『吾妻ひでお』展、『岡本太郎』展とかいろいろ
映像鑑賞
好天に恵まれた先日の日曜日。
明治大学のミュージアムで開かれていた『吾妻ひでお』展を鑑賞。
以前見た『あすなひろし』展の原画と同様に高度成長期の週刊漫画誌で鍛えられたスタンダードな量産プロ画力に圧倒される。
場数を踏まねば獲得できない「力強さ」が原稿に漲っている。
この確固たる土壌に敷かれた萌画の盤石さは偉大だ。
メジャー商業誌から同人誌まで幅広い活動範囲は他に類を見ない。つくづく凄い人だと思う。
展示の仕方も透明なアクリルボックスに原画と参照用の本やフィギュアが収納されてなかなか趣がある。
それにしても、最近の大学は綺麗で立派になったものだ。
この大学も20年位前は、左翼系の立て看板が至るところにあって、前を通るのも恐ろしかった。
いまはそんな面影もなく、都心の一等地に聳えるオフィスビルと何ら変わらない。
ついでに米沢嘉博記念図書館にも寄って、同じく原画を拝見する。
なんだかご本人も居たような気もしたが・・。
さて、御茶ノ水まで来たのだからと竹橋まで足を伸ばし、東京国立近代美術館で開催されている『岡本太郎』展も見る。
15時前に到着したが、列が伸びて入場30分待ち。
比較的若い客が多い。以前、同じ所でやっていた藤田 嗣治展の時は高齢者が殆どだったから対照的。
抽象画はあまり馴染みがないのだが、岡本太郎はあまりにも有名なのでその知名度故に勝手に納得してしまう。
絵の解説は殆ど読まない。何だか後付けの解釈ばかりのようであまり意味がない。特に抽象画はどうとでも取れてしまうのだから、見た本人がそれぞれ判断すればよい事。
赤や黄色のギトギトした「情熱」は、そのまま1960~70年代を直接キャンパスに塗りこめているようだ。
当時は物体をデフォルメ、簡略化させて精神面を突出させるのが流行だった気がする。
先日、NHKで放映された「みんなのうた」セレクションでも、1960年代のアニメは絵が簡略化される一方でやたら心に重く圧し掛かる作品が多い。
細かなディティールはどうでもいいのである。
モノそのものより、そこに内在する「世界」を表現していたのだ。
それだけ異様に前向きな時代だったのだろう。
ミュージアムショップでは、岡本太郎作品関連のグッズがたくさん並んでいた。
グッズ化されてもまったく不自然ではない所が如何にも岡本太郎的。
そもそも岡本太郎の作品は最初から大量生産、大量消費に適した「芸術」だったのかもしれない。
お茶碗が気になったが、結局買わずじまい。湯飲みがあったら考えたが。
「湯飲みの底に顔があってもいいじゃないか」のコンセプトでグッズを作ればよかったのに、何故か無かった。
太陽の塔の抱き枕もなかったな。これを抱いて寝れば「1970年のコンニチワ」に還れるのに残念。
海洋堂のカプセルトイは品切れだった。
結局、ピンズを一つ買っただけ。
美術館を出た後、地下鉄の竹橋駅へ。この辺りは土日に限っては飲食店まったくなし。案外不便だ。
地下鉄で新橋に出て、知り合いのアニメーターさんも参加しているデモストレーションに合流。
好天の下、屋外活動は健康的である。
20時に帰宅。
盛りだくさんのホリデーであった。
明治大学のミュージアムで開かれていた『吾妻ひでお』展を鑑賞。
以前見た『あすなひろし』展の原画と同様に高度成長期の週刊漫画誌で鍛えられたスタンダードな量産プロ画力に圧倒される。
場数を踏まねば獲得できない「力強さ」が原稿に漲っている。
この確固たる土壌に敷かれた萌画の盤石さは偉大だ。
メジャー商業誌から同人誌まで幅広い活動範囲は他に類を見ない。つくづく凄い人だと思う。
展示の仕方も透明なアクリルボックスに原画と参照用の本やフィギュアが収納されてなかなか趣がある。
それにしても、最近の大学は綺麗で立派になったものだ。
この大学も20年位前は、左翼系の立て看板が至るところにあって、前を通るのも恐ろしかった。
いまはそんな面影もなく、都心の一等地に聳えるオフィスビルと何ら変わらない。
ついでに米沢嘉博記念図書館にも寄って、同じく原画を拝見する。
なんだかご本人も居たような気もしたが・・。
さて、御茶ノ水まで来たのだからと竹橋まで足を伸ばし、東京国立近代美術館で開催されている『岡本太郎』展も見る。
15時前に到着したが、列が伸びて入場30分待ち。
比較的若い客が多い。以前、同じ所でやっていた藤田 嗣治展の時は高齢者が殆どだったから対照的。
抽象画はあまり馴染みがないのだが、岡本太郎はあまりにも有名なのでその知名度故に勝手に納得してしまう。
絵の解説は殆ど読まない。何だか後付けの解釈ばかりのようであまり意味がない。特に抽象画はどうとでも取れてしまうのだから、見た本人がそれぞれ判断すればよい事。
赤や黄色のギトギトした「情熱」は、そのまま1960~70年代を直接キャンパスに塗りこめているようだ。
当時は物体をデフォルメ、簡略化させて精神面を突出させるのが流行だった気がする。
先日、NHKで放映された「みんなのうた」セレクションでも、1960年代のアニメは絵が簡略化される一方でやたら心に重く圧し掛かる作品が多い。
細かなディティールはどうでもいいのである。
モノそのものより、そこに内在する「世界」を表現していたのだ。
それだけ異様に前向きな時代だったのだろう。
ミュージアムショップでは、岡本太郎作品関連のグッズがたくさん並んでいた。
グッズ化されてもまったく不自然ではない所が如何にも岡本太郎的。
そもそも岡本太郎の作品は最初から大量生産、大量消費に適した「芸術」だったのかもしれない。
お茶碗が気になったが、結局買わずじまい。湯飲みがあったら考えたが。
「湯飲みの底に顔があってもいいじゃないか」のコンセプトでグッズを作ればよかったのに、何故か無かった。
太陽の塔の抱き枕もなかったな。これを抱いて寝れば「1970年のコンニチワ」に還れるのに残念。
海洋堂のカプセルトイは品切れだった。
結局、ピンズを一つ買っただけ。
美術館を出た後、地下鉄の竹橋駅へ。この辺りは土日に限っては飲食店まったくなし。案外不便だ。
地下鉄で新橋に出て、知り合いのアニメーターさんも参加しているデモストレーションに合流。
好天の下、屋外活動は健康的である。
20時に帰宅。
盛りだくさんのホリデーであった。