り越え、その衝動で人を突き動かす。
そして、その衝動が人類の歴史を作ってきたのだ。
望むと望まぬに拘わらず、それが人の「宿命」なのだ。
人はその「宿命」に年貢を払い、多くの自己犠牲を伴って次世代を育んできた。
本能が理性を突破する時、人は変わる。歴史が変わる。
「生きるって事は変わるってことだ」
どこかで聞いた他愛のないアニメの台詞が己の心の片隅で響く。
この気の遠くなるような、人の洪水は、すべて本能に突き動かされた結果なのだ。
望むと望まぬに拘わらず、一切の例外なく己に突きつけられた紛れもない現実がこの3000万の人の渦だ。
闊歩する人々はその背後に何万という先人の霊を背負い、またこの世に生まれ出る前に「刈り取られた」存在をも抱えて生きている。
己自身にも、先祖の霊が幾重にも重なり「生かされて」いるのだ。
その霊たちが己に囁く。
「さあ子孫を作れ!」
「お前の遺伝子を未来に告ぐのだ!」
「我らの血統を残すのだ!それがお前の義務なのだ!」
またこの世に生まれ出ることなく「刈り取られた」存在も己に訴える。
「お前はこの世に生まれでて幸いなんだぞ。その前に消されてしまった俺たちの無念は如何程か解っているのか!」
「その怨念でお前は生かされている。我らが得られなかったこの世に生まれ出た者の権利を行使せずして老い朽ちて逃げ切る気か!許すまじ!許すまじ!」
その底なしの衝動が、一切の理性をかなぐり捨て己を「危険な」宿命へと駆り立てる。
宇宙開闢以来のエントロピー増大の宿命が、これでもかこれでもかと急き立てる。
一方で「理性」も己の中で反駁する。
「そんな本能に突き動かされたら、己の破滅だ。お前のような弱き者が通過儀礼を選択した瞬間、あっという間に滅ぼされるぞ!」
「いいじゃないか。このままで。今もこうして下らない戯言をネット上の日記で垂れ流せるんだ。それがお前の人生で関の山だったんだよ。これも幸せなカタチさ。」
本能の衝動は激しく急き立て、その一方で通過儀礼の恐怖に抗う己。
理性と本能の衝突が己を引き裂く!
ぐぎゃああーーー!
もはや父親になる権利も失いつつある惨めな己にも、その恐ろしい「本能の叫び」はずっと付いて回る。
そしてその衝動は、滅びと繁栄の分水嶺で木霊のように響き渡る。
「おまえはいったいナニモノだ?」
満員の中央線。その沿線に広がる膨大な人の営みの居。
これすべて「本能の叫び」が生んだ結果である。
「通過儀礼」を拒み、その「本能の叫び」を拒絶し続けた果てには孤独死しかない。
だがその「通過儀礼」を受け入れたところで数多の者は破れ、惨めに朽ち死んでいったのだ。
弱肉強食。
弱きものは淘汰され、この世から消え去る。
その「通過儀礼」のステージに引き出され、現実と闘争させられる恐怖と、このまま朽ち果てる無念さとどちらが勝るか?
闘争の末、僅かの望みを勝ち取るか、はたまた孤独死か?
はっきりせよ自分!
恐ろしい逡巡の日は続く。
人生とは何ぞや。