『アナと雪の女王』を観る
映像鑑賞
先日、伊集院光がラジオで『アナと雪の女王』のレビューをトークしていて「主人公の肌のソバカスまで再現されている」と話していた。
ディズニー映画にさして造詣もなく、関心も低いのだが、何だかザワザワして思わず劇場に足を運ぶ。
何やらヒット中らしく平日も混みあっていた。
映像云々はもう「これでもか」というCGで敢えて語る必要もなし。
しかし、ストーリーやキャラクター設定に妙に引っかかるものがあってこれまたザワザワした。
以下ネタバレありなので注意。
まず、ヒロインのキャラクターが従来のディズニー風ではなくて何処となく日本の萌えアニメキャラの影響を受けているような印象。ただ3Dアニメがリアル過ぎて逆に不自然さが漂うのだが、しかしこのクールジャパンに変に媚シフトしたキャラクターデザインがジブリファンのココロを擽る戦略が見え隠れするのだ。
真珠湾攻撃で真価を発揮した日本空母機動部隊のシステムをアメリカが巧みに取り入れて戦争に勝ったように。
そしてストーリー。
ディズニー映画の真骨頂はお約束のハッピーエンド。
ヒロインは「白馬の王子様」にお姫様抱っこされてお嫁さんになるのが定番だったはず。
王子のキスで呪縛が解かれ「大団円」に至るのだ。
ところがこの映画では「白馬の王子様」なるものは存在しない。
ヒロインは誰も「白馬の王子」に依存するカタチでの幸福を追求しないのだ。
この映画で描かれる「男たち」は、主人公たるヒロインを補佐するか、最後に叩かれる悪役に過ぎない。
姉には男の影すらない。
姉妹そろって自尊自立しているのだ。
これはいったい如何なる事なのだろう?
もしかしてこれは「女子会」プロパガンダ映画なのか?
『アナと雪の女王』の原案はアンデルセン童話の『雪の女王』だそうだ。
小さい頃、ロシアのアニメで観た事がある。
そしてそれに影響された宮崎駿や高畑勲が『太陽の王子ホルスの大冒険』を作った。
その流れを考えると『アナと雪の女王』も『ホルス』と源流は同じなのだ。
だから氷の化け物マシュマロウは岩男モーグとグルンワルドの手下である氷のマンモスの融合体であるし、氷売りのクリストフはホルスを彷彿とさせる。あの小さい岩の妖精たちはまさしく岩男のミニチュア版だ。
ディズニーのスタッフが『太陽の王子ホルスの大冒険』を意識して、この作品を作っていたかは知らない。
ただアナがクリストフを助けるシーンで縄付きの斧を投げるシーンは『ホルス』でもお馴染み。
そしてアナは姉から「呪い」を掛けられる様はまさしくグルンワルドに掛けられた「悪魔の妹」、つまりヒルダでもあるのだ。
しかし、アナにかけられた悪魔の呪いはヒーローのキスで解かれるのではない。
呪いを掛けた姉自身が自らの愛によって妹アナを救うのだ。
『太陽の王子ホルスの大冒険』でヒルダに呪いを掛けた悪魔グルンワルドはホルスが先導した村人によって滅ぼされるが『アナと雪の女王』では呪いを掛けた張本人が呪縛を解放するのである。
まさに女は天使と悪魔どちらにも成れると言いたげに。
結婚が女の幸せだった時代には間違いなく「白馬の王子様」がヒロインを迎えに来なければハッピーエンドは成立しない。
だが、この映画にはそんな「男」は遣って来ないのだ。
逆にアナは自腹をはたいて自分を助けたクリストフへ新品の橇を与える。
これではクリストフはヒーローどころか情けない「ヒモ」ではないか?
そして「悪党」たるハンス王子も「頼りがいのある殿方」にやっつけて貰うのではなく、自らの鉄拳で海に突き落としてしまった。
一方、姉も万能さを発揮し、決して自己犠牲すら許さない。
本来なら「春」を取り戻した時点で雪だるまのオラフは溶けて消えてなくなる運命だが、姉はその「悲劇」すら避ける力を見せ付ける(この辺りのシーンは『ハウルの動く城』で火の神様カルシファーが危うく消されそうになるエピソードのオマージュっぽい)。
もはやそこに依存対象の「男」は必要ないのである。
お嫁に行く必要もない。全ては自らの力で幸せを獲得出来るのだ。
これこそがディズニーの戦略であって、「女子会」全盛たる日本女性の自尊心を擽る巧みなストーリー構成なのだろう。
宮崎駿が『風立ちぬ』でゼロ戦という「男のロマン」とナショナリズムの具現物を描いて欧米の各賞から総スカンを食らったのとは対照的だ。
『千と千尋の神隠し』が真珠湾であれば『アナと雪の女王』まさにミッドウェー海戦。
今後、日本アニメはディズニーに食い潰され、更にジリ貧になっていくかも知れぬ。
そんなことを思いつつ、アナがヒルダのコスプレしている妄想画を描いてみた。
しかしディズニーキャラは描いてもまったく様にならない。象形文字文化の日本とは発想が根本から違うのだろう。
ソバカスは無理だった。

ディズニー映画にさして造詣もなく、関心も低いのだが、何だかザワザワして思わず劇場に足を運ぶ。
何やらヒット中らしく平日も混みあっていた。
映像云々はもう「これでもか」というCGで敢えて語る必要もなし。
しかし、ストーリーやキャラクター設定に妙に引っかかるものがあってこれまたザワザワした。
以下ネタバレありなので注意。
まず、ヒロインのキャラクターが従来のディズニー風ではなくて何処となく日本の萌えアニメキャラの影響を受けているような印象。ただ3Dアニメがリアル過ぎて逆に不自然さが漂うのだが、しかしこのクールジャパンに変に媚シフトしたキャラクターデザインがジブリファンのココロを擽る戦略が見え隠れするのだ。
真珠湾攻撃で真価を発揮した日本空母機動部隊のシステムをアメリカが巧みに取り入れて戦争に勝ったように。
そしてストーリー。
ディズニー映画の真骨頂はお約束のハッピーエンド。
ヒロインは「白馬の王子様」にお姫様抱っこされてお嫁さんになるのが定番だったはず。
王子のキスで呪縛が解かれ「大団円」に至るのだ。
ところがこの映画では「白馬の王子様」なるものは存在しない。
ヒロインは誰も「白馬の王子」に依存するカタチでの幸福を追求しないのだ。
この映画で描かれる「男たち」は、主人公たるヒロインを補佐するか、最後に叩かれる悪役に過ぎない。
姉には男の影すらない。
姉妹そろって自尊自立しているのだ。
これはいったい如何なる事なのだろう?
もしかしてこれは「女子会」プロパガンダ映画なのか?
『アナと雪の女王』の原案はアンデルセン童話の『雪の女王』だそうだ。
小さい頃、ロシアのアニメで観た事がある。
そしてそれに影響された宮崎駿や高畑勲が『太陽の王子ホルスの大冒険』を作った。
その流れを考えると『アナと雪の女王』も『ホルス』と源流は同じなのだ。
だから氷の化け物マシュマロウは岩男モーグとグルンワルドの手下である氷のマンモスの融合体であるし、氷売りのクリストフはホルスを彷彿とさせる。あの小さい岩の妖精たちはまさしく岩男のミニチュア版だ。
ディズニーのスタッフが『太陽の王子ホルスの大冒険』を意識して、この作品を作っていたかは知らない。
ただアナがクリストフを助けるシーンで縄付きの斧を投げるシーンは『ホルス』でもお馴染み。
そしてアナは姉から「呪い」を掛けられる様はまさしくグルンワルドに掛けられた「悪魔の妹」、つまりヒルダでもあるのだ。
しかし、アナにかけられた悪魔の呪いはヒーローのキスで解かれるのではない。
呪いを掛けた姉自身が自らの愛によって妹アナを救うのだ。
『太陽の王子ホルスの大冒険』でヒルダに呪いを掛けた悪魔グルンワルドはホルスが先導した村人によって滅ぼされるが『アナと雪の女王』では呪いを掛けた張本人が呪縛を解放するのである。
まさに女は天使と悪魔どちらにも成れると言いたげに。
結婚が女の幸せだった時代には間違いなく「白馬の王子様」がヒロインを迎えに来なければハッピーエンドは成立しない。
だが、この映画にはそんな「男」は遣って来ないのだ。
逆にアナは自腹をはたいて自分を助けたクリストフへ新品の橇を与える。
これではクリストフはヒーローどころか情けない「ヒモ」ではないか?
そして「悪党」たるハンス王子も「頼りがいのある殿方」にやっつけて貰うのではなく、自らの鉄拳で海に突き落としてしまった。
一方、姉も万能さを発揮し、決して自己犠牲すら許さない。
本来なら「春」を取り戻した時点で雪だるまのオラフは溶けて消えてなくなる運命だが、姉はその「悲劇」すら避ける力を見せ付ける(この辺りのシーンは『ハウルの動く城』で火の神様カルシファーが危うく消されそうになるエピソードのオマージュっぽい)。
もはやそこに依存対象の「男」は必要ないのである。
お嫁に行く必要もない。全ては自らの力で幸せを獲得出来るのだ。
これこそがディズニーの戦略であって、「女子会」全盛たる日本女性の自尊心を擽る巧みなストーリー構成なのだろう。
宮崎駿が『風立ちぬ』でゼロ戦という「男のロマン」とナショナリズムの具現物を描いて欧米の各賞から総スカンを食らったのとは対照的だ。
『千と千尋の神隠し』が真珠湾であれば『アナと雪の女王』まさにミッドウェー海戦。
今後、日本アニメはディズニーに食い潰され、更にジリ貧になっていくかも知れぬ。
そんなことを思いつつ、アナがヒルダのコスプレしている妄想画を描いてみた。
しかしディズニーキャラは描いてもまったく様にならない。象形文字文化の日本とは発想が根本から違うのだろう。
ソバカスは無理だった。
