余命僅かな蝉のごとき選挙戦と異国語の日本人

日常
06 /30 2016
6月も末、梅雨真っ盛りだ。
どこからか選挙カーの音がする。しかしかつて昭和時の選挙からすれば随分と静かだ。
なんだか余命僅かな蝉のようである。

五月雨的に読み続けている『夢声戦争日記』も1945年8月~9月に至った。
無条件降伏受け入れの日に、ラジオは「忠臣蔵」を流していたそうだ。
そのことに著者は、「武士道を謳ったところで、所詮近代兵器には勝てぬ」と自嘲気味に言い放つ。
当時の知識人はラジオのプロパガンダや戦況を信用せず、かなり客観的に現実を見据えていた。
原爆についても、そんな新型爆弾を独占している国に抗することは不可能と敗因が原爆であることを認める一方で、アメリカは自由の国だから、やがてギャング団の手に渡って 少数の集団が優に一国の政府に対抗出来るようになろうと予言する。
そして両方で核(著者は「ピカリ」と呼称していた)を使って両方なくなるという「大喜劇」が見れるかもしれないとも記す。
これもなかなか先見の明がある記述だ。
また、マッカーサーが来る日、東京はいたって平穏。上空に乱舞するB29を見上げて娘たちが敵愾心どころかウキウキと眺めている様を見て、彼女達はB29を透して戦勝国アメリカの男たちに憧れているのだと諭す。
そして、これが女性の持って生まれた生物本来の在り方で仕方なしと嘆く。
更に終戦直後、電車の中で見る日本人の情けない顔を「チンパンジー」「虫」「鯔」と形容し、どう見ても戦争に勝つ国の顔じゃないと自嘲気味に突き放す。
同じ人間でも戦争に勝つ負けるではこんなにも違うのかと。
戦争中、「神国日本」は優秀な民族で「鬼畜米英」などに敗れる筈がないと誇っていたのに、敗戦が決まると180度意識が変わる。
終戦の玉音放送に涙する一方で、最初から勝てそうもない戦争に引きずり込んだ当時の日本の指導者に対する不信感と軽蔑が「敗戦の傷心」よりも勝るというのは興味深い。
また、敗戦後、杉並区(夢声が住んでいた所)には重慶軍が進駐してくるという噂が流れると著者は、「日本とシナは兄弟と言われるが肉親に財産を横領されるぐらいなら、他人相手のほうがまだマシ」と近親憎悪を滾らせる。
一方、敗戦直前でも焼け残った都内の演芸場には若い男子(徴兵されない工場に動員されていた者)が溢れていたという。
こんな時でも皆娯楽を渇望していたのだ。
表面上、国民すべて「1億総玉砕」の覚悟はあったのかもしれぬが、一方で俗人として娯楽に餓えていたことも事実だ。
そしてそれは両方嘘ではない。
それが人間というものだ。
70余年前の敗戦直後の小市民が抱く意識など今の日本人は殆ど皆忘れている。
が、この日記を読むと様々な「当時の現実」が読み取れる。
来るべき戦争の後、もし日本が再び敗戦国になった場合、この状況が繰り返されるのだろうか。

最近、街を歩くと妙なことに気が付く。
普通に近所の住民と変わらぬ格好のランドセルを背負った小学生、買い物籠を下げた主婦、家族連れから中国語が漏れ聞こえるのだ。
これまで中国人といえば、コンビニ店員等の出稼ぎ労働者、そして最近は「爆買い」の観光客に限られていたが、最近は近所の庶民の中にも「日本人に同化」した中国系の人が急激に増えていることに気が付かされる。
いったいいつからこんな状況になっているのだろう?
急に中国人が大量移住して日本国籍を取得したとは思えない。
もしかすると従来から居た中国系の人が、これまで日本語で話していたのを止めて、一斉に母国語を使い始めたのかもしれない。
そんなことはありそうもないが、他に理由が見つからない。
なぜなら完全に日本文化に溶け込んでいるからだ。違和感がないのだ。『サザエさん』に普通に出てくるような人たち。
単に喋っている言語が中国語なだけ。
こんなことが一朝一夕に成せる訳がない。
実に奇妙だ。
このままいつしか日本語のほうが少数派になる予感さえする。この急激な変化はいったい何なのだろう?
ただ、それが怖いとか不快という訳ではない。
中国人街のような排他的なものとは違い、ごく普通の住宅地で実によく日本の風景に溶け込み、服装、身嗜みも日本人として何ら違和感がないのにも拘わらず、言葉だけが中国語ということにSFミステリー的不可思議を抱くのだ。
時空間の歪みに落ち込んで、中国語が標準の日本に墜ちてきた感じなのだ。
恐らく、この人たちは中国共産党が支配する中国人としての誇り、習慣、文化にこだわるより、より快適で豊かで自由で安全な場を求めていたのかもしれない。それが隣国日本だったのであり、日本文化に同化することでそれが達成されるのだ。
深い意味はない。
こちらのほうが「幸せ」だからだ。

街は国政選挙たけなわ。
久しく既成政党に何ら期待していないので、どの候補者もただの「政治屋」にしか見えず、彼らの既得権益獲得競争に関わりたいとも思わぬ。
だが、少しだけ気になる候補者はいる。
「表現の自由」を守ることを主に訴えて立候補している現議員の人。
漫画や同人誌に拘わる者なら支持して然るべき候補者といわれる。
だが、なかなか当選ラインは厳しいという。
議員本人の方に関してあまり詳細な知識がないので具体的なことはよく知らない。
選挙中でもあるので支持不支持を明確にするのも控える。
この議員に一票を投ずることに関してネット上には様々な意見が散見されるようだ。
妙なバイアスがかかった主張とかもある。「オタク」の起源にまで遡っての呟きも見受けられた。
あまり詳細に読み込んでいる訳ではないのだが大凡こういうことらしい。
「オタク」を代表とする同人誌文化なるものは元々学生運動やミニコミ誌などのリベラルな活動が源泉であって、本来「レフト」に位置する存在だったという。
それが1980年代、いわいる幼女連続誘拐殺人事件報道を発端としたマスコミ総掛かりの「オタクバッシング」によって一転する。
本来、自分達の味方であるはずのリベラル「マスコミ」が事もあろうに自分達を攻撃、弾圧したことによって「オタク」のマスコミに対する不信感と怨念が爆発。
以後、彼らはマスコミを「敵」とみなし、「レフト」から「ライト」へと一気に宗旨替えしたのだと。
それが、今日における「ネット右翼」や「レイシスト」に繋がっていると。
本来、表現の自由とは「レフト」の専売特許であるのに拘わらず、表現自由を標榜する「オタク」が「ライト」に与するのは矛盾すると。
だから「レフト」を敵対視する「オタク」は愚かしいと。
その流れの中で元来の「レフト」とは微妙に違う今回の「表現の自由を守る」公約をメインとして立候補した現議員に票を投じても無意味で表現の自由を求めるならば元祖「レフト」の候補者に入れなければ意味がないが、それを望まない「ライト」オタクは愚かだみたいな趣旨だったと思う。
マスコミのオタクバッシングによって「オタク」が「レフト」から「ライト」に宗旨替えした所までの洞察はかなり説得力があると思われる。
だがその先の「オタク」が「ネット右翼」で「レイシスト」に繋がっているという発想が何とも単純すぎる。

そもそも、「ネット右翼」も「レイシスト」も、そんなものがひとつのリアル社会における強固な組織だった存在と感じたことは一度もない。
これらはすべて午後の沼上に現れる蚊柱のようなもの。
実体などないのだ。
幻のようにネット上に現れては立ち消える蜃気楼のようなもの。
リアル社会でそれを実践しているのは取るに足らない僅かの人間だけ。
「ネット右翼」と称されるその99パーセントはリアル社会では「品行方正」な善良市民である。
そんな無思想、無宗教な人々がネットに向かい合った時だけ匿名で排他的な文言を吐くのである。
一貫した思想がある訳でもなく、普段は親切で善良な者が鬱積した不満をネットで匿名吐露するときだけ「排外」を叫ぶのだ。
それらはむしろ「オタク」とは程遠い「リア充」ほど著しい。
ネット上で芸能人に誹謗中傷の書き込みを繰り返す者を捕まえてみたら平凡な主婦だとか大学教授だったとか聞いたことがある。
要するにそういうことだ。
「ネット右翼」なるものは、都合のよい敵を作り出したい者の幻影に過ぎない。
もしかするとリアル社会では「レフト」活動に勤しんでいる者が、ネット上では匿名で真逆の「ライト」主張を展開しているかもしれない。
蚊柱は巨大だが掴もうとしても手元から逃げていく。
なぜならそんな強固な「柱」は存在しないからだ。それらは無数の微小で無害な「虫」でしかない。
英国のEU離脱国民投票も似たようなもので、離脱派がすべて「国粋主義者」とか「レイシスト」の訳がない。
善良な普通の人間が決めたことなのだ。

もはや、考え方の対立軸を「ライト」「レフト」で思考する事自体が滑稽に思える。
また「オタク」と「一般人」の線引きも意味を成さない。
先日、有名百貨店のお中元の広告に萌絵が使われているのを目撃した。
お中元といえば非常に守旧的な行事で「リア充」の最たる催し。
その宣伝に萌絵が採用されるに至っては、もはや「オタク」と「一般」の線引きは困難だ。
一般企業の広告で萌絵が使われる例は今や枚挙に暇がない。
にも拘らず、未だに物事を「レフト」と「ライト」、「オタク」と「一般」で区分けして語るのは時代錯誤というものだ。

今、「表現規制反対」を掲げる唯一の候補者を支持せよという流れは、このような古臭いステロタイプの思考から一線を画している。
つまり、同人誌を中心とした成人向けを含む表現活動がひとつの「業界団体」にまで成長し、その既得権を守るために国会議員が必要だということに尽きるのだろう。
要するに業界利益保護に影響力を持ったりする、いわいる「族議員」養成なのである。
そういう方向性が表現活動を生業とする者にとって正しいかどうかは知らないし、そのような「族議員」を当選させるだけの力と数が自分達にあるかどうかも判らない。
またこの議員が本当に自分達のために未来永劫、尽力してくれるかも保障できない。
議員にとっては「票」にならなければ意味がないのだからね。
だが生き残るための手法として「族議員」を後押しすることが誤っていると誰が決められようか?
法治国家である以上、すべては法律に支配される。そして国権の最高機関は国会である以上、己の権益を守ってくれる国会議員を送り出すしか手段はないだろう。
此処に至って旧態依然な思考回路で「ライト」「レフト」「オタク」を語っても無意味なだけだ。

すでに各世論調査では国政選挙の趨勢は決まっているようで、与党第一党とその連立党、そして野党の「レフト」最先鋒の党が躍進するとか。
いずれも半世紀以上前の価値観で構築された組織票による政党ばかり。
そんな二者択一で日本の将来を託せなんて、冗談にも程がある。
守旧既得権に固執するだけの世襲与党と古の思想信条で固まっているだけの党と、議席確保のために離合集散するだけで理念の欠片もないその他雑兵政党にこれからの茫漠たる未来を任せられるとはとても思えない。
与党は信用に足るに怪しくなったアメリカの安全保障政策に盲目的に乗っかるだけ。一方野党はそれを「戦争法」だとか「人殺し予算」とかで非難するだけ。
「両極端の馬鹿」しかいないのか?
与野党候補者すべて60年位前から思考停止した価値観で安全保障を論じるしか能がない愚者ばかり。これならまだ北朝鮮の瀬戸際外交のほうが賢いと思えるほど。
己の英知と戦力でこの風雲急を告げるアジアパワーバランスを乗り切ろうと訴える候補者はどこにもいない。
居たとしても泡沫候補だ。
もはや選挙制度自体が、半世紀以上前の価値観でしか当選出来ない仕掛けになっている訳で、救いもない。
やがて行き詰って、破れかぶれの「勝てない」戦争に走り、再び『徳川夢声戦争日記』に記されたような、醜い負け戦の惨めな日本人になってしまう可能性も高い。
いや、もう戦争はとっくの昔に始まっていて、すでに勝敗は決まっているのかも。

中国語を話しはじめた「日本人」の存在こそが、この国の未来を暗示しているのかもしれない。



あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/