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早すぎる花吹雪に想ふ

日常
03 /30 2018
今年も染井吉野のシーズン。
例年のように新宿御苑でスケッチ。
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29日ですでに花吹雪とは早すぎる。心の準備が出来ぬままに桜シーズンが過ぎてしまう。
いつもなら風が吹くと寒い位なのにむしろ涼しさを感じる位の暑さ。
今年は異常。ずっと晴れて寒の戻りもない。
東京は25度を越え、夏日に。
生き急いでいるのごとく桜散るなり。
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桜といえば入学式、入社式のシーズン。
4月となるとまた東京に人が溢れ始める。
超少子高齢化、人口減少が著しいにも拘わらず、東京圏だけ人口が増える。
学校を卒業すると田舎から東京へ出るのが当たり前という「空気」が馴染めない。
元々東京生まれ、東京育ちだから、こういった通過儀礼ありきの世相が生理的に受け付けない。
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物心付いた頃からこの還暦近くに至ってまで、一度も「大人になりたい」と思ったことは無かった。
尾崎豊の楽曲に込められた脂臭い大人への憧れに、1ナノミリも共感できなかった。
ラジオからこの男の歌声が少しでも流れて来ると即座にスイッチを切っていた。
大人になることに何の魅力も感じず、もしかするとこの世に生まれてくることすらも面倒くさかったのかもしれない。
だから「大人」になるための通過儀礼は、自分にとって胡散臭い古い風習の強要に思えた。
入学、受験、卒業、入社、結婚、子育てというレールに乗っけられて、それしか選択肢がない世間に、自分の居場所などないと、子供時代から悟っていた。
だからそういったレールに適応した学友の「上から目線」態度が心底嫌だったのである。
それこそが創作意欲の原点だから、当時の経験より醸し出たルサンチマンがなくなったら創作者としてオワリなんだろうなあと。

かつては就職、結婚、出産、子育てという通過儀礼が当たり前でそれ以外の選択肢は「人非人」だった時代からすると、かなり変わっては来ている。
だが日本社会は未だに通過儀礼ありきだから「変わりたくない人間」にとっては尽く苦痛であることは、今も同じ。
通過儀礼毎に「好きなことを止めさせられる理不尽」には辟易するのだ。
もう、今の世の中、就職結婚出産子育てなど特権階級の嗜みに近い。「サザエさん」の世界は御伽噺となった。
にも拘らず、そういうシステムしかない悲劇。

この茫漠とした諦め感覚はこの二つの諺に尽きる。
「貧すれば鈍す」
「金持ち喧嘩せず」
かつて「経済大国」であった日本も今は昔。
身近な毎日の些細な事柄から政治、経済、外交まで「貧すれば鈍す」に尽きる。
ネットに溢れる不毛な対立軸も「瀕すれば鈍す」だ。
少なからず昭和時代はまだ「金持ち喧嘩せず」で済んだ。
心の「富」を失うと、人間どんどんダメになる。
人も減り、富も減り、知性も減る。
ただ「貧すれば鈍す」。

先日、SNSでこんな呟きを見た。
恋愛と蕎麦挽きを同列にまじめに語っているのだ。
友人から「あなた、美人なのに何で恋愛しないの?結婚早くしなよ」と言われたことに対し、「恋愛や結婚するしない」は「蕎麦挽きするしない」と同じで人の自由だと反論したとか。
これが本心で語られた呟きなのか、ネタや洒落の呟きだったのかは知らない。
仮に本心だったと仮定すれば、恋愛は哺乳類としての本能であって子孫を残すという有性生殖生物の根源的衝動と、「蕎麦挽き」という生存本能に直接関わらない行為と、何の疑いも無く同列に語る感覚には吃驚する。
本人は己が哺乳動物という「魂の器」に依存して存在していることに気が付いていないのだろう。
生物開闢以来、何十億年と積み重ねてきた生存競争の上に己が成り立っているという「現実」を無視しているのだ。
恋愛が出来なければ生物として欠陥品だということ。パートナーを見つけなければ己の遺伝子を生み、育てるのは困難だということ。
カルチャーセンターのカリキュラムのひとつでしか過ぎない「蕎麦挽き」の是非は生存競争には直接関係がない。いくらでも代替が利くからだ。
「恋愛、結婚が出来なくとも生きていける」のは事実だとしても、それが出来る人間と比べれば、生物として劣っているということは論を待たない。
だからそんなことをあまり自慢するのは褒められたことではない。
蕎麦挽きは出来なくても困らないが、恋愛が出来ないことが生物として致命的な欠陥であることに気が付かない鈍感さは驚異的だ。

やたら理想論を声高に叫ぶ人がいる。
倫理や平和や平等、戦争否定、自由博愛、権力腐敗糾弾云々。
でもそういう人たちほど「恋愛」と「蕎麦挽き」を同列にして語る呟きに近い思考回路の持ち主に思えるのだ。

人間は「崇高な聖者」ではない。類人猿の延長上に存在する体毛のない猿というだけ。
富の偏りも、忖度も所詮は「猿」が生きるための知恵で編み出したもの。
ビルゲイツに比べれば、現宰相の富など取るに足らない。
それに世襲が社会的地位を保てるのは、遙か中世から営々と続くシステム。それを踏襲しているだけのこと。
世の中の大半の「仕組み」は必要悪だ。
力ある者が忖度し、力ない者はそれに縋る。
そんなものが突然なくなる訳もない。
資本主義を否定したはずの中国共産党も汚職撲滅邁進など綺麗事を宣伝しているが、実態は凄惨極まる権力闘争で敵対勢力排除を偽装しているだけ。世襲権益と何ら変わらない。
こんな例、上げていったら切りがない。
首を挿げ替えたところで、似たような世襲が現れ、忖度を繰り返すだけ。

人はどんな偉そうなことを言ったとしても、所詮は「パンツをはいた猿」だ。
先日亡くなった物理学者のホーキング博士は「地球以外に知的生物はいますか?」との問いにこう答えたそうだ。

「地球にも知的生物はいませんよ」

もし、理想を実践したければ、己が依存する哺乳類という「魂の器」を完全に棄て、何億年にも渡る生物の本能と何万年にも渡る人間社会のルールをかなぐり捨てなければ成立しない。
新たな「魂の器」だ。
ところがそういう努力は一切しないのだな。
平和、博愛、平等、自由を謳う者程、むしろ己の「正義」に同調しない者に向かって狂犬のように吠え掛かって、闘争本能丸出しで攻撃してくる。
理性の欠片もないのだ。
所詮はやはり、野蛮な猿。
最後には本性を露呈してしまうのだ。

自分の依存する己の国の頭領を切り捨てれば「聖人君子」が降臨してくると信じて疑わないのなら、新たな依存対象たるその神様みたいな存在はどこにいるのだ?
あるいは今後は己が依存対象なしで生きられる程の「聖者」に成就出来ると信じているのなら、その根拠はどこにあるのか?
きっとそんな根拠はどこにもないだろう。
「神」もいなけりゃ「聖者」にもなれない。
「先」のことなど思考回路外。
「恋愛」を「蕎麦挽き」で語るような按配でね。

これもやはり「貧すれば鈍す」の賜物か。

異常な暖気で生き急ぐように散っていく染井吉野。
この国の行く末を案じ、早く消え失せたいのかもしれないな。
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あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/