新年度の妄言

日常
04 /04 2017
新年度が始まった。
東京の桜は3月21日に開花宣言されたが、一日になってやっと「満開宣言」。
ところが実際はまだ五分咲きにも未たず。標準木とのギャップが著しい。
気温が低い日が続いたため、桜の開花はなかなか進まず、先週今週の夜桜見物はまるで耐寒修行。
やっと4月2日、気温も上がってお花見日和。新宿御苑に出かけてみた。
正午前の新宿門は行列が凄い。
海外からの観光客が相変わらず多く、様々な言語が耳に入ってくる。
新宿御苑もまだ全体として4分咲き程度。でも木によっては満開に近い。今年は歪な開花状況だ。
その満開の桜の下にレジャーシートを敷く。
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近くには中国の大学生グループが大学の横断幕まで掲げて陣取っていた。テントまで張っていたが警備員に注意され渋々畳む。
昭和時代なら日本大学生の専売特許みたいなことを今は中国人大学生がやっている。
日本の青年グループというのは本当に目立たない存在となった。
彼らはどこへ行ったのか?
休日なのに今、何をしているのだろう?
最近は学費捻出にも苦労していると聞く。自分で稼がないと学費すら間々ならないとか耳にする。
だから休みはバイト三昧なのか?
中国人大学生が御苑の花見で宴に興じ、日本の大学生はコンビニでバイト?
少し前だったら立場は逆だった。
もはやどちらが「先進国」だか解らない。

テレビでは恒例、「入社式」の様子が流されている。
社会人一年生。
毎年、この時期になって呟くのだが、会社組織の「歯車」として順応する才覚がない自分にとって「サラリーマン」ほど縁遠い職種はない。
薄ら寒い背広に煩雑なネクタイ。靴底がツルツルの革靴を着せられ、人に頭を下げるだけの仕事のために満員電車に揉まれる日常は「拷問」にしか映らなかった。「安定した給与と将来保障」というスローガン以前に、人間として耐え難かった。
特に自分が新卒だった1980年代初頭はまだまだ「終身雇用」「専業主婦」の時代で、そこから外れると人間扱いすらされなかった時代。
進学、就職という通過儀礼の度に「自分」を捨て去ることを強要され、「経済一兵卒」として鉄砲玉にされるしかなかったのだ。
基本、今の日本も大きくは変わっていない。
リクルートスーツを着た新人サラリーマン1年生が「経済一兵卒」を理解し、滅私奉社、手柄は上司、ミスは自分が被り、いざとなったら給与も休日も返上という覚悟を背負い、その試練にどれだけ耐えられるかが勝負なのだ。
そんな覚悟を背負ったとして、かつての唯一の幸せ人生コースである結婚、出産、子育て、定年退職、安定した年金生活が待っているとは限らない。
更には労働環境の改善とか「プレミアムフライデー」で金曜半ドンとか「育休」なんて超一流企業だけの話。
9割方の新人1年生サラリーマンは苦行だけが待ち受けている。
とはいえ、他にまともな選択肢はないのだから耐えるしかない。
新卒採用を選択しなかった新卒者は、結局今でも日本社会において「人間扱い」されることはない。
「2等市民」として冷遇されるのが現状だから労働条件が過酷でも自分の性格に合わなくとも新卒採用に縋りつくしかないのだ。

結局、御苑の花見で垣間見た「日本の凋落」が、この社会人1年生界隈にも感じられてしまう。
宴に興じる中国人青年たちの未来は明るい。
一方、同じ頃、バイトで学費を稼ぐしかない日本人青年に希望の未来があるとはとても思えない。
今の彼らは桜が咲く前に散っているのと同様なのだろう。

BSで『新世紀エヴァンゲリオン』旧作劇場版「まごころを君に」を放映していたのをチラッとみる。ラスト部分の陰々滅滅とした独白が延々と続くシーンに己を投射した日々からもう20年が経ってしまったのだ。
絶望的世紀末に浸っていられた季節も終わってしまい、それでも世界は動いている。
どこへ逝くのか、誰も知らないまま。

1月末の妄想健忘録

日常
01 /31 2017
2017年も、すでに1月が終わろうとしている。

昨年は劇場版のアニメーション作品に秀作が多く、興行的にも成功して日本映画界は活況だったというニュースが流れた。
新海誠氏の『君の名は。』の記録的ヒットは、もはや社会的現象にまで昇華してしまい、新海作品の映像美的評価より「大衆に媚びた俗なヒット商品」として記憶に刻まれてしまうのは些か残念。
ツイッターでも呟いたが『君の名は。』ヒットに対する、思想的バイアスの掛かった「映画人」の極端な偏向コメントが香ばしい。
まだジブリアニメが黎明期だった頃も映画評論誌に同様のコメントを載せていた「映画人」が少なくなかった。
アニメを観るのは劣等人種みたいな書きぶり。
恐らくそういった類の「映画人」は「格下」のアニメが質、興行共に実写邦画の上を行くことに我慢ならないのだろう。

1970年代頃、日本映画は斜陽で、ATGのような低予算で作られる「貧乏、不幸自慢」のごとき、黴臭い作品が数多く輩出された。そんな頃に思想的バイアスのかかった「映画人」が幅を利かせ始めた。
それら「映画人」は一種の文化大革命的紅衛兵気取りで、日本映画を先鋭的閉鎖的自己完結の袋小路に追い込んでいった。
これらの「映画人」が推す作品の大半は、観賞後の後味が悪いものばかりで、それは当然興行的に成功するはずもなく、当時は「こんな暗い作品、人に見せたいと思うならば、料金を払ってもらうどころか、むしろ映画館前を行く人に監督が金を配って『どうか俺の不幸自慢話を観ろ』とでも勧誘したらどうか」とまで思ったほどである。
こんな状況であるから、邦画は質、興行共々長期間に渡って低迷し、その間隙を縫って、宮崎駿等のアニメ作品が勃興してきたのは当然の成り行きなのだろう。
にも拘らず、ここに至っても尚、化石のような紅衛兵気取りの「映画人」が幅を利かせ、アニメ作品興行成績好調の理由を「客が悪い」とまで罵っても自分の居場所があるというのは、ある意味、恵まれた世代なのだなと。
本家中国ではそんな人間は一掃されているというのに、日本映画界には尚、文化大革命を信じて疑わぬ者が生きていられる環境があるのには吃驚する。

現天皇陛下の退位について時々、ニュースが流れる。
仮に生前退位された後、次に即位するのは浩宮皇太子殿下。
浩宮皇太子は自分とまったく同じ世代であって、そんな世代が背負っている「抗えぬ頸木」について時折、思うことがある。
自分の世代における青春期の恋愛、結婚観というものは、一般青年において痛々しい事例が少なくなかった。
結婚がちょうど「お見合い」から「自由恋愛」に移行する端境期に当たり、己自身で異性を娶る能力を問われ始めた時代。
当時の青年に「恋愛能力」に長けた者などほんの僅かしかいなかった。
大半は、「どうしてよいかわからなかった」のである。
一方、当時の女子は結婚が「自由恋愛」に移行しつつあったにも拘わらず、あくまで経済的社会的には男子に100%依存する事には変わりなく、自分の嫁ぎ先もそれが唯一の「物差し」であった。
終身雇用、専業主婦が唯一の選択肢だった時代であるから、たとえ恋愛能力がなかったとしても、職場内での「実質的なお見合い」によって大半の者は救われていたが、その流れに乗れなかった男子は悲惨そのものだった。
最初の恋愛に敗れたら、人生自体が破綻するという危機感に煽られて、当時の青年は「純愛」なるスローガンを妄信して酷い目に合い、心を壊した者も多かったことは想像に難くない。
女子はただ待っているだけでよかったが、男子はその未熟な恋愛観で不毛な闘争に嵌り、自滅していった。
勝者は一人。女子はその勝者たる男子の下に嫁ぎ、専業主婦として一生添い遂げればよかった。
一方、負けた男子は惨めに退散するしかなく、一生結婚出来ない呪いに苛まれた。

浩宮殿下も、恐らくそんな「純愛」なるスローガンを妄信した一人なのかもしれないと思うことがある。
当時の一般庶民の恋愛、結婚観が皇太子という立場の人間に当てはまるかどうかは知らない。
しかし、少なくとも妻となる人に「全力でお守りする」と宣言した以上、その地位や立場の如何に拘わらずその「呪縛」から逃れることは出来ないのだ。
だから、浩宮殿下はある意味、妻の望むことは全て受け入れるしかない人生を選択した。
もし、万一、妻が皇后という重責を望まなかったならばどうだろう。
浩宮皇太子は自分の立場より、妻の希望を優先し、天皇即位を辞退しなければならない。
生前退位が一代のみならず、全ての皇位継承者に採択されたなら、浩宮皇太子は妻のために皇位を返上する可能性もゼロではなかろう。
いや、そんな法律が出来なかったとしても浩宮殿下は妻のために即位を放棄し、どこか知らない国へ夫婦共々逃げて行くかもしれない。
それが己の人生全てと信じきっているのだ。浩宮殿下は己が妻に捨てられてしまうのが心底恐ろしいのだろう。
だからこそ現天皇陛下はそれを心配し、目の黒いうちに生前退位し、浩宮の行く末を案じたのではなかろうか。
そんな気がしてならない。

記憶媒体で使っていたMOの在庫がそろそろ底をつく。
ある人から御好意で譲っていただいた中古MOも使い果たした。
MOはかつて日本ではメインの記憶媒体として普及し、将来にわたって生産され続けると信じていたのに何たることだろう。
そういえば国産の旅客機就航がまた随分と先伸ばしされたニュースを聞いた。
更に、大手電機企業が原子力関連で大きな損失を出して存亡の危機にあるとか。
日本のIT,航空、エネルギーという基幹的産業の先細り感は尋常ではない。
もう、何を作っても、国際的スタンダードにはなれない空気が漂う。
あるのは今後何十年も処理し続けなければならない原発事故の後始末だけ。
日本の原子力関連のプロジェクトは尽く失敗する。
古くは原子力船『むつ』の廃船に始まり、福島第一原発の壊滅的事故に高速増殖炉『もんじゅ』の廃止に至るまで枚挙に暇がない。
つまりこれは日本の最終防衛システム構築を阻害するため、何者かの策謀が介在しているのかも知れぬ。
核武装に繋がるあらゆる試みを破綻させる罠が。
そう考えないとどうにも不自然すぎる。


先日、久しぶりに銭湯に行った。
湯船の壁にテレビが設置され、ちょうど19時のニュースが流されていた。
20日に就任したアメリカ合衆国の新大統領が矢継ぎ早に新たな大統領令を出して混乱する様子が湯気の向こうに映る。
荒唐無稽に近い政策が「現実」化されるに従い、だんだんと世の中が窺い知れない滑稽な終末に向かって動き出しているような予感に囚われる。
テレビで、ある経済評論家がこんなことを行っていた。
「あの新大統領がドイツやEUには言及せず、メキシコ、中国、日本だけを不平等な貿易相手国として非難するのは、偏狭な白豪主義者の現れ」だと。
基本、恐らくそうなのだろう。
あの大統領はもしかすると些細な事で日本に向けて核ミサイルを発射するつもりかもしれない。
1980年代的時代錯誤な日米の貿易不均衡を持ち出すのは、言い掛かりを見つけ、イエローモンキーをやっつける口実が欲しかっただけかもしれぬ。
「アメリカ第一主義」のためなら現実はどうでもよい。
中国も憎いが、あの国は核武装国。おいそれと核ミサイルをぶちこむと報復される恐れがある。
一方、メキシコは隣の発展途上国。塀を築くだけでどうにでもなる。
でも日本はかつてアメリカに殴りこみをかけてきた国。
「リメンバーパールハーバー」である。放置するのは危険だ。幸い日本は核武装していないから報復される恐れもない。
そこで、言い掛かりをつけて日本に核ミサイルをぶち込むと。
日本が消えればアメリカから日本車も消える。
「アメリカ第一主義」はこれで一つ果たせる。目に見える成果としては大きい。
実に単純だが、それを体言化するのが新大統領のやりかただ。
日本人が何千万人死のうとも知ったことではない。カーチス・ルメイと同じ。
実際、そこまで至らなくとも、安全保障のパートナーは降りるだろうことは想像に難くない。
更に日本が独立して核武装化するのを阻止するため、六ヶ所村の再処理施設の占領や空爆も辞さないだろう。
米軍が撤退し、核も奪われれば、今度は中国が日本を核攻撃し、この地上から抹殺しようと画策するだろう。

日本は今でもアメリカの妾として生きる選択肢しか持っていない。
だがアメリカの新大統領はもうそんな妾を囲う気はなく、さっさと捨てたいのだ。
にも拘らず、日本の世襲宰相は祖父の代から対米追従という家訓以外に選択肢を持つ術がない。
捨てられると解っていてもアメリカの袖にしがみついて「私を捨てないと言っておくんなまし!」と哀願するしかないのだ。
結局、日本はアメリカに捨てられた挙句、対岸で手薬煉引いて待っていた中国に嬲り殺しにされる運命だ。

世界は遅かれ早かれ弱肉強食の嵐に揉まれる。
もはや誰も自分の国のことしか考えない時代となった。
生き残るためには己を脅かす相手にはありったけの核兵器を使用して闘争するだろう。
数年後、この地球に文明が残っているとすれば、アメリカ、ロシア、中国、インド、イスラエル、イギリス、フランス位のものだ。
地表は暫く核汚染で荒廃するが、核シェルターに潜み、何とか国として生き残るだろう。
さすがに核武装国には核兵器は使わぬ。共倒れになることくらいはまだ知恵が廻る。
しかし、核を持たぬ国は完膚なきまでに滅ぼされて、生き残っている者も石器時代並みの生活を強いられる。
少し前だったら、こんな未来は荒唐無稽だったろう。
しかし、2017年、実際に荒唐無稽な政策を実践する大統領が現実に現れたのだ。
だからこんな世界もきっと来る。
そして日本はこうして滅びる。

近いうちに、いまの生活が夢のようだったと嘆く日が来るだろう。
核で焼かれた街を徘徊し、ぼろぼろになった身で死んでいくのだ。
「ああ、コンビニの灯りが懐かしい」と呟きながら。

いつ、頭上に核の閃光が輝くのか、そればかりを心配する日々が来たのである。
湯船の湯気が核爆発の蒸気に見えたのは決して幻覚ではない。


先日、コンビニで立ち読みした週刊誌にミニマリストの事が載っていた。
モノをもたない生活。「ごみ屋敷」の対極にある何もない部屋に住む人。
以前にもブログか何かに記したが、一見何もかも捨てているように思えるが、実際はweb上に「モノ」を変換しただけ。
依存対象が3次元物質から質量ゼロのドットとダッシュに移っただけで本質は変わらない。
むしろ依存する情報量は増えているのかもしれない。
であればまだ「ごみ屋敷」住人のほうが誤魔化しがない分、信用できる。
真のミニマリストを目指すなら、携帯もスマホも捨て、webの依存からも断絶しないとだめだろう。
これからはweb依存からの解放こそが求められる時代が来る。
だからむしろweb依存のミニマリストは欺瞞にしか映らない。
真のミニマリストは、自分の本籍も捨て、名も捨て、そして肉体も捨てて存在そのものをこの世から消し去らなければならない。

JR東日本がこの時期恒例、スタンプラリーを開催していたので参加。
週末の山手線や中央線を廻る。
ふと、妙なことに気が付く。
一駅ごとスタンプを押すために電車を乗り降りするのだが、その電車全てが満員なのだ。
座れることは稀で、とにかく混んでいる。
どの電車、どの電車、10両編成すべての車両が満員だ。学校、職場が基本的に休みなのにこれだけの人が、どの電車にいっぱいに乗っている事実。
急に恐ろしくなった。
どこからこんなに人間が沸いて出てくるのか?
大凡、50回近く乗り降りしたその電車全てが満員で人間だらけ。
もしこの人間だらけの東京に核爆弾が落ちたら、その分の屍が転がるということだ。電車の中に限ってもだ。
それを悟ったとき、恐ろしさで失禁しそうになって、一目散に電車から飛び降りる。
空想上の「かめはめ波」は中国の核ミサイルには何の役にも立たぬ事実。

以上、1月末の健忘録終り。



1月の徒然

日常
01 /18 2017
2017年も明け、気が付けば1月中旬。今年も24分の1が過ぎてしまった。

最近、確定申告用に「マイナンバー」の情報が必要ということで電子書籍会社等から本人確認のための書類提出を求められることが多くなった。
運転免許証など持って居ない身からすると煩雑で面倒。健康保険証と年金手帖等のコピーが必須。
どこかにあったはずの年金手帳が見当たらない。
結局、区役所に行って再発行の手続きをする。
マイナンバー制度とかよく解らぬまま、どんどん個人情報をwebの海に投げ込んでいく感じ。
結局、人が扱う以上、遅かれ早かれどこかに漏れていく。

先日、新宿の大手画材屋に立ち寄る。
様々な画材、文具を見て廻って気が付くことがあった。
ヤマト糊とか、セロハンテープとかホッチキスとか、自分が小学生だった半世紀前から存在した文具は本当に息が長い。少なくとも昭和期に生まれたアナログ文具は今後とも廃れることはなかろう。
一方で、デジタルに掛かるサプライ商品はあっという間に消えていく。
フロッピーディスク、ジップ、MO、MD、DAT、ガラケー等々のサードパーティーアクセサリーはもはや影も形もない。あっても風前の灯。
数年で店の棚から消えていく。
現実空間で確固に存在するアナログ媒体は、質量のないゼロと1で構成し直された途端に、この世から消える運命に曝されてしまう。
デジタル情報は人の死んだ後に肉体から浮遊した魂のようなもの。
ネット空間に漂う亡霊だ。
躯体から離脱したおぼろげなドットとダッシュのデジタル信号は、「死」そのもの。
デジタル化とはすべてを虚無に還すための「情報の葬式」に過ぎない。

昨今、プライベートでも仕事でも連絡に「LINE」を使ってくださいと促されることが多い。
ガラケー2台で月3000円以内で収まっている身としては、今更スマホなんて導入したくない。大手キャリアだと、安く見積もっても月6500円位かかる。
耐え難い負担だ。
ただ、最近台頭してきた「格安スマホ」だと電話なしのSNSに特化して動画も見ないならば、月800円位で運用できる。
やむを得ず導入を検討しているが、根が天邪鬼なため日常光景に溶け込む「スマホをいじくるその他大勢」に飲まれたくはない。
だからショルダーフォン型のスマホとか軍用無線機型のスマホがあればそれを選択する。
アイフォーン型はお断り。

先日、地上波テレビで『風の谷のナウシカ』を放映していた。
もう、何十回放映されたかは知らない。
今回は久しぶりに観てみた。
吃驚した。
33年前に作られたとは思えないほど造りがちゃんとしている。
『風立ちぬ』のネガティブ印象に覆われて、ここ暫く宮崎アニメのことを思い起こす事がなかったのだが、もうまったく「宮崎駿侮りがたし」である。
それはそうだ。自分が完全に打ちのめされた『未来少年コナン』や『太陽の王子ホルスの大冒険』という系譜の延長上に『ナウシカ』があるのだから当然血沸き肉踊る。
『ナウシカ』は『カリオストロ』に続く宮崎駿監督長編第2作目だと記憶するが、油の乗り切った小気味よい演出と当時憧れた「闘う少女」のかっこよさは今観ても、まったく色褪せてはいない。
1984年度作品と思えぬほど作画の質も遜色がないのには驚く。
CGも結局は人間が作っているのだから根本はセル画時代と変わっていない。むしろCGで処理しなければ難しいシーンを当時、すべて手描きでこなしていた事に意味があったのだ。
手元には1984年当時買ったサウンドトラックと劇中音声のみのアナログレコードがらダビングしたアナログカセットテープがある。
今でも普通に再生できるし、音もよい。カセットケースの中には劇場前売り券を挟み込んで保存。
当時はDVDなどなく、音だけで映像を頭の中で反芻するしかなかったが、またそれが想像力を喚起し妄想を膨らましてくれる。
アナログカセットテープは偉大である。
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デジタル化とWebは「終りの始まり」。
もう何度となくブログで呟いているが、数多のものがwebの海に飲み込まれた瞬間、世界は終わるのだ。
腐海に埋まる文明社会のように。

いつしかwebの海は有象無象の蛭の巣食う肥溜めと化しているような気さえする。
迂闊に飛び込めば汚物の中で血を吸われながら窒息死する。
まだ匿名掲示板が「トイレの落書き」と称された頃すら懐かしい。
一瞬たりともSNSに足跡を残さず・・というのがこれからの賢者の掟となろう。
だが人々はアヘン中毒患者のようにネットなしには生きられぬ廃人と化してしまったのだ。
ユパは呟く。
「またひとり人がwebの海に沈んだ」

願わくば「風の谷」のようにwebの瘴気に脅かされない土地に住みたいものだ。

45年後のバーベキュー

日常
07 /21 2016
気が付くと世間は夏休み。
小学生だった頃の7月21日というのは様々な意味で「夏への扉」だった。
庭でバーベキューをしながら、プロ野球のオールスター戦を観るというのもあの頃の家族イベントだった。
1969年当時の絵日記なんかを読み返すと、実家の庭で飯盒炊爨までやっていた。
杉並区のど真ん中で、当時は庭で焚き木したところで誰からも文句も言われず、長閑に過ごせたのだ。

先日、その夏休み恒例だったバーベキューを45年振り位に復活させてみた。
そこではたと気が付いた。
明らかに足りないものがある。
そう、このバーベキューの場に子供の歓声がないのだ。
当時、小学4年生だった「自分」が存在していないのだ。
代わりに居るのが、当時の父親よりも年取った独身の己の姿。
妻も子もいない45年後のバーベキュー。

先日、かつて阿佐ヶ谷某バーでお馴染みだった「謎のバイオリニスト」のライブを10年ぶりに観る。
本人の演奏後、5歳の息子さんがステージに立って親子揃って音楽を奏ではじめた。
親の「才能」は確実に、その息子に継承されていた。
5月に大学OBの宴に参加した時、衝撃を受けた「抗えぬ血統」をここでも思い知らされた。

人の命は限りがある。
人はやがて年取り、死ぬ。
この宿命には抗えない。
しかし子息を残すことによって己自身の分身を新鮮なる生命の中に宿らせ、未来に継承させることが出来る。
これこそが人として、唯一の希望なのだ。

昨今、戦後昭和を代表するテレビの主役だった有名人が次々に鬼籍に入るニュースを耳にする。
子供の頃、当たり前にテレビの中で傍若無人に振舞っていた兆児たちが老い、死んでいく。
これは自然の摂理であって、何らおかしなことではない。
しかし、この超少子高齢化、人口減少の中で、その失った「戦後昭和のエネルギー」を継承する「次世代のエネルギー」がどこにも存在しないことに愕然とするのである。
ただ、失われるだけで、新たに生まれるものがない国、日本。

「子供を作る作らないは本人の自由」とかメディアは流布する。
そして「女性は母親を目指すべき」と促す者が現れると、途端に非難の嵐が吹き荒れる。

騙されてはいけない。

人は年老い、様々な大切なものを失っていく。
その時になって、人は知るのだ。
己の遺伝子を残さねば死んでも死に切れぬと。
子息を残せる身体がある限り、母親、父親を目指すのは当然の生きる摂理だ。
にも拘らず、それを最初から放棄するような事を流布するメディアは害悪でしかない。

メディアに騙され、子供を作らなかったことを一生後悔する者が、これからたくさん出てこよう。
子供を設け、父親、母親になった「幸福者」は決して声を上げない。
なぜなら、そんなことをしなくても幸せだからだ。
不心得者だけが己の「不幸」を覆い隠すべく、事煩くメディアで喚き散らす。
そんな不毛な声に惑わされてはいけない。

45年後の夏休みのバーベキューの場に「美しい妻、可愛い息子、娘」が居ない「不幸」に気が付いたところでもはや手遅れだ。
大切な形あるものは、いずれ失われてしまう。
だから新しいモノを己の手で作り上げていかねばならぬ。
そんな当たり前なことを、いつしか日本人は忘れてしまったのだ。

TVで「ハッパフミフミ」のCMが流れていた頃の家族団らんは、もう戻っては来ない。

気づいた時には、いつも、遅すぎるのである。






余命僅かな蝉のごとき選挙戦と異国語の日本人

日常
06 /30 2016
6月も末、梅雨真っ盛りだ。
どこからか選挙カーの音がする。しかしかつて昭和時の選挙からすれば随分と静かだ。
なんだか余命僅かな蝉のようである。

五月雨的に読み続けている『夢声戦争日記』も1945年8月~9月に至った。
無条件降伏受け入れの日に、ラジオは「忠臣蔵」を流していたそうだ。
そのことに著者は、「武士道を謳ったところで、所詮近代兵器には勝てぬ」と自嘲気味に言い放つ。
当時の知識人はラジオのプロパガンダや戦況を信用せず、かなり客観的に現実を見据えていた。
原爆についても、そんな新型爆弾を独占している国に抗することは不可能と敗因が原爆であることを認める一方で、アメリカは自由の国だから、やがてギャング団の手に渡って 少数の集団が優に一国の政府に対抗出来るようになろうと予言する。
そして両方で核(著者は「ピカリ」と呼称していた)を使って両方なくなるという「大喜劇」が見れるかもしれないとも記す。
これもなかなか先見の明がある記述だ。
また、マッカーサーが来る日、東京はいたって平穏。上空に乱舞するB29を見上げて娘たちが敵愾心どころかウキウキと眺めている様を見て、彼女達はB29を透して戦勝国アメリカの男たちに憧れているのだと諭す。
そして、これが女性の持って生まれた生物本来の在り方で仕方なしと嘆く。
更に終戦直後、電車の中で見る日本人の情けない顔を「チンパンジー」「虫」「鯔」と形容し、どう見ても戦争に勝つ国の顔じゃないと自嘲気味に突き放す。
同じ人間でも戦争に勝つ負けるではこんなにも違うのかと。
戦争中、「神国日本」は優秀な民族で「鬼畜米英」などに敗れる筈がないと誇っていたのに、敗戦が決まると180度意識が変わる。
終戦の玉音放送に涙する一方で、最初から勝てそうもない戦争に引きずり込んだ当時の日本の指導者に対する不信感と軽蔑が「敗戦の傷心」よりも勝るというのは興味深い。
また、敗戦後、杉並区(夢声が住んでいた所)には重慶軍が進駐してくるという噂が流れると著者は、「日本とシナは兄弟と言われるが肉親に財産を横領されるぐらいなら、他人相手のほうがまだマシ」と近親憎悪を滾らせる。
一方、敗戦直前でも焼け残った都内の演芸場には若い男子(徴兵されない工場に動員されていた者)が溢れていたという。
こんな時でも皆娯楽を渇望していたのだ。
表面上、国民すべて「1億総玉砕」の覚悟はあったのかもしれぬが、一方で俗人として娯楽に餓えていたことも事実だ。
そしてそれは両方嘘ではない。
それが人間というものだ。
70余年前の敗戦直後の小市民が抱く意識など今の日本人は殆ど皆忘れている。
が、この日記を読むと様々な「当時の現実」が読み取れる。
来るべき戦争の後、もし日本が再び敗戦国になった場合、この状況が繰り返されるのだろうか。

最近、街を歩くと妙なことに気が付く。
普通に近所の住民と変わらぬ格好のランドセルを背負った小学生、買い物籠を下げた主婦、家族連れから中国語が漏れ聞こえるのだ。
これまで中国人といえば、コンビニ店員等の出稼ぎ労働者、そして最近は「爆買い」の観光客に限られていたが、最近は近所の庶民の中にも「日本人に同化」した中国系の人が急激に増えていることに気が付かされる。
いったいいつからこんな状況になっているのだろう?
急に中国人が大量移住して日本国籍を取得したとは思えない。
もしかすると従来から居た中国系の人が、これまで日本語で話していたのを止めて、一斉に母国語を使い始めたのかもしれない。
そんなことはありそうもないが、他に理由が見つからない。
なぜなら完全に日本文化に溶け込んでいるからだ。違和感がないのだ。『サザエさん』に普通に出てくるような人たち。
単に喋っている言語が中国語なだけ。
こんなことが一朝一夕に成せる訳がない。
実に奇妙だ。
このままいつしか日本語のほうが少数派になる予感さえする。この急激な変化はいったい何なのだろう?
ただ、それが怖いとか不快という訳ではない。
中国人街のような排他的なものとは違い、ごく普通の住宅地で実によく日本の風景に溶け込み、服装、身嗜みも日本人として何ら違和感がないのにも拘わらず、言葉だけが中国語ということにSFミステリー的不可思議を抱くのだ。
時空間の歪みに落ち込んで、中国語が標準の日本に墜ちてきた感じなのだ。
恐らく、この人たちは中国共産党が支配する中国人としての誇り、習慣、文化にこだわるより、より快適で豊かで自由で安全な場を求めていたのかもしれない。それが隣国日本だったのであり、日本文化に同化することでそれが達成されるのだ。
深い意味はない。
こちらのほうが「幸せ」だからだ。

街は国政選挙たけなわ。
久しく既成政党に何ら期待していないので、どの候補者もただの「政治屋」にしか見えず、彼らの既得権益獲得競争に関わりたいとも思わぬ。
だが、少しだけ気になる候補者はいる。
「表現の自由」を守ることを主に訴えて立候補している現議員の人。
漫画や同人誌に拘わる者なら支持して然るべき候補者といわれる。
だが、なかなか当選ラインは厳しいという。
議員本人の方に関してあまり詳細な知識がないので具体的なことはよく知らない。
選挙中でもあるので支持不支持を明確にするのも控える。
この議員に一票を投ずることに関してネット上には様々な意見が散見されるようだ。
妙なバイアスがかかった主張とかもある。「オタク」の起源にまで遡っての呟きも見受けられた。
あまり詳細に読み込んでいる訳ではないのだが大凡こういうことらしい。
「オタク」を代表とする同人誌文化なるものは元々学生運動やミニコミ誌などのリベラルな活動が源泉であって、本来「レフト」に位置する存在だったという。
それが1980年代、いわいる幼女連続誘拐殺人事件報道を発端としたマスコミ総掛かりの「オタクバッシング」によって一転する。
本来、自分達の味方であるはずのリベラル「マスコミ」が事もあろうに自分達を攻撃、弾圧したことによって「オタク」のマスコミに対する不信感と怨念が爆発。
以後、彼らはマスコミを「敵」とみなし、「レフト」から「ライト」へと一気に宗旨替えしたのだと。
それが、今日における「ネット右翼」や「レイシスト」に繋がっていると。
本来、表現の自由とは「レフト」の専売特許であるのに拘わらず、表現自由を標榜する「オタク」が「ライト」に与するのは矛盾すると。
だから「レフト」を敵対視する「オタク」は愚かしいと。
その流れの中で元来の「レフト」とは微妙に違う今回の「表現の自由を守る」公約をメインとして立候補した現議員に票を投じても無意味で表現の自由を求めるならば元祖「レフト」の候補者に入れなければ意味がないが、それを望まない「ライト」オタクは愚かだみたいな趣旨だったと思う。
マスコミのオタクバッシングによって「オタク」が「レフト」から「ライト」に宗旨替えした所までの洞察はかなり説得力があると思われる。
だがその先の「オタク」が「ネット右翼」で「レイシスト」に繋がっているという発想が何とも単純すぎる。

そもそも、「ネット右翼」も「レイシスト」も、そんなものがひとつのリアル社会における強固な組織だった存在と感じたことは一度もない。
これらはすべて午後の沼上に現れる蚊柱のようなもの。
実体などないのだ。
幻のようにネット上に現れては立ち消える蜃気楼のようなもの。
リアル社会でそれを実践しているのは取るに足らない僅かの人間だけ。
「ネット右翼」と称されるその99パーセントはリアル社会では「品行方正」な善良市民である。
そんな無思想、無宗教な人々がネットに向かい合った時だけ匿名で排他的な文言を吐くのである。
一貫した思想がある訳でもなく、普段は親切で善良な者が鬱積した不満をネットで匿名吐露するときだけ「排外」を叫ぶのだ。
それらはむしろ「オタク」とは程遠い「リア充」ほど著しい。
ネット上で芸能人に誹謗中傷の書き込みを繰り返す者を捕まえてみたら平凡な主婦だとか大学教授だったとか聞いたことがある。
要するにそういうことだ。
「ネット右翼」なるものは、都合のよい敵を作り出したい者の幻影に過ぎない。
もしかするとリアル社会では「レフト」活動に勤しんでいる者が、ネット上では匿名で真逆の「ライト」主張を展開しているかもしれない。
蚊柱は巨大だが掴もうとしても手元から逃げていく。
なぜならそんな強固な「柱」は存在しないからだ。それらは無数の微小で無害な「虫」でしかない。
英国のEU離脱国民投票も似たようなもので、離脱派がすべて「国粋主義者」とか「レイシスト」の訳がない。
善良な普通の人間が決めたことなのだ。

もはや、考え方の対立軸を「ライト」「レフト」で思考する事自体が滑稽に思える。
また「オタク」と「一般人」の線引きも意味を成さない。
先日、有名百貨店のお中元の広告に萌絵が使われているのを目撃した。
お中元といえば非常に守旧的な行事で「リア充」の最たる催し。
その宣伝に萌絵が採用されるに至っては、もはや「オタク」と「一般」の線引きは困難だ。
一般企業の広告で萌絵が使われる例は今や枚挙に暇がない。
にも拘らず、未だに物事を「レフト」と「ライト」、「オタク」と「一般」で区分けして語るのは時代錯誤というものだ。

今、「表現規制反対」を掲げる唯一の候補者を支持せよという流れは、このような古臭いステロタイプの思考から一線を画している。
つまり、同人誌を中心とした成人向けを含む表現活動がひとつの「業界団体」にまで成長し、その既得権を守るために国会議員が必要だということに尽きるのだろう。
要するに業界利益保護に影響力を持ったりする、いわいる「族議員」養成なのである。
そういう方向性が表現活動を生業とする者にとって正しいかどうかは知らないし、そのような「族議員」を当選させるだけの力と数が自分達にあるかどうかも判らない。
またこの議員が本当に自分達のために未来永劫、尽力してくれるかも保障できない。
議員にとっては「票」にならなければ意味がないのだからね。
だが生き残るための手法として「族議員」を後押しすることが誤っていると誰が決められようか?
法治国家である以上、すべては法律に支配される。そして国権の最高機関は国会である以上、己の権益を守ってくれる国会議員を送り出すしか手段はないだろう。
此処に至って旧態依然な思考回路で「ライト」「レフト」「オタク」を語っても無意味なだけだ。

すでに各世論調査では国政選挙の趨勢は決まっているようで、与党第一党とその連立党、そして野党の「レフト」最先鋒の党が躍進するとか。
いずれも半世紀以上前の価値観で構築された組織票による政党ばかり。
そんな二者択一で日本の将来を託せなんて、冗談にも程がある。
守旧既得権に固執するだけの世襲与党と古の思想信条で固まっているだけの党と、議席確保のために離合集散するだけで理念の欠片もないその他雑兵政党にこれからの茫漠たる未来を任せられるとはとても思えない。
与党は信用に足るに怪しくなったアメリカの安全保障政策に盲目的に乗っかるだけ。一方野党はそれを「戦争法」だとか「人殺し予算」とかで非難するだけ。
「両極端の馬鹿」しかいないのか?
与野党候補者すべて60年位前から思考停止した価値観で安全保障を論じるしか能がない愚者ばかり。これならまだ北朝鮮の瀬戸際外交のほうが賢いと思えるほど。
己の英知と戦力でこの風雲急を告げるアジアパワーバランスを乗り切ろうと訴える候補者はどこにもいない。
居たとしても泡沫候補だ。
もはや選挙制度自体が、半世紀以上前の価値観でしか当選出来ない仕掛けになっている訳で、救いもない。
やがて行き詰って、破れかぶれの「勝てない」戦争に走り、再び『徳川夢声戦争日記』に記されたような、醜い負け戦の惨めな日本人になってしまう可能性も高い。
いや、もう戦争はとっくの昔に始まっていて、すでに勝敗は決まっているのかも。

中国語を話しはじめた「日本人」の存在こそが、この国の未来を暗示しているのかもしれない。



あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/