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『風立ちぬ』を観る

映像鑑賞
08 /15 2013
先日、宮崎駿監督のジブリ最新作『風立ちぬ』を観た。
夏休みとあって劇場は混み合っている。普通のカップルも多く、もうジブリ映画は普遍的ブランド作品として定着してしまったようだ。
驚いたのは、新海誠の新作も同様に一部のマニア層だけでなく幅広い客層になっていたこと。
作風もファンタジーではなく、ATG映画のような「リア充」体育系を描いており、その変貌に吃驚した。

それはさておき、『風立ちぬ』だ。
一部ネタばれも含まれるので、まだ未観賞であれば読むのは要注意。
総じて1960年代的漫画映画を継承しており、動画としての戦闘機やメカニックのディティールは極力デフォルメされている。
昨今のCGを駆使したリアリティーある描写は一切ない。「ラピュタ」のような飛行アクションを期待するとがっかりする。
敢えてそのような表現は排していたのだろう。
だから飛行シーンなんて紙芝居並みだ。
エンジンの効果音も実機の音ではなく、足立智美ロイヤル合唱団のような人の声で表現し、極力「抽象化」を図っていた。
宮崎駿氏の作品は『ポニョ』から抽象的な表現が目立ってきた。
老害、老癖の類なのか、本人だけにしか解らない手法に流れてきて、どちらかというと活劇アニメというよりアングラ劇を観賞している感覚だ。
でも「大家」となった宮崎駿が「こう作るのだ!」と言えば、誰も逆らえまい。
ジブリはもう、宮崎駿氏のイエスマンしか居ないから逝くところまで逝ってしまうのだろう。
主人公の声担当も然り。
『新世紀エヴァンゲリオン』監督の庵野秀明氏が抜擢されているが、これも宮崎駿氏の鶴の一声だと思われる。
アニメ声優を排して、一般の俳優を起用する事は別段不自然な事とは思わぬが、この庵野氏起用は何だか異様だ。
人によっては朴訥な技術者のしゃべり方としていいのでは?という声も聞くが、自分は耐えられなかった。
庵野氏は自分と同世代。実際会って僅かながらもお話したこともある。
だからこそなのだろう。
やはり、これは違うと思うのだ。
「素人っぽいしゃべり方」というのは、プロが敢えてそのような演出をするのであって、本物の素人には無理なのだ。
『パトレイバー2』の声演出はプロが敢えて一般人のしゃべり方を「演じて」いたから独特の雰囲気が醸し出されていた。
しかし、『風立ちぬ』の庵野氏の声はそうではない。
声の素人が素人のままに喋っているだけで聞くに堪えないのだ。
特に、ヒロインとの絡みのシーンで感情を顕わにする場面などは恐ろしいほど耐えられない。
例えれば己が自慰の時にオナペットに向かって喋りかけているのごとき醜態を思い起こさせる。
キスシーンなど「平凡パンチ」の巻頭ヌードグラビアで射精する直前に、そのグラビアモデルに「愛してるうー」と叫んだところを盗み録りされて、その声をそのままアフレコに使われた感覚。
演技以前の問題。
己の恥部を曝け出しているだけにしか聞こえないのだ。
なぜ、そう感じるかは自分が庵野氏と同世代であり、生きているスタンスが似通っているからなのだろう。

どうして、庵野氏が宮崎氏の依頼に応じたかは知らない。
なぜに庵野氏はアニメ監督という本業に専念せず、CMとか声優もどきに手を出すのか?
少なくとも庵野氏が皇太子世代のサブカルトップクリエーターであることに疑いはない。誰もが認めるところ。
ならば、『エヴァ』以降も2年に一本くらいのペースで完全新作劇場版を作り、世界を啓蒙し続けるべき立場にあるべきだ。
にも拘らず、『エヴァ』に固執し、そのリニューアルだけで満足する姿勢が理解できない。
無論、本人が満足しているのかは知らない。
しかし、宮崎駿氏が『カリオストロの城』を延々とリニューアルし続けていたら、おそらく今の偉業はなかろう。
でも庵野氏は貴重な人生を『エヴァ』を反芻することだけに費やしている。
なぜなのだ?

もしかすると、皇太子世代そのものが不幸な世代なのかもしれない。
人口比も少なく、団塊と団塊ジュニア世代に挟まれて存在感が薄い。だから今ひとつ大きな事業を成し得ないのではないか。
皇太子たる浩宮自身もぱっとしない。
世継ぎを設けられず、不遜の妻に振り回され、天皇や弟から疎まれ、孤立を深めている。
その状況と、「風立ちぬ」での庵野氏の立場は似通ったものがある。
もしかして宮崎駿氏は庵野氏に仕事をさせないために声優という無茶な役を押し付けてきたのではないか?
団塊の世代の権益を守るためには、皇太子世代の旗手である庵野氏を潰しておかねばという謀事のための起用だったのではないか。
庵野氏がもっと気骨であれば、宮崎駿氏からの声優依頼を一蹴し、こう言い放つべきだったのだ。
「我が世代の啓蒙のため、私は『エヴァ』を上回る壮絶なアニメ作品を世に送り込まねばならぬのだ!老醜を晒し始めた師匠宮崎駿の時代は終わった!私が宮崎アニメの軍門に下る屈辱は受けぬ!声の出演などお断りだ!団塊の世代よ!去れ!」
啓蒙クリエーターであれば、このような断固たる姿勢が必須であろうに。
なぜ宮崎アニメの声優などでお茶を濁しているのだろう。
残念でならない。

夢の中でカプローニは主人公たる日本の少年に語りかける。
「創造的人生の持ち時間は10年」と。
技術者も芸術家も輝かしい才能を発揮できる期間は短い。
この10年で何を成せるかで人生は決まってしまう。

そしてラストでカプローニは再び主人公に尋ねる。
「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」
主人公は呟く。
「ハイ。終わりはズタズタでした」

これは恰も宮崎駿と庵野秀明との会話であろう。
団塊の世代たる宮崎氏は夢を叶えた。しかし皇太子世代の旗手たる庵野氏はズタズタで終わってしまうのだ。
「生きねば」というスローガンは団塊の世代にだけ許された「希望」だ。
皇太子世代には「絶望」しかない。


結局、『風立ちぬ』は淡々と流れる作品であった。
血沸き肉踊るシーンもない。
1950年代の日本映画のごとく、儚いヒロインの健気さを絡めて昔のサナトリウムを扱った悲劇的少女漫画のようでもあった。

唯一、ラストシーンにだけかつての宮崎アニメの真骨頂が残されていたように思う。
B29によって焼かれる帝都。
追いすがる日本迎撃機も撃墜されてしまう。
それがすべての限界だった。
主人公が設計したゼロ戦も、結局誰一人戻ってこなかった。
彼の周りには死屍累々の残骸があるのみ。

己にとって『風立ちぬ』はこの滅びの美学のラストシーンがすべてであった。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/