「僕の小規模な生活」というマンガ
読書
先日「僕の小規模な生活」というマンガを少しだけ読んだ。
この作者さんとは10年ほど前、兎菊書房という小さい出版社の打ち上げで少しだけ話したことがある。「これからメジャーに成るにはどうしたらよいか」みたいな話だ。
作者さんは持ち込みのノウハウとか、自費出版の仕方とかをいろいろ尋ねてきた。
それに対して「取り合えず出版社を片っ端から持ち込みしたら?」とか「自分の人生掛かってるんだから編集者には自分の作品をそのまま載せろといってみるのもよい」とか返したような。その頃、永嶋慎二氏と接点があったのでその受け売りみたいなことを取り合えず伝えた事を憶えている。
彼がそれをまじめに聞いていたかは知らない。
おそらく向こうは当時のことなどとっくに忘れていると思うが。
あれから10年。
その人が何やら今モーニングあたりで連載しているとか。
それが「僕の小規模な生活」らしい。
この作品を読むと昔同じような経験をした事が甦ってきて妙に鬱々としてくる。
編集者とのやり取りがリアルだ。
「打ち合わせのための打ち合わせ」、「言っている事がくるくる変わる」、「何が正しいのかわからない」、「意思疎通が不透明」等など思い出しただけでもうんざりすることばかり。
この伝統はずっと変わっていないというかこれがメジャー誌の新人作家に対するルーティンなのかもしれないが、これで作家生命を潰される人もいた訳で、もうなんだか思い出したくもないものが下水道から逆流してくる思い。
もっとも、これは漫画家として成功するか否かの通過儀礼であって、これで潰される位ならプロ失格ということだろう。
この作者さんは難航しながらも取り合えず成功しているようで結構なことだ。
もし失敗していればこんな経験描けないし、描く気も起きないだろう。
だからこの作品は「小規模な生活」というよりは「徐々に成功しつつある俺の人生」と改題したほうがよいのではなかろうか?
もとより、この作品でも描かれているように「いい女」を嫁に迎え独占出来る地位にあること自体、すでに男として「成功」している訳だからこれ以上何を望むと言うのか?
伊集院光もそうだがキャラクターとして「ダメ人間」を標榜してはいるが、彼もアイドルを妻に娶っている訳で基本「ダメ人間」どころか「人生の勝利者」なのである。
だからそんな「人生の勝利者」が自分の「小規模な生活(失敗)」を語ったところで洒落にしかならない。
それを「商売のネタ」に出来る地位にあることが、もはや「失敗者」ではないことを証明している。
酒井法子の旦那然りね。
勿論、娶った「いい女」が未来永劫側にいる保証はないし、一人では生きていけない脆弱さはあるものの、大半の絶望独身男性は一瞬たりとも「いい女」と時を過ごすことが出来ない訳で、それはもう「小規模な失敗」どころか「最初から最後まで全部ダメ」という救いがない人生なのだ。
自分の人生を洒落にする余裕すらないのだ。
だからこの「小規模な生活」を読むと羨ましくてしょうがない。
なんだか最近は、自分とこの世界との境界線が妙に曖昧になってきて、以前自分の中にあった自己エネルギーの爆発、すなわち創作意欲の減退に悩まされている。
自分からこれを取ったら何も残らないのにも拘らず、そのエネルギーが減退している事は、すなわち「生きる価値なし」である。
この「小規模な生活」の主人公のようにコンビニでバイトするとか、その可能性はまったくゼロだ。
コミュニケーション能力マイナス400パーセントの自分が接客業など絶対に出来ない。
お釣りの計算も、慣れているはずの自分の同人イベント時ですらすぐに処理できないような人間が、ましてや迅速さを求められるコンビニマニュアルに従った料金計算など毛頭無理。
まったくの赤の他人に自分の承知しない製品を笑顔接客で販売するなど、途方もないことだ。
なぜ人はそんなことが出来るのだ?
もしコンビニでレジをやったとしても客から「あの商品は何処にあるの?」と聞かれてもこうこたえるしかない。
「私はその製品を作った会社の人間でないから解らない。僕に聞かないでください」
自分がやっている諸々の事務処理すら満足に出来ないことが常であり、いつも自分に対して「お前は全然使えねえ。なんでお前50年も生きてんだ!」と己自身に罵声を浴びせかけている位だから、そんな自分が誰かの下で働いたとしても推して知るべし。3分でクビだろう。
それに自分の代わりに働いてくれる律儀な奥さんもいない。
いるはずがないのだ!
それが解っているから、己の創作意欲減退は、すなわち人生の終わりを意味する。
生きていくにはお金がいるが、単純労働すらNGということは生きる術がないと同意語。
バイト代よりも己の尊厳を大切にするような人間は底辺に堕ちたら生きていけないのだ。
その恐怖がひしひしと迫ってきて時々寝床で「ぎゃあああー」と叫んで飛び起きることがある。
これはもう末期症状だ。
「僕の小規模な生活」は自分のライフスタイルと似ているが大きく欠けている部分がある。
それは以下の点であろう。
パートナーたる奥さんがいない。
コンビニでバイトする能力がない。
メジャー誌から仕事が来ない。
エロマンガを出版社に持ち込む気概もない。
この要素を「僕の小規模な生活」の主人公に加えたらどうなるか?
そんなマンガのタイトルはこうだ。
「生きる屍!早く死んだら?うんこ製造機」
だがこんなマンガは誰も読まない。
なぜなら救いも希望もないからだ。ただ単に何にも出来ない、誰からも必要とされない、人望もない男を描いたとして誰が見るか?
正直、この「僕の小規模な生活」という作品は、もともとこの世界でお呼びでない絶望独身男性を上から目線で見下ろし「まだ俺は恵まれているほうなんだ。かわいい奥さんもいるし。メジャー誌から仕事も来るし。うへへへへ」と吐露する意味合いを持っているからある意味残酷なのだ。
いずれ、ドラマにでもなったら印税がっぽり。奥さんもブランド品に囲まれ、セレブの仲間入り。
ドラマになったら誰が主人公役になるだろう。どうせジャニーズの誰かなんだろうね。
この本の所有者から「読むなら全巻貸すけど」と言われたが遠慮した。
読まなくても解る。この作品の主人公が持っている「せめてもの財産」すら持ち得ない人間を知っているからだ。
それは自分。
だからこの作品の主人公をもっと悪化させたものなら描けそうだが、それは結局自分であってそんな私小説みたいなものを50近くになって描いたところで結果は知れている。
だが、自分そのものを晒しても一銭にもならぬのだ。
似たような「絶望人生論」を抱いていても、一方はそれを漫画にしてメジャー誌で人気を獲得し、一方では己のブログに漏電させるだけで貴重な時間を浪費し愚行に明け暮れる。
この差はなんだ?
やはり、ふとももむちむちの奥さんを娶っている分、人徳の差が出るのであろう。
結婚出来ない50男は何をやってもダメである。
この漫画以下の自分の人生に救いがたい絶望を感じた。
この作者さんとは10年ほど前、兎菊書房という小さい出版社の打ち上げで少しだけ話したことがある。「これからメジャーに成るにはどうしたらよいか」みたいな話だ。
作者さんは持ち込みのノウハウとか、自費出版の仕方とかをいろいろ尋ねてきた。
それに対して「取り合えず出版社を片っ端から持ち込みしたら?」とか「自分の人生掛かってるんだから編集者には自分の作品をそのまま載せろといってみるのもよい」とか返したような。その頃、永嶋慎二氏と接点があったのでその受け売りみたいなことを取り合えず伝えた事を憶えている。
彼がそれをまじめに聞いていたかは知らない。
おそらく向こうは当時のことなどとっくに忘れていると思うが。
あれから10年。
その人が何やら今モーニングあたりで連載しているとか。
それが「僕の小規模な生活」らしい。
この作品を読むと昔同じような経験をした事が甦ってきて妙に鬱々としてくる。
編集者とのやり取りがリアルだ。
「打ち合わせのための打ち合わせ」、「言っている事がくるくる変わる」、「何が正しいのかわからない」、「意思疎通が不透明」等など思い出しただけでもうんざりすることばかり。
この伝統はずっと変わっていないというかこれがメジャー誌の新人作家に対するルーティンなのかもしれないが、これで作家生命を潰される人もいた訳で、もうなんだか思い出したくもないものが下水道から逆流してくる思い。
もっとも、これは漫画家として成功するか否かの通過儀礼であって、これで潰される位ならプロ失格ということだろう。
この作者さんは難航しながらも取り合えず成功しているようで結構なことだ。
もし失敗していればこんな経験描けないし、描く気も起きないだろう。
だからこの作品は「小規模な生活」というよりは「徐々に成功しつつある俺の人生」と改題したほうがよいのではなかろうか?
もとより、この作品でも描かれているように「いい女」を嫁に迎え独占出来る地位にあること自体、すでに男として「成功」している訳だからこれ以上何を望むと言うのか?
伊集院光もそうだがキャラクターとして「ダメ人間」を標榜してはいるが、彼もアイドルを妻に娶っている訳で基本「ダメ人間」どころか「人生の勝利者」なのである。
だからそんな「人生の勝利者」が自分の「小規模な生活(失敗)」を語ったところで洒落にしかならない。
それを「商売のネタ」に出来る地位にあることが、もはや「失敗者」ではないことを証明している。
酒井法子の旦那然りね。
勿論、娶った「いい女」が未来永劫側にいる保証はないし、一人では生きていけない脆弱さはあるものの、大半の絶望独身男性は一瞬たりとも「いい女」と時を過ごすことが出来ない訳で、それはもう「小規模な失敗」どころか「最初から最後まで全部ダメ」という救いがない人生なのだ。
自分の人生を洒落にする余裕すらないのだ。
だからこの「小規模な生活」を読むと羨ましくてしょうがない。
なんだか最近は、自分とこの世界との境界線が妙に曖昧になってきて、以前自分の中にあった自己エネルギーの爆発、すなわち創作意欲の減退に悩まされている。
自分からこれを取ったら何も残らないのにも拘らず、そのエネルギーが減退している事は、すなわち「生きる価値なし」である。
この「小規模な生活」の主人公のようにコンビニでバイトするとか、その可能性はまったくゼロだ。
コミュニケーション能力マイナス400パーセントの自分が接客業など絶対に出来ない。
お釣りの計算も、慣れているはずの自分の同人イベント時ですらすぐに処理できないような人間が、ましてや迅速さを求められるコンビニマニュアルに従った料金計算など毛頭無理。
まったくの赤の他人に自分の承知しない製品を笑顔接客で販売するなど、途方もないことだ。
なぜ人はそんなことが出来るのだ?
もしコンビニでレジをやったとしても客から「あの商品は何処にあるの?」と聞かれてもこうこたえるしかない。
「私はその製品を作った会社の人間でないから解らない。僕に聞かないでください」
自分がやっている諸々の事務処理すら満足に出来ないことが常であり、いつも自分に対して「お前は全然使えねえ。なんでお前50年も生きてんだ!」と己自身に罵声を浴びせかけている位だから、そんな自分が誰かの下で働いたとしても推して知るべし。3分でクビだろう。
それに自分の代わりに働いてくれる律儀な奥さんもいない。
いるはずがないのだ!
それが解っているから、己の創作意欲減退は、すなわち人生の終わりを意味する。
生きていくにはお金がいるが、単純労働すらNGということは生きる術がないと同意語。
バイト代よりも己の尊厳を大切にするような人間は底辺に堕ちたら生きていけないのだ。
その恐怖がひしひしと迫ってきて時々寝床で「ぎゃあああー」と叫んで飛び起きることがある。
これはもう末期症状だ。
「僕の小規模な生活」は自分のライフスタイルと似ているが大きく欠けている部分がある。
それは以下の点であろう。
パートナーたる奥さんがいない。
コンビニでバイトする能力がない。
メジャー誌から仕事が来ない。
エロマンガを出版社に持ち込む気概もない。
この要素を「僕の小規模な生活」の主人公に加えたらどうなるか?
そんなマンガのタイトルはこうだ。
「生きる屍!早く死んだら?うんこ製造機」
だがこんなマンガは誰も読まない。
なぜなら救いも希望もないからだ。ただ単に何にも出来ない、誰からも必要とされない、人望もない男を描いたとして誰が見るか?
正直、この「僕の小規模な生活」という作品は、もともとこの世界でお呼びでない絶望独身男性を上から目線で見下ろし「まだ俺は恵まれているほうなんだ。かわいい奥さんもいるし。メジャー誌から仕事も来るし。うへへへへ」と吐露する意味合いを持っているからある意味残酷なのだ。
いずれ、ドラマにでもなったら印税がっぽり。奥さんもブランド品に囲まれ、セレブの仲間入り。
ドラマになったら誰が主人公役になるだろう。どうせジャニーズの誰かなんだろうね。
この本の所有者から「読むなら全巻貸すけど」と言われたが遠慮した。
読まなくても解る。この作品の主人公が持っている「せめてもの財産」すら持ち得ない人間を知っているからだ。
それは自分。
だからこの作品の主人公をもっと悪化させたものなら描けそうだが、それは結局自分であってそんな私小説みたいなものを50近くになって描いたところで結果は知れている。
だが、自分そのものを晒しても一銭にもならぬのだ。
似たような「絶望人生論」を抱いていても、一方はそれを漫画にしてメジャー誌で人気を獲得し、一方では己のブログに漏電させるだけで貴重な時間を浪費し愚行に明け暮れる。
この差はなんだ?
やはり、ふとももむちむちの奥さんを娶っている分、人徳の差が出るのであろう。
結婚出来ない50男は何をやってもダメである。
この漫画以下の自分の人生に救いがたい絶望を感じた。