『けものフレンズ』というアニメ

アニメ
02 /18 2017
先日、何がきっかけか定かでないが、この1月より地上波TVで深夜放映されている『けものフレンズ』というアニメを観た。
一見、NHKの教育テレビで放映されていても、何ら不思議ではない動物擬人化アニメだ。
「ジャパリパーク」とかつて呼称された自然公園(?)で無邪気な擬人化動物が単純に戯れている様子が淡々と描写されているだけの作品。
描かれている擬人化動物も声を当てている声優さんも「幼児性」が全面に醸し出ていて、入り口を間違えるとまったく受け付けられない作品ともいえる。
オープニングだけを観たら教育テレビの『おかあさんといっしょ』レベルだ。
だが、主人公だけが「人間」として描かれ、自分がはたしてどこからやってきたのかも憶えていない設定が、単なる児童向けアニメと一線を画している。
そこに気が付いた視聴者だけが、『けものフレンズ』の罠にはまるのだ。
『けものフレンズ』を観ている時に心の奥底から湧き出てくるザワザワ感は何なのだろう?
それは映画『猿の惑星』第1作のラストシーンを観た時のショックに至る過程に酷似している。
コールドスリープから目覚めて、見知らぬ惑星に不時着すると、そこは進化した猿が支配していたという設定と、どこかこの『けものフレンズ』はリンクしている。
『猿の惑星』第一作の主人公テイラーと『けものフレンズ』の主人公かばんちゃんの立ち位置は同じだ。
自分が何者であるかを知るために、かつて人類が残したであろう「文明の利器」を使って廃墟やジャングルの中を「図書館」に向かって友達と旅をする設定は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をなんとなく髣髴とさせる。
「自分を知る旅」の先に何があるのかという探究心をくすぐる世界観が『けものフレンズ』には奇妙にも内在する。
それが視聴者をひき付けていく。
どうしてこんな一見他愛のない「ほのぼの動物擬人化アニメ」に人類滅亡後を描いたSFエッセンスが強く醸し出されるのかが不思議でもある。
3Dっぽいアニメ処理も影響しているのかもしれない。
果たして目的地に到達した主人公かばんちゃんは『猿の惑星』第一作ラスト同様、衝撃的なものを目撃するのだろうか?
「図書館」とはナウシカで描かれたシュワの「墓所」みたいな場所なのか?
そこでかばんちゃんは「フレンズ」たちを覚醒と解放に導くのか?
それともやはり『けものフレンズ』は単なるほのぼのアニメとして「みんな仲良く遊んだね。めでたしめでたし」であっけない大団円を迎えるのか?
いずれにしろ妙に気になる作品だ。
けものフレンズ170215色

気になるアニメふたつ

アニメ
05 /29 2013
最近、気になるTVアニメーション。
基本積極的にリサーチしている訳ではないから、たまたま観た物が嵌るか嵌らぬかだけ。
今は何となく偶然見つけたMXテレビ土曜深夜に放映している『悪の華』。
原作は知らない。実写をトレースしたような描き方が功を奏したようで何となく続けて観ている。
青春期のトラウマみたいなのが興味深い。
天邪鬼なのでいわゆる「萌」系アニメでないからきっと流行りそうもないから敢えてチェックしたいという気持ちもある。

あともう一つは『ガールズ&パンツァー』
TV放映は終わっているが、なんかヒタヒタと波が来た。放映時には第2話しか観ていなかったので全容は不明だったが、偶然に早稲田通り沿いのカフェを見つけたりで何だか縁があるような予感がした。
ミリタリー系で尚且つ第2次大戦時の戦車を扱っているのだが、いわいる萌アニメの軽いノリなので手を出しかねる要素が多かったのだが、珍しく同世代に近いタミヤミリタリーミニチュア層が反応して自分も飲み込まれた。
この手の作品は時たま出現するのだか、ミリタリーモノは煮え潰れが多く、人気が出るのは稀。そういえば『ガルパン』に似た萌系キャラで2足歩行型戦車の登場するTVアニメがあったがあまり話題にならなかった。
『ガルパン』前作の飛行機ものもパンツ丸出しで飛行機は擬態化させたものだったので模型ファンには波及しなかったみたいだ。
しかし今回は実車に近い設定とリアルな動きで守旧的AFV模型ファンも食いついたようだ。
多分、様々な「仕掛け」があったのだろう。
珍しく戦車の模型も売れているようだし、便乗しない手はない。
先日描いた『ガルパン』の妄想イラストも30年前に作ったタミヤミリタリーミニチュアシリーズのⅢ号戦車を参考にした。
1970年代前半、少年たちに流行した戦車プラモデルは海外ドラマの『コンバット』やハリウッドの戦争娯楽大作に触発された要素が大きい。
そんな世代が50歳を過ぎて萌アニメに即発されて、再び戦車プラモに目覚めるというのは何とも香ばしい。
今はエッチング部品や細かなところまで再現されているので作るのが大変そうだ。
タミヤのドイツ88mm対戦車砲を再び組み立てる日は来るだろうか?
接着剤と塗料の香りが懐かしい。

もはやヤマトに搭乗する「旅立つ男」に紅いスカーフを振る女はいない

アニメ
04 /09 2012
アニメ「宇宙戦艦ヤマト」第1作シリーズのリメイク版が制作されたようだ。
タイトルは『宇宙戦艦ヤマト2199』。動画サイトにはプロモーションビデオがアップされている。
期間限定で公開された第1話の冒頭部分も観た。

1974年だったか。
日本テレビ系で日曜夜19時半より放映された最初の『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ。
当時、中学2年生だった14歳の自分に強烈に訴えかけるエポックメーキングな作品だった。
「テレビ漫画」は子供のものであり、中学生になったら卒業するというのが世の常識だった時代。
しかし、この作品はその常識を覆した。
今日におけるアニメコンテンツの基礎であり、原点であり、すべての始まりだった。
テレビがまだ家庭に一つの時代。
当然、家庭用ビデオなんてまったく普及していない。
チャンネル権をどうやって確保したのか覚えていないが、最初に観たのは第3話辺りだったか。
冥王星会戦のフラッシュバックシーン、遊星爆弾の着弾と閃光、吹き飛ばされる地殻、女声のハミングをバックに悲壮感溢れる男声のナレーションが14歳のハートを打ちのめした。
地球滅亡まであと何日と告げられ、エンディングの「真っ赤なスカーフ」が流れると興奮冷め止まぬまま、自室で今日のストーリーを反芻する。
そして何かに取り付かれたのごとく、オリジナルの宇宙艦隊の絵を落書きしたあの頃。

今、改めて第1作シリーズを観ると表層上の作画の荒さや設定上の矛盾があるにしろ、作品全体の持つエネルギーから比べれば大した問題ではない。
「宇宙戦艦ヤマト」が日本アニメ史を飾った金字塔であることを揺るがす理由はなにもないのだ。
イラストは4年前に発刊された、むらかわみちお氏主宰のヤマト同人誌に寄稿したイラスト。
ヤマトカラーa
2012年に、その「金字塔アニメ」がリメイクされる。
そこに「あの時代の夢を今一度」なんて期待を籠める必要はない。
かつての「戦友」が靖国神社に集い、「あの頃はよかったのう」と回顧反芻する拠でよいのだ。
どんなに細かい設定を再構築しようと、CGを駆使して作画レベルを上げようと、1974年当時のパワーは宿らない。
無骨な松本零士キャラは洗練され、手書きのセル画に代わってコンピューターで作られた宇宙艦隊の動きは正確無比ではあっても、血湧き肉踊る「心の叫び」が伝わって来る事はない。
まるで紙風船のごとき軽い宇宙艦隊の動きは耐え難いものがある。

しかし、それでいいのだ。
今の時代、それ以上のことをどうして求められようか?

日曜の19時半という「ゴールデンタイム」に放映された初代『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ。
本格的SF抒情詩を「テレビ漫画」に託し、男は「戦士」、女は「銃後」という昭和初期の価値観を真正面から描く事を許され、それが全国ネットで最も視聴者を稼げる時間帯に問う事が出来た作品。
それが自分の知る初代『宇宙戦艦ヤマト』だ。

だが、2012年に、そのような機会をテレビアニメが得られる環境は皆無。
今の地上波テレビゴールデンタイムは「女子会」生理二日目の匂いが支配している。
「SFアニメ」と類される作品は、一部のマニア向けに深夜時間帯、人知れず放映されているに過ぎない。

今後、『宇宙戦艦ヤマト2199』がどの時間帯で放映されるのかは知らない。
もっともネットの台頭によって「メディアの雄」の座から崩れ落ちたテレビに時代を動かす力はなかろう。
1970年代、テレビの申し子によって支持された『宇宙戦艦ヤマト』。
だが、今の世に地上波テレビで『宇宙戦艦ヤマト』がリメイクされても時代の寵児にはなれない。
『3丁目の夕日』と同じく、回顧のための慰みものとして反芻されるだけで終わる。
それが2012年の初代『宇宙戦艦ヤマト』の使命だ。

もはやヤマトに搭乗する「旅立つ男」に紅いスカーフを振る女はいない。




40余年目にして観るテレビまんが『サスケ』

アニメ
01 /14 2011
ふとしたきっかけで、40年以上前のテレビアニメ『サスケ』を観る。
思わず魅入ってしまった。

白土三平原作のこのアニメは1968年から1969年に掛けて地上波民放テレビで放映されていた。
日本が高度成長期の真っ只中にいた「猛烈な時代」の産物。
過激で残酷なシーンが普通に描写されていて、尚且つゴールデンタイムのお茶の間に放映されていたという、今では到底考えられない「テレビまんが」作品。因みに提供は森永製菓。
にも拘らず、普通に観れるのは描写がデフォルメされたシンプルな絵というのもその理由だったのか。
もっとも、この時代はドラマにしろマンガにしろ、残酷シーンは珍しくなかった。
ベトナム戦争の凄惨な写真がグラフ誌に日常茶飯事の如く掲載されていた訳で、時代としてはこれがノーマルだったのだろう。反体制の落人が主人公というのも当時の人気時代劇『木枯らし紋次郎』を例に挙げるまでもなく、安保闘争の影響を強く受けていたと推測される。

それはさておき、この『サスケ』であるが、オープニングとエンディングは記憶にあったのだが、本編はまったく覚えていない。
何回も再放送されて観た機会はあったはずなのに不思議である。
今見ると、人が普通にあっけなく死ぬシーンがたくさんあって、それが妙に教訓的で心を打つ。
当時、まだ小学生だった自分にはそのようなシーンが何を意味するかなんて恐らく理解出来なかったはずなのだが、もしかすると深層心理の中で無意識に植えつけられていたのかもしれない。
『サスケ』に限らず、この頃のテレビまんが(敢えてアニメとは言わない)は得てしてマザーコンプレックスやシスターコンプレックスの少年が主人公である場合が多く、なんだか知らないけれどその影響だろうか「まだ見ぬ美しい姉」に憧れを抱いたりした。
女兄弟が居なかったので尚更「妄想」が増幅されたような記憶がある。

あと、今更ながら白土三平の洗練された絵には圧倒される。
実は白土三平の漫画は殆ど読んだ事がない。白土三平どころが小学生時代は漫画はおろか、読書自体まったくしない極端な「テレビっ子」少年だった。
一日8時間くらいテレビの前に居た記憶がある。
テレビまんがは食い入るように観ていたのに、何故か紙媒体の漫画は殆ど読まなかったので白土三平も知らなかった。
ただ、どこかで見かけた忍者連作漫画の中に妙に記憶に残る作品があり、それが後に白土三平の漫画であったのを悟る。
だから白土の名を知らなくとも「凄い作品」を描いていた人という認識だけはあったのだろう。

いずれにしろ、1960年代後半に作られた数多の漫画、アニメに籠められたメッセージを理解出来る様になったのは、初放映時からかなりの時間を経てのこと。
たとえば『太陽の王子ホルスの大冒険』にしろ、封切された時にはその存在すら知らず、実際初めて観たのは1980年だった。自分が大学生になってやっとその作品の「偉大さ」を認識できたのである。
たとえ封切りされた1968年に観る機会があったとしても小学生だった自分には、その作品に籠められたメッセージを「消化」出来たとは思えない。

そういう意味では『サスケ』も五十路を超えた今だからこそ、理解出来る「テレビまんが」だったのだ。
40年以上寝かして得られる「芳醇」さは、まさにワインのごとしである。
にしても、今見て改めて認識するのは主人公サスケの可愛らしさ、凛々しさだ。
たかが、昭和40年代テレビまんがの主人公なのにこの健気さは如何なる事だ?
シンプルで単純な線で描かれているにも拘わらず、この「色気」は何だろう?
やはり原作の白土三平がこのサスケに籠めた強烈な情念あってこそか?
オープニングもカッコいいし、エンディングもスタイリッシュ。
オープニングの台詞は胸を打つ。

光あるところに影がある。
まこと栄光の陰に数知れぬ忍者の姿があった。
命を賭けて歴史を作った影の男たち。
だが人よ、名を問うなかれ。
闇に生まれ闇に消える、それが忍者のさだめなのだ。


うーむ。これは忍者に限らず、漫画家にも当てはまるな。
恐ろしい。

それはさておき、ストーリーも無駄がなくストレート。ストレート過ぎて突っ込みどころも満載なのだが、そんな細かいところはどうでもいいのだ。
敵役として何話かに登場する鬼姫もいい。
今で言う「ツンデレ」娘の元祖だ。
この当時、描かれる子供は「子供」以外のナニモノでもない。
子供の無邪気さ、残酷性を躊躇なく描いている。変に大人びて描いていないところも新鮮だ。
集団で大人をいじめたり、殺したり、殺されたりと容赦ない。か弱い動物もあっけなくバラバラになる。
鬼姫との対決も、昨今描かれるような「大人の代理戦争」みたいなものじゃなく、純粋な「子供のけんか」レベルであるから逆に生々しい。
女は「母」であり、男は「父」であり、子供は「子供」なのだ。
それ以外のナニモノでもなく、大人も子供も男も女も生きるための「通過儀礼」に闘争する。
強いものは生き延び、弱いものは死ぬ。
それだけだ。
特に子供の死はあっけなく、美しい。
原作の何巻目かの表紙にサスケそっくりの従兄弟の一人が猟師に胸を撃たれて死ぬシーンの絵があったのだが、それが妙に美しいのだ。
白土三平が抱く「死の美学」かどうかは知らぬが、ここまで描ける環境がこの時代にあったのだ。

初放映から40余年目にして、初めてサスケと鬼姫を落書きしてみる。
拙い腕で情けなくなるが、やっぱりサスケは可愛い。
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『借り暮らしのアリエッティー』監督を取り上げた番組を観る

アニメ
08 /11 2010
先日、NHKで現在公開中のジブリ映画『借り暮らしのアリエッティー』を担当した若手監督密着レポートみたいな番組をやっていたので観る。
宮崎駿氏の後継者育成みたいな視点から捉えた構成。
演出がどの程度入っているか定かでないが、額面どおり受け止めて見た限り、なんだか監督というよりも宮崎駿氏の「下請け」責任者というイメージで痛々しかった。

もはやジブリそのものがブランド化している訳でジブリ=「宮崎アニメ」なのである。
だから、宮崎氏以外の人が監督をやったとしても結局は「宮崎アニメ」を踏襲しなくてはいけない。
いわば、宮崎駿氏のイエスマンとして忠実に動かねばジブリに在籍している意味がない。
今回、宮崎氏はあまり口を出さず、この新人監督に任せたというが、ジブリに居る限り、たとえ総本山が口を出さなくとも「無言の圧力」で「宮崎アニメ」を忠実に描かねばならないのだろう。
その「無言の圧力」でこの新人監督はほとほと参っているようで、見ていて痛々しかった。

だが、宮崎アニメブランドがこれだけ確立した以上、この作風を維持することは重要だ。
ジブリスタッフにとって最大の使命は「宮崎アニメ」を如何に忠実に継承していくかのみである。
たとえ宮崎駿氏がこの世を去ったとしても、このブランドは死守しなければならぬ。
だから、この新人監督もそのためにのみに全精力を尽くす。
命をすり減らしてでも「滅私ジブリ奉公」しなければならなかった。

誰が「2代目宮崎駿」を襲名するのか解らないが、ジブリはやがて能や歌舞伎と同じく日本の伝統芸としての道を歩む宿命なのだ。
動き、情感、カット割り、キャラクター設定他ありとあらゆる「宮崎アニメ」的手法が明文化され、寸分違わずそれを未来に継承することがジブリの使命なのだ。
「サザエさん」と同じく、原作者がこの世を去っても継承していかねばいけないものがある。

それにしても、宮崎駿氏は元気だ。
後継者の方が先に鬼籍に入るほどのバイタリティーはどこからくるのか?
いや、若い世代があまりにも脆弱すぎるのか?
『借り暮らしのアリエッティー』の監督も独身なのか?
家族や妻や子の話はまったく出てこない。
やはり妻子を持たぬ男子は生命力が弱いのだろう。
団塊の世代が持つ卑しいほどの生への執着がないと、ジブリ後継者は宮崎氏よりも先にばたばた死んでいくばかり。
だけどそんな生命力旺盛なアニメーターは、おそらく宮崎駿氏が君臨する下で仕事しようなんて思わないかも。
ジブリの中で宮崎色に染まるだけなんて面白くないだろうしね。
でもそんな血気盛んなアニメーターがジブリと競うように創作できる環境が、今の日本アニメ界にあるという話は聞かない。
総てにおいてどことなく元気も覇気もないまま。
薄給の中でのた打ち回るうめき声しか聞こえてこない。

今回の新人監督のようにどこか弱弱しく、痛々しい姿は、日本アニメ界の将来をみるようで辛い。
彼もあと何年生きられるだろうか?
頑張って欲しい。

でもジブリで監督を担当し、こうしてNHKテレビで密着レポートまで取り上げられた時点で彼の人生は成功したも同然。
たとえ「宮崎アニメ」踏襲作品だとしても、多くの人に自分の作品を見てもらえたのだからクリエーターとして本望だ。
これで死んでも思い残す事はなかろう。

羨ましい限りである。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/