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神無月妄言

日常
11 /02 2019
神無月妄言。
気がつけば11月。今年もあと2ヶ月を切ってしまった。
己の干支だったにも拘らず、手ごたえのある収穫は無きに等しく、ただ人生の蝋燭をすり減らしていく年月。
今に始まったことではないが、時間の概念がもはや客観的にコントロール不能になったのか、「やるべきこと」がまったく片付かない。
SNSという手慰みが貴重な時間を奪っていく。
ネットにアクセスする度に何ら生産性のないものにエネルギーを吸収され、気がつくと1日が終了してしまう。
このパターンから脱するためには、取り合えずスマホのような末端を遠ざけなければならない。
スマホの利便性によって「やらなければいけないこと」が犠牲になっていることを悟るべきだ。
スマホによって予定された「1日」が予期しない情報によって阻害され続けると、一生を台無しにする。
一人の人間が処理できる情報などたかが知れている。
SNSから溢れ出る有象無象はそもそも虚無。
そんな虚無にアクセスし続けることは、己を虚無の一部としてしまうのだ。
その虚無に反応しないことが、徳を積み、人生を豊かに出来る。
スマホは毒である。

吾妻ひでお先生が鬼籍に入られた。
数多の傾倒する偉人クリエーターが世を去っても、それは自分にとっては直接関わりがない「雲の上の人」。
しかし、吾妻ひでお先生は少なくとも、自分の作品に対して直接関心を持って頂き、同人誌模写や原画展にまでお越しいただいた。
短いやり取りながら直接お話したこともあった。
そのような方が鬼籍に入ったことによる喪失感は計り知れない。
享年69歳。
1970年代より週刊漫画誌でバリバリに連載されていた第一戦級の漫画家からしたら長寿のほうかもしれないから、ある意味漫画家人生を全うされた方なのかもしれない。
合掌。

今年は殊更、様々な事象で己が傾倒する分野での生命財産が奪われる喪失感が強い。
水害、火災、放火で貴重な唯一無二の存在が、一瞬にして灰燼に帰していく。
「形あるもの、いつかは必ず朽ちる」
その定めから逃れることは出来ない。
だが、これまでは喪失する以上に、創出されるものが卓越してたから、この国はなんとか持ち堪えてきた。
しかし、この超少子高齢化の時代、希望ある未来は奪われ、一度失うと、もう2度と取り戻す事が出来なくなる時代へと転落した。
浩宮陛下即位の儀を垣間見て、玉座に上られるお姿はもはや初老。
初々しい活力ある覇気は感じられず、「令和」の時代は計り知れない喪失の連続を予感させる。
人間国宝並みのアニメーターを一瞬にして奪ったスタジオの放火も、貴重な収蔵品を水没させたミュージアムを襲った洪水も、再建された途端に炎上した城の大火災もすべて「終わりの始まり」に思えてくる。
運からも見放されたように。
いや、この世が「灰燼に帰す」ことは世の宿命であって、むしろ何事もなく安息が続くわけがないのだ。
この定めを織り込んでこその人生でもある。
だから、貴重な今の「生」を悔いることなく、前に進むしかないのだ。

我らは灰燼の中から新たなる未来が築かれる輪廻の中に生きている。
やがてこの東京も首里の炎の何千倍の規模で焼かれる日が来る。
「令和」に生きる民はその苗床となる生贄の宿命なのかもしれぬ。

しかし、誰もその覚悟は出来ていないのだ。


今年も桜の季節

日常
03 /29 2019
今年もまた桜の季節が来た。
24日に例年のごとく、新宿御苑にスケッチと写真撮影。
御苑は今春より入場料を倍以上に値上げした。大人200円から一気に500円へ。
これではあまり気軽に行ける場所ではなくなってしまう。
入場門は行列。過半数が外国人ではなかろうか?
欧米系、中国、韓国系に混じって東南アジア系の言語も多く耳にする。
経済成長著しいのだろう。いつしか日本のほうがGDPで抜かれる日も近い。
気温は20度に迫る暖かさ。すでにソメイヨシノは八分咲き位。
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スケッチしていると、昨年に続き、外国人が写真を撮ってくる。そんなに珍しいのだろうか?
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外国人といっても御苑で桜見物するのは富裕層なのだろう。「金持ち喧嘩せず」で、皆穏やかで礼儀正しい。
一方で、コンビニや飲食店で就労する外国人はこのような所へは遣って来ないのだろう。
入場料金値上げした分、開園時間も延長されて18時まで滞在できるようになった。
夕日がNTTドコモビルの向こうに沈んでいく。
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先週の土曜日も大学サークルOBで毎年恒例の花見をする。
場所は代々木公園。このときはまだ二分咲き程度で花見客も疎ら。
更にはあいにくの小雨模様。それも霰だ。
気温も10度以下。花見というより耐寒訓練。
この季節は寒暖の差も激しく、天気の移り変わりも頻繁だからなかなか好天の下での花見には恵まれない。
今年のOB花見日程ははずれだったな。
それはさておき、同輩はもう還暦前後。
既婚者は息子娘すら結婚の話が出るという。
遅かれ早かれ孫が生まれ、祖父祖母の世代に。
そんな話を聴くと、改めて独身で居る無意味さが身に滲みる。
子供は勝手に成長し、更なる子孫を残す。己の意思には関係なく未来が築かれていく。
いわば「自動未来製造機」だ。
この唯一無二の装置を獲得出来ない無念さが歳を負うに連れ、重たく圧し掛かる。
子供を残せる者と残せない者との差はいったいどこにあるのだ?
表面上に差があるようには思えない。
ただ、明らかに新卒就職した者に妻帯者が居る傾向が強い。
だが何か決定的な要因が他にどこかにあるとしたら?
宿命としての独身。
宿命とは何か?
ただ老い朽ちるだけの存在。
還暦を前にして、あと出来ることは何なのか?
逡巡したところで何も始まらない。いつものことである。結局答えなどない。
確かなことは少なくとも「このままでは終われない」のは確かだ。

アニメ『ケムリクサ』全12話が終わった。
テレビ放映リアルタイムでほぼ全話観る。
41年前に、同様にリアルタイムで観た『未来少年コナン』や1994年の『新世紀エヴァンゲリオン』の追体験に近い。
後半、妄想の琴線に触れてしまい、不毛な落書きに興じてしまった。
全部、ツイッターやピクシブに上げる。
『ケムリクサ』はそれだけ妄想力を喚起させるハイレベルな作品であることは間違いない。
最後は意外とあっさり、捻りもなく終わる。
物語としては「お約束」の王道で、めでたしめでたし。
続編の余韻もなく、とにかく12話完結として何とか収まったようだ。
結局、『ケムリクサ』の舞台は地球の都市を3Dモデリングするために遣って来た「宇宙人」の「船」の中での物語だったのか?
最後に「船」から出た世界は如何なる場所なのだろう?
実際の地球なのか?宇宙人の母星なのか?あるいは更なる「船」の外郭部分なのか?
おそらく、「船」と地球とは同じ時空間では繋がっていないのだろう。
其々別々の時間軸の世界で独立しており、わかば達は特別な技術で別の時間軸世界に干渉出来るのだろう。
だから 物理的に地球の上に浮かんでいる訳ではないと想像する。
次元が違う場所に独立して存在し、サルベージする時だけ干渉するのだ。
地球に住む者にはまったく気づかれない方法で。
次元空間が繋がっていないのだから、スケールの問題とか、ケムリクサが実際の地球に影響を及ぼすとかは、余り意味のない邪推かもしれない。

一方、ストーリーとしては、イレギュラーにサルベージされた「さいしょのにんげん」がケムリクサで六つ其々の人格に分裂し、最後に初心を果たすという流れだった。
だが、ヒロインとしてのりんが、わかばに対しての愛情開花の経緯がいまひとつで締めの台詞に至ってしまい、結局りんというキャラクターには最後まで感情移入出来なかった。
「さいしょのにんげん」のコピーの一部であるから、その目的であるわかばに対する「愛情」は必須のはずが、主に戦闘要員として描かれているから、もしかすると「愛情担当」は別の姉妹に移植されているのかと。
だから、最後の最後までわかばに対してはブッキラボウ。果たして愛情の発芽に至ったのか。
時々、体が火照る等の描写はあったが、それも取ってつけた描写でいまひとつ。
男勝りすぎるので、りんはトランスジェンダーかもしれない。
だから、男に対して恋愛感情を持たないのだ。なぜそんな存在が「さいしょのにんげん」の分身となったのか?
「敵」と戦わねば目的を遂行出来ない以上、6人の「分身」が戦闘能力の高い素質を持つのは尤もだが、そうなると話がどうにも破綻してしまう。
結局、りんがわかばに告げた締めの言葉も恋愛感情ではなく、強敵を共に倒したわかばの意外なマッチョ性を褒めただけではなかろうか?「お前もやるな」みたいな。
あるいは、最終的に敵を倒した段階で、りんの恋愛感情が解き放たれるトリガーが仕込まれていたのか?
その辺りは何回も観直さないと理解に至らないのかも。

いずれにしろ、『ケムリクサ』も次世代に希望を託す物語に違いはない。
「さいしょのにんげん」りりが犯した罪の払拭と愛する者の救済を、ケムリクサを触媒にして実践する。
この現実の世でケムリクサに代わる触媒とは何か?
それは男女の営みだ。
結果、生まれ出でる「次世代」が、新しい世界を実践する。
『ケムリクサ』は国産みの物語でもある。
やはり、次世代を育む以外に、未来はないのだ。

3月も終わろうとしている。
そして月が明けると次の元号の発表。
何やら「安」という漢字が入る噂が。
勘弁して欲しい。
万一、読み方が「あきゅう」とか「あびゅう」とかなったら最悪だ。
己のペンネームと類似して、生涯有象無象の至近弾が十字砲火のごとく目の前を飛び交う。
兎に角、「あ」で始まる元号など御免被る。
「高輪ゲートウェー」も通る世の中だ。
いっそカタカナのきらきらネーム元号にでもしたらよろしい。





ハロウィン妄言

日常
10 /27 2018
気がつくともうハロウィンだ。
今年のハロウィンカード。
ハロウィン1810色ab
季節的には冷暖房も要らず、心地よいシーズン。
このハロウィンというイベントが日本で盛り上がり始めた10年位前は、妙に心地よいものだった。
しかし、最近はどこか俗っぽい面が肥大化して新鮮さが失われつつある。
あとお祭り騒ぎに対する抑圧も何だか冷や水を浴びせているような。
クリスマスに並ぶ一大商期に成長したから、このまま萎むということはないだろうが、お祭りとしては基礎が軟弱で方向性が定まらない。

某コーヒーショップ(フランス語で黒猫)がこのシーズンにコップに乗る「ふちねこ」のハロウィンバージョンを景品として出している。

ドリンク3杯分のレシートで一つ貰える。全部で5種類。
特に集めるつもりはないのだが、何となく気になって手を出す。
10月末日までなのでもう粗方都内の店舗では在庫切れ。
わずかに吉祥寺の店舗に残っていたので、わざわざ3杯分のドリンクを1日でオーダー。
かなりお腹に来る。
最低でも600円以上はかかる。
普通の小物ショップで売っていたら100円でも買わなかったろう。
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やはりモノを売るためには、話題性、希少性、期間限定感を醸し出し、購買欲を煽る戦略が必要だということを学ぶ。
店にいた間、半数以上の客がこの「ふちねこ」をレジでGETしていた。
中には数人で来店し、一気にドリンクをオーダーし、複数景品交換する客も。
日本は平和だ。

最近は電子書籍関連のアプローチが多い。いろいろと原稿依頼や電子出版の依頼を頂く。
既刊作品ばかりでなく、オリジナル連載配信も増えてきたようだ。
電子書籍だから在庫管理、取次、流通、印刷費等から解放され、もっと伸び伸びと広範囲なジャンルで展開出来そうな印象を持つが、実際は紙の媒体と大きな違いはなく、確実に売れるジャンル以外は、あまり冒険的な作品を欲しない。
だから自分のような特殊でマイナーな漫画家の作品は電子書籍でも掲載のハードルが高く、なかなか企画が現実化しない。
時代は確実に電子化に向かって入るが、電子書籍ジャンルは紙媒体に比べ、まだまだ業界規模が小さく、先行投資する余裕がないようだ。
だから結局Kindleのような巨大外資系に席捲されてしまうのだろう。
描き手からしても、印税70パーセントは魅力。
但し、個人出版だと、宣伝、経理、作品管理等全部自分で処理しなければならず、相当な知名度がないと商売にすらならない。
ある程度は既存の電子出版社と組み合い、柔軟で多角的な販売戦略を構築していく手立ては必須と思う。

ところで既存単行本を電子化する場合、ほとんどが「底本」からのスキャンに頼っているという。
「底本」とは紙媒体で出版した本を指す。この「底本」をそのままスキャンして電子化するということだ。
自分は今のところ、「底本」を使った電子書籍化は一部の同人誌を除き、実施していない。
一旦、印刷された作品は線が掠れたり、潰れたりして原画の魅力を著しく損なっている。
特に自分のような細かい描写で構成された絵の場合は影響が大きい。
繰り返しになるが電子書籍化する際は、すべて原稿からグレースケールでスキャンしなおし、ゴミや下書きの線を取り除き、ネームも改めて打ち直して版下を作る。
これが思ったよりも手間が掛かる作業で、単行本一冊分に一ヶ月位掛かってしまう。
拘りがあるので、人に任せる訳にもいかない。
だが、自分の作品をよりクオリティーの高いレベルで読者に観て頂くためには当然の工程だと考えている。
単に「底本」をスキャンして電子書籍化するという手法が自分には理解しがたい。
描き手の漫画家のほうもこれで満足なのだろうか?
これが電子書籍がいまひとつ伸び悩む理由なのかもしれない。
もっとも改めて原稿からスキャンするというのは膨大な作業量になるからその経費を考慮すると商業レベルではペイしない。
だから漫画家側も電子書籍出版社側も安易な「底本」スキャンで妥協しているのだろう。
が、読み手からすれば電子書籍ならではのクオリティーを欲しているはずだ。
でないと有料でダウンロードする理由付けが希薄になる。
いずれにしろ、こういう手間を省いていては、なかなか電子書籍の未来は開けないと思うこの頃。

昨今ニュースで流れる様々な「報道」は、もう数日で忘れてしまう。
ちょっと気になった事も、あっという間にどうでもよいことと化す。
昨日も、中東のどこかで人質になった「フリージャーナリスト」が解放されてどうのこうの云々というニュースが流れてきた。
巷では「プロ人質」だとか「自己責任」だとか、その是非を巡って不毛な呟きが行き交う。
もう最近は、どっちの立場にしろ、「己の正義」をSNSという「肥溜め」に投げ込む糞尿中傷合戦には辟易。
その「飛沫」が飛んできたところで何の徳にもならない。
貴重な限られた人生を無駄にしないためにも首を突っ込まず、スルーするのが一番だ。
どうせ数日経てば忘れてしまう。
でもまあ、定かではないが国家レベルの「救出劇」に発展したに拘わらず、この人は取り合えず「ジャーナリスト」としてこれからも生きていけるのだろう。
一方で、たかがスマホで女性のスカートの中を「盗撮」しただけで社会的信用を失ってしまう男性と比べると、あまりにもその行為と結果の格差が激しく、香ばしい思いに駆られる。
こんなどこか狂っている「メディアの正義」に翻弄されては、本当に人生の無駄である。
相手にしないのが身のためだろう。

テレビで『もののけ姫』を放映していた。
公開されてからもう21年も経っているのか?
当時即興で描いた主人公アシタカの落書き。
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ちょうど最初の劇場版『新世紀エヴァンゲリオン」もこの年だった。
世紀末の緊張感漂う1997年界隈。
この二大ヒットアニメ作品が当時の時勢を象徴していた。
『もののけ姫』のラストで、ヒール役のジコ坊がこう呟いた。
「いや参った参った。馬鹿には勝てん」
これが当時の宮崎駿氏の本音なのだろう。
レプカにしろ、カリオストロにしろ、ムスカにしろ、四角い顔の悪役は皆、宮崎駿の分身だ。
若者は馬鹿になれる。歳とって分別つくと、新しい思考が出来なくなる。
年老いて硬直していく己を嘆いたのかも知れない。

日本は超高齢化社会を驀進中だ。
もう「馬鹿」になれる者もいなくなり、滅びの道を行くのみ。
あるのは右も左も上も下も「老害似非正義」ばかりなり。
アシタカやもののけ姫みたいな「昭和純愛カップル」などもう望むべくもない。

新たな世代が生まれなければ一巻の終わりである。
ハロウィン妄言終わり。

9月諸々

日常
09 /28 2018
もはや9月も終わろうとしている。
台風24号が沖縄の南辺りで停滞し、秋雨前線が関東地方に長くかかっている。
典型的な秋の長雨パターン。
東京は梅雨時よりも9~10月の秋雨のほうがダメージが大きい。
昨年も、この時期尽く週末雨に降られてイベントが潰れてしまった記憶がある。

少し前になるが、東京駅の美術館で開催されていた「いわさきちひろ」展を観た。
練馬区にある専用ギャラリーにも過去赴いたことがあるが、今回はスペースも広く大規模。
いわさきちひろといえば、自分の幼年期、すなわち1960年代のシンボリックな絵本画の典型であった。
学校の図書館や病院などの待合室には必ずといってよいほど彼女の本が転がっていた。
テレビまんがばかり観て、児童文学や絵本をまったく読まなかった自分ですら知っている作家。
今思うと、思想的にバイアスがかかっていてやや複雑な気分になるが、いろいろと経歴なんかを垣間見ると山の手のお嬢さんという感じで裕福な家庭に産まれたが故に自由な創作活動が許されたんだろうなあと羨ましくなる。
実家が裕福でないと、クリエーターが大成することはなかなか難しいのは今も昔も変わらない。
そういうことばかりが気になってしまい、作品自体の感想は二の次になってしまう。
しかし、シンプルな線で情感を表現するのは、1960年代特有だ。
『ねこじゃら市の11人』のオープニングと同じだ。
あの頃は若者が人口比の多くを占めていた。
だから、常に皆前のめりに生きていた。
が、若年層は多かったが、大学生の数は全体の2割程度。
高度成長期の企業にとっては大卒は貴重な人材だったから、学生運動等で多少暴れてもいくらでも就職口は見つかった。
火炎瓶を投げてゲバ棒振り回しても終身雇用が約束されていた時代。
今だったら、大学生など特別ではないから、下手な運動したらもやまともな所には就職できない。
いわさきちひろの絵を観ていると、そんなエネルギー溢れた1960~70年代の残滓が迫ってくる。
昔の左派系新聞に連載していた「働く女性」みたいなコラムに真空管を手作業で作る女工エピソードの挿絵が紹介されていて、古き良きアナログ時代は遥か古に遠ざかってしまったことを改めて感じる。
別に真似した訳ではないが、いわさきちひろ風に水彩を淡く溶かした絵を描いたことがある。
これは自分の学生時代に描いた落書き。
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だがこんな画風で漫画は一度も描かなかったな。

もうひとつ、自分の学生時代の後輩が出展している展示会にも足を運んだ。
国立の閑静な住宅街の中にあるギャラリー。
現代芸術っぽい作品が多い。参加しているのはアマチュアの方が多いのだろうか?
しかし芸術にアマもプロもない。アートとはそういうものだ。
出展物の中に、蛇状に長いルービックキューブみたいなものがたくさん机に置かれていたコーナーが。
観覧者が自由に造形してよろしいと案内されていたので、ひとつ徐に手にとってくねらせる。
そしてタイトルも記す。
題して「58才児」。
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適当に赴くままに作ったので主張も何もない。
強いてあげればそんな無目的に時間を過ごしていたらまともな造形物に至らぬまま還暦近くまで子供のまま年取ってしまった事を訴えてみたと、適当に自分を納得させる。
暫くすると、50代くらいの女性グループがこのオブジェの前を通りかかり、笑い出した。
「58才児ですって。ぎゃはははは」
多少でも反応があるだけマシだという事か。

更に、知人のアマチュアバンドライブにも顔を出す。
1970~80年代のJPOPsである。
「おやじバンド」ブームというのがあって、定年近くの会社員が組んで若き時代のニューミュージックを演奏するグループが増えた。アマチュアといっても腕や歌唱力は馬鹿にならない。
あの頃は才能があっても、一般企業に就職する以外、選択肢はなかった。
プロになるのは極々限られた者だけ。
今のようにユーチューブなんかなかったからアマチュアの自己表現の場など限られていて、サラリーマンになったらひたすら滅私奉社の時代。
会社員やりながらバンドなど不謹慎といわれた。
みんな趣味を捨てた。思えば乏しい時代。
そんな世代が子育ても終わり、余裕が出てきて再びかつて爪弾いていたギターを取り出し、歌いだしたのだ。
一流企業に勤めている人が多く、定年後も年金で潤える世代だから皆、悠々自適。
「いわさきちひろ」と同じである。

還暦とは次世代を育み終わり、これから悠々自適に余生を楽しむ入り口なのだ。
しかし、そのためにはお金がいる。
お金のない絶望独身男性還暦は惨めだ。
表現活動を趣味ではなく、生業にしている者は生涯現役で死ぬまで仕事で描いていかねばならぬ。
描けなくなったらおしまいだ。
「58才児」に余生を楽しむ60代はやってこない、としかと心得ねば。

8月が逝く

日常
08 /30 2018
8月3週連続ビッグサイト行商イベントもお蔭様で、何とか乗り切る事が出来た。
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猛暑に加えて7月末からの夏風邪、尿管結石発症などで健康面的にしんどい面も多々あった。
が、客観的に鑑みれば10年くらい前であればもっとハードなスケジュールでもこなせていた気がする。
一つのことを処理するのに加齢と共に時間がかかるようになったし、クオリティーも低下してきた。
結構頑張ったつもりでも、遣り残した案件が山積みだ。
「やりたかった事」も「やらねばならない事」も全然出来ていない。
ただ時間だけが経過し、いったいその間、何をやっていたのだろう?


この8月は猛暑であったが、吸い込まれるような青空にも恵まれた。
蝉時雨と焼け付くような日差し。
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感性が研ぎ澄まされた年齢であればそれを創作の糧として貪欲に表現したであろうが、還暦を前にひたすら暑さに耐えるだけの我が身が腹立たしい。

8月の夜空は15年ぶりに地球に大接近した火星が夜空に煌々と赤く照っていた。
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探査機画像でなく、己の裸眼で火星像を垣間見たいと望遠鏡購入を模索したが、やはり高価なものをこの時のためだけに出費するのは躊躇する。
だが次の大接近時にはもうそのような気力体力が維持されている可能性は少ない。
これまた「やりたかったこと」が結局出来なかった事案の一つでもある。

たまにテレビで放映される昭和30~40年代に制作された『社長シリーズ』や『駅前喜劇』という高度成長期華やかなりし頃の映画。

これを観る度に思うことだが、この頃の映像が丁度熟成されたワインのごとく、芳醇な味わいを見せてたまらなく「美味しい」のだ。当時の風景、人間関係、服装、家屋、風俗、飲食物等そのすべてが自分の子供時代の空気感そのものを運んできて、心地よく酔えるのだ。
今だったらコンプライアンスに反することも公然とやってのける爽快感もある。
「あの頃はよかった」というものでもない。当時に戻っても水洗トイレもコンビニもないから、恐らく耐えられまい。
しかし、半世紀を経てあの時代を垣間見ることが、とても喜びに感じるのは紛れもない事実なのだ。
垣根や庭のある文化住宅、バヤリスオレンジ、リプトンのティーバック、カルピス等のアイテムが己の琴線を直撃するのだ。
例えれば一種の廃墟探訪や遺跡発掘に似た快感だ。
その映像には「生きた化石」が存在しているのだ。
感動できる映像はいまやこれ位しかない。
これも歳をとったせいかも知れぬ。

戦後昭和45~55年代くらいの子供時代を描いていた超有名漫画家が鬼籍に入ったという。
残念ながらこの方の作品はまったく読んでおらず、アニメも殆ど観なかった。
新聞連載の原作「サザエさん」は映画「駅前シリーズ」「社長シリーズ」同様に時代感覚がシンクロしてくるが、この「小さい丸の女の子」作品は、なぜか全然ピンと来なかった。
世代が10年も離れていないのに妙である。
因みにこの漫画家さんは、まだ50代前半だったそうだ。
でもまあ、漫画を生業とする身としては「人生50年」位がいいのだ。
売れていようと売れていまいと、だいたい感性が研ぎ澄まされるのは50代位まで。
あまり長生きして表現活動の第一線に留まろうとすると、「老醜」、「老害」と化して疎まれるから、これくらいが良い。
人は年取れば表舞台から姿を消して、影ながら次世代の支援をする役に徹するのが人生の作法。
それが出来なければ、鬼籍に入ったほうが世のためになる。
もっともこの漫画家さんは時代を一世風靡したほどの作品を輩出したのだから、悔いも何もなかろう。
クリエーターとして満願成就である。
この方が生前、こんなことを言ったそうな。
「何の苦労も下積みもなく、好きなことを描いて超売れっ子になってしまって申し訳ない」とか。
いや。それでいいのである。
漫画家に下積みも苦労もいらない。
そんなもの百害あって一利もない。
研ぎ澄まされた純粋な感性をそのまま表現し、世に問うことが出来ることこそ、表現者の理想である。
それが世に受け入れられヒットすることは表現者が食っていける必須条件だ。
下積みとか苦労はそんな感性を曇らせてしまうだけ。
結果、荒んだ人生観や人間関係を背負わされて、クリエーターとしてダメになっていくだけだ。

今年の8月も逝く。
永遠の夏休みのゲート、「8月32日」を探して彷徨い続け、気が付けば還暦が近づく。
儚きぞ人生。

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/