1月も虚無的に終わっていく
日常
宰相の鳩何とかが国会の演説でガンジーよろしく無抵抗主義でみんな死のうとか何とかいったらしい。
いや「いのち」なんとかか?どこかの芸人さんが身体で漢字の「命」を描いていたが、あれを国会でやったのかな?
どっちにしろインチキくさい宗教家の寝言みたいなもので国を導こうというのだから傑作である。
世迷言で国が治められるのなら、東京拘置所にいる麻原何某の方がよっぽど「頼もしい」。
トヨタの車がアメリカとかヨーロッパでリコールの嵐とか報じられているが、あれは多分、南極海で日本の捕鯨船が反捕鯨団体の船を衝突させて沈めたことに対する報復ではあるまいか?
世界には「白豪主義」がまだ支配的で、野蛮な「イエローモンキージャップ」をやっつける機会をアングロサクソンは虎視眈々と狙っている。
それに乗じて中国だって日本潰しの千載一遇のチャンスと喜んでいるだろう。
世界はこういった弱肉強食の「喰うか喰われるか」の闘争の場であるにも拘らず、先の偽政者宰相の「寝言」は冗談にもなるまい。
無論、白人と中華帝国の奴隷に成り下がって「みんな一緒に死のう」という宣言なのならば、それはそれで大したものだ。1億総出家して一切の欲を絶って侵略者に身を任せよというのなら、そうしろ。
さっさと「1億総出家法案」でも提出して、日本の全資産を太平洋にでも捨てて来い。
その覚悟があるのなら大したものだがな。
相変わらずツイッター何某は、誰もが無条件に賛同して参加しているようだが、未だに有効利用が出来ない。
フォローが増えるたびにいろんな人の書き込みが短時間に積み重なっていく。
これが三桁になってすべてチェックしていたら1日24時間あっても足りない。
にも拘らず、人は何故このシステムが「便利」と思うのか?
なんとなく、例えとして居酒屋での雑談と同じような気がしてきた。
その雑談の中から取捨選択していろいろと情報交換するのに似ているようだ。
これは自分にとって一番苦手な作業である。
居酒屋での飲み会などに行っても、あんまり人の話が楽しいと思ったり、有益だと思ったことがない。
自分の関心事とシンクロする話題など稀有だ。だから大抵は黙り込んで反射的に頷く位なもの。
2時間の宴で一言も喋らなかった事も珍しくなく、その場に居るのか居ないのか解らないほど「存在感」がない。
ツイッターも似たようなもので、ざっくばらんな人の話を聞くことに何の意味があるのか皆目解らない。
だから、ツイッターとか喜んでやる人は、居酒屋なんかでも饒舌なんだろうなあと思う。
どうして、ああいった多人数の場で率先して話題が尽きないのか不思議に思う。
隣の人が鬼だったらどうするのだ?
そういう恐れはないのだろうか?自分の話が他人にとっても面白く興味深いとなぜ自信を持って喋れるのだろう。
そして何故、他人の会話が面白いと感じるのだろう。
自分は無理だと思う。
自分の話すことは恐ろしく偏狭なのでこの場で話題を振ったところで引かれるのは目に見えている。だから黙っている。
実際「なぜ君は自殺しないんだ?」と隣の人に振ったら困った顔をされたので黙っていたほうがよかったのだ。
一方、他の人の話題は殆どが興味のないことばかり。
稀に関心事だったとしても、大抵は別の参加者のほうがそれに関する情報量や知識が豊富だから自分が喋る必要性はない。喋っても恥をかくのがオチ。コミュニケーション能力マイナス400パーセントだから会話のキャッチボールなどもってのほか。一言二言呟いて終わり。それも独り言の類だ。
結果、自分は黙り込んでテーブルの残飯をジーと眺めているだけとなる。
結局、ツイッターも同じなのだ。
たくさんの流れ行く書き込みをただ虚無感で眺めているだけが自分にとってのツイッター。
時々、ボソッと呟くも、
「あれ、あなたなんか言った?」
で終わってしまうのがオチ。あるいは、突如奇抜な事をのたまって場を白けさすのが関の山。
宴の場ではよくやったものである。
ツイッターもなんだか「村社会」と同じで仲間に合わせないと村八分されそうで恐ろしい。
だから止めるに止められない。
気が付くと1月も終わる。
日々「死刑囚」の感覚が沁み込み、恐ろしい。
空を見上げると、火星が赤々と輝いている。2年2ヵ月毎に接近する第四惑星火星。
火星にはフォボスとダイモスという衛星が回っている。その意味は「恐怖」と「不安」だ。
己の人生は常にその二つが取り巻いて離れない。
いや「いのち」なんとかか?どこかの芸人さんが身体で漢字の「命」を描いていたが、あれを国会でやったのかな?
どっちにしろインチキくさい宗教家の寝言みたいなもので国を導こうというのだから傑作である。
世迷言で国が治められるのなら、東京拘置所にいる麻原何某の方がよっぽど「頼もしい」。
トヨタの車がアメリカとかヨーロッパでリコールの嵐とか報じられているが、あれは多分、南極海で日本の捕鯨船が反捕鯨団体の船を衝突させて沈めたことに対する報復ではあるまいか?
世界には「白豪主義」がまだ支配的で、野蛮な「イエローモンキージャップ」をやっつける機会をアングロサクソンは虎視眈々と狙っている。
それに乗じて中国だって日本潰しの千載一遇のチャンスと喜んでいるだろう。
世界はこういった弱肉強食の「喰うか喰われるか」の闘争の場であるにも拘らず、先の偽政者宰相の「寝言」は冗談にもなるまい。
無論、白人と中華帝国の奴隷に成り下がって「みんな一緒に死のう」という宣言なのならば、それはそれで大したものだ。1億総出家して一切の欲を絶って侵略者に身を任せよというのなら、そうしろ。
さっさと「1億総出家法案」でも提出して、日本の全資産を太平洋にでも捨てて来い。
その覚悟があるのなら大したものだがな。
相変わらずツイッター何某は、誰もが無条件に賛同して参加しているようだが、未だに有効利用が出来ない。
フォローが増えるたびにいろんな人の書き込みが短時間に積み重なっていく。
これが三桁になってすべてチェックしていたら1日24時間あっても足りない。
にも拘らず、人は何故このシステムが「便利」と思うのか?
なんとなく、例えとして居酒屋での雑談と同じような気がしてきた。
その雑談の中から取捨選択していろいろと情報交換するのに似ているようだ。
これは自分にとって一番苦手な作業である。
居酒屋での飲み会などに行っても、あんまり人の話が楽しいと思ったり、有益だと思ったことがない。
自分の関心事とシンクロする話題など稀有だ。だから大抵は黙り込んで反射的に頷く位なもの。
2時間の宴で一言も喋らなかった事も珍しくなく、その場に居るのか居ないのか解らないほど「存在感」がない。
ツイッターも似たようなもので、ざっくばらんな人の話を聞くことに何の意味があるのか皆目解らない。
だから、ツイッターとか喜んでやる人は、居酒屋なんかでも饒舌なんだろうなあと思う。
どうして、ああいった多人数の場で率先して話題が尽きないのか不思議に思う。
隣の人が鬼だったらどうするのだ?
そういう恐れはないのだろうか?自分の話が他人にとっても面白く興味深いとなぜ自信を持って喋れるのだろう。
そして何故、他人の会話が面白いと感じるのだろう。
自分は無理だと思う。
自分の話すことは恐ろしく偏狭なのでこの場で話題を振ったところで引かれるのは目に見えている。だから黙っている。
実際「なぜ君は自殺しないんだ?」と隣の人に振ったら困った顔をされたので黙っていたほうがよかったのだ。
一方、他の人の話題は殆どが興味のないことばかり。
稀に関心事だったとしても、大抵は別の参加者のほうがそれに関する情報量や知識が豊富だから自分が喋る必要性はない。喋っても恥をかくのがオチ。コミュニケーション能力マイナス400パーセントだから会話のキャッチボールなどもってのほか。一言二言呟いて終わり。それも独り言の類だ。
結果、自分は黙り込んでテーブルの残飯をジーと眺めているだけとなる。
結局、ツイッターも同じなのだ。
たくさんの流れ行く書き込みをただ虚無感で眺めているだけが自分にとってのツイッター。
時々、ボソッと呟くも、
「あれ、あなたなんか言った?」
で終わってしまうのがオチ。あるいは、突如奇抜な事をのたまって場を白けさすのが関の山。
宴の場ではよくやったものである。
ツイッターもなんだか「村社会」と同じで仲間に合わせないと村八分されそうで恐ろしい。
だから止めるに止められない。
気が付くと1月も終わる。
日々「死刑囚」の感覚が沁み込み、恐ろしい。
空を見上げると、火星が赤々と輝いている。2年2ヵ月毎に接近する第四惑星火星。
火星にはフォボスとダイモスという衛星が回っている。その意味は「恐怖」と「不安」だ。
己の人生は常にその二つが取り巻いて離れない。