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『戦略空軍命令』という映画

映像鑑賞
01 /30 2019
先日、『戦略空軍命令』という映画のDVDを購入。
1955年公開のアメリカ映画。
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主演はジェームズ・ステュアートとジューン・アリスン。
当時のアメリカ戦略空軍を舞台に、再召集されたパイロット士官とその夫婦を描いた作品。
巨大爆撃機B-36や最初の本格的ジェット爆撃機B-47が余すところなくふんだんに登場し、資料的価値も高い。
航空ファンの間では知る人ぞ知る映画。
昔、東京12チャンネルか何かで放映されたのを観て以来、記憶に刻まれている稀有な映画だ。
実はこの『戦略空軍命令』は久しくDVD化されておらず、全編をじっくり鑑賞する機会がなかったのだが、やっと昨年あたりにパッケージ販売された。
一般洋画のDVDなどめったに買わぬのだが、これは特別だ。ネビル・シュート原作の『渚にて』以来、2枚目だ。
『渚にて』も1950年代作品。
和洋問わず、この時代の映画は今、一番熟成しきって芳醇な香りに満ちている。
未だ理由が解らぬが、この当時の映画は恐ろしく発色がよい。フィルムが特別なのだろうか。とにかく美しい。
当時のカラーと比べると、現在の映画はまるで色褪せたイメージ。
誰もそのことに言及していないようで実に不思議だ。
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それはさておき、『戦略空軍命令』。
改めて全編見終わって、様々な意味で素晴らしい。
(以下、本編内容物語結末描写あり注意)
いうまでもなくB-36とB-47の描写は格別だ。戦略空軍の全面協力の下、機内の細かな描写や優雅なBGMに合わてコントレイルを吐きながら成層圏を行く空撮は琴線に触れまくりだ。
それも全て実機の実写。
CGでは絶対表現出来ない、その時代の空気感まで伝わってくる。
1955年の匂いがするのだ。
米ソ冷戦下、大気圏内核実験華やかなりし時代、その優雅で美しい爆撃機の姿と相反する、第3次世界大戦の危機感こそが1950年代の魅力なのだ。
『戦略空軍命令』はそれを象徴的に描いている。
第2次世界大戦が終わってまだ10年。
主人公は戦争中、B29の搭乗員だったという設定。
復員してプロ野球選手として活躍していたが、人員不足に悩む戦略空軍からスカウトの誘いが。
主人公の上官は諭す。
戦略空軍は世界の平和を維持するために崇高な任務を担っていると。
核報復能力こそが平和を齎すのだと。JAPを焼き殺したように、再び敵をやっつける覚悟に目覚めるのがアメリカ人の義務だと。
主人公はその「崇高な任務」のためにプロ野球スタープレーヤーの座を降りて空軍の再召集に応じていく。
核兵器の運用こそが平和の実践だということを信じて疑わない1950年代の大らかさが絶妙だ。
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また、主人公と新婚まもない妻との関係も感慨深い。
再召集された夫に健気についていく専業主婦の妻。
夫の任務に不安を抱くもそれに耐える「女の強さ」が1950年代にはある。
当時はベビーブーム。妻が妊娠して出産するも、すぐに病院から追い出されるシーンもよろしい。
なぜなら後から後から出産予定の妊婦が入院してくるからだ。
主人公はいう。「戦略空軍では一ヶ月に1500人もの赤ちゃんが生まれるんだ」。
そんな描写も生き生きとした1950年代の活力を感じさせる(ちなみにこの時生まれた赤ちゃんは、2019年現在64歳。いわゆる団塊の世代)。
夫婦の食卓に並ぶ、ティーカップや角砂糖・・これらも1950年代、自分が子供だった頃に慣れ親しんだデザインだ。
当時の邦画でバヤリスオレンジが並んでいるのと同じ郷愁だ。
また基地内の将校宿舎もよい。
在日米軍のキャンプ廃墟には、当時の似たような宿舎が残っている。
まるでタイムカプセル。『戦略空軍命令』は映像まるごと、その「タイムカプセル」なのだ。
特選物のワインなのだ。
また映画の後半、太平洋を超えてB-47を渡洋運行するシーンでは横田や嘉手納も舞台の一部になっている。
ジェットストリームの向かい風で到着予定が遅れるエピソードも興味深い。
当時は日米講和条約からまだ4年しか経っていない。朝鮮戦争も終わったばかり。
日本の空はまだ我が物顔に米軍機が飛んでいた頃。
日本人に対する配慮などまったくなかった雰囲気も清々しい。
ちなみに2019年現在も「横田空域」は存在していて1955年当時と基本的に変わっていない現実も香ばしい。

映画の終盤、結局、主人公は右腕に怪我をして除隊。
野球選手に復帰することも出来なくなる。
しかし、妻の内助の功で、なんとかなるんじゃないかという雰囲気を匂わせて、物語は終了。
この映画のラストで上官はいう。
「戦略空軍は君達のような非常勤や民兵でなんとか維持されているのだ」と。
最後は主人公が育成したB-47部隊が編隊飛行してEND.
エンドロールもなし。
基本的にこの映画は戦略空軍のプロパカンダであるので、オチは身も蓋もないのだが、その単純かつ、ひねりもない描き方がまた清々しく、素晴らしい。

最初、テレビで観たときは爆撃機の描写ばかりに見惚れたが、今観ると1950年代の夫婦愛が、日本の高度成長期のそれと類似して「古き良き日東紅茶」の時代を思い出す。
いずれにしろ『戦略空軍命令』は核兵器万能と専業主婦が絶対だった時代を反芻出来る貴重な作品であることは間違ない。

展覧会三景~エドワルド・ムンク、吉村芳生、ヒグチヨウコ~

映像鑑賞
01 /22 2019
年末から年始にかけて展覧会を三つ。

東京都美術館『ムンク展』
20日で閉幕した東京都美術館『ムンク展』は、このブログでも何回か話題にした。
20代の頃より『ムンク展』が開かれる度に足繁く通ったものだ。
自分の部屋の本棚には、そのいくつかのムンク展フライヤーが貼ってある。
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日に焼けて色褪せてはいるが、それがまたムンクらしい。
最初の展覧会は1981年であったか。東京都近代美術館で開催されていた。
まだ学生時代、確かゼミの卒論も「ムンク」を題材にした記憶がある。
自分は『叫び』よりも『病める子』シリーズに惹かれていた。
だが最近は恐ろしくてダメになった。
死や病を観念的に戯れの対象と出来た頃は幸いである。
現実にその「闇」がひたひたと押し寄せてくると、絵画鑑賞どころではなくなるのだ。
フィヨルドに映る舌のような夕日にメランコリーを感じる若き頃は遠く過ぎて、老い朽ちる気配が聞こえてくると、もうどうしようもない。
ムンクは医者の家系に生まれたから、若き頃の苦悩を生きる糧にも出来たし、名声も得られた。
だから生涯独身であっても、晩年は過不足ない生活環境であったろう。
だが、老いて名声もなく、お金も地位もない独身男性は惨めだ。
若い頃の観念的な絶望が「現実」として襲い掛かるのだ。
真っ赤な蔓草。真っ赤に染まる夕日。
己を貫く絶望の叫びは青春の特権だ。
老いての絶望は声すら出せず、ただひたすらに孤独の闇の中で次第に衰えゆく心身に絶えるしかないのだ。
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今回の展覧会は盛況と見えて、入場30分待ち。
ロビーにあった動画風に動くムンク画が陳腐。
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動かしたいなら本物の独身絶望男性を真っ赤にペインティングして徘徊させればよいものを、小手先のごまかしではムンクの苦悩は表現出来ぬぞ。
やはり年老いて感性も鈍ったか、若い頃のように齧り付きで鑑賞するような情念はなくなってしまったが、キャンバスにぶつける様な描き方は忘れてはならない。
ただ形を追うだけの作画は無意味だ。
心の滾りを表現しなければならぬのだ。
それが出来るのは若い頃だけ。
今やってもただの老醜か、挙動不審の変質者。だがそれでも描くというのが絵描きの生業。
警官の職務質問に素直に従ってはならぬ。
狂気で対応してこそ表現者の最低条件だ。

会場中盤に掲げられた『叫び』『絶望』『不安』三部作。
立ち止まって観れないが、少し後ろに引けば全体像が解る。
『叫び』はムンク自身ではない。観る者が心に内在する恐怖の映し鏡。
核爆発にも似た真っ赤な空はサードインパクト。
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後半は、精神の嵐から抜けて穏やかな老年期の作品。
この辺りはあまり観るべきものはない。
人は年老い、落ち着かなければ心身が持たないからこれでいいのだ。
生涯独身のムンクではあったが、身の回りの世話人もいたろうし、国も文化功労者として手厚く保護したことは想像に難くない。
全ては地位と名誉とお金である。

そしてミュージアムショップ。
今回のムンク展でもいくつかのグッズを購入。
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1980年代は複製原画にポストカード、ポスター位しかなかったのに、今やアイドルグッズ並みのアイテムがこれでもかこれでもかと並ぶ。
お茶やジャムはまだしも、スナック菓子キャラクターにポケモンである。
ピカチューが「叫び」の真似をしているなど、不謹慎甚だしいと怒る者など誰も居らず、鑑賞者は我も我もグッズに飛びつく。
フィギュアやピンズのガチャガチャまである。
ムンクの苦悩は今や美術館の肥やしになってしまったのだ。
展覧会場を出ると、上野の森は冬晴れの快晴。
照り返しが眩しく、目も開けられぬ。
北欧フィヨルドの白夜とは対照的な空っ風の中を背を丸め上野駅に向かう。
パンダ以外にこれといって売りがない上野界隈の情景もまた、ムンクの描く絶望とは別のディストピアだ。

『吉村芳生 超絶技巧を超えて』。
年始になってからも二つのミュージアムに。
一つは東京駅にある東京ステーションギャラリーで開催されていた『吉村芳生 超絶技巧を超えて』。
一言でいえば、「人間テレタイプ」。
新聞や写真を細かな升目を通して鉛筆で濃淡10段階位のトーンでトレスしていく。
すると写真そっくりの「絵」が完成する。
現代芸術というものは、大抵誰かしら似たようなアプローチで表現するもの。
この作家のやっていることも、そんなに珍しい手法ではないが、その膨大なスケールと徹底した執着心が圧倒的に違う。
自画像や新聞紙を365日、ひたすらトレスするという「業」にも似た創作活動が継続できた環境にも秘密があろう。
その作品自体は平凡でも、その「工程」に意味がある。
元になった1970年代の写真や新聞も興味深い。
不思議に思うのはこれだけ膨大な作業だから一年中引きこもっていると思ったら、外国にも旅行するし、結婚して息子も設けたらしい。
作品よりもそのあたりのパラドックスが恐ろしい。
ちなみにこの美術館はレンガつくりの東京駅の中に設けられていて建物自体が重要文化財並みの価値がある。
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「ヒグチユウコ展 CIRCUS」
次のミュージアムは芦花公園最寄の世田谷文学館で開催されている「ヒグチユウコ展 CIRCUS」だ。
こちらも吉村芳生に負けず劣らず超絶技巧の頭のおかしい女子作品。
こういった偏執狂的イラストを描く人間は、どこかイカレている場合が多い。
しかし、それがアートに向くと「偉大なる芸術家」となる。
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ディズニーシーで売ってるジェラトーニの目玉を腐らせたようなキャラクターがアノマロカリスを抱いていたり、猫の顔なのに手が蛇で足が蛸という化け物を描いたりとキチガイレベルが高い。
そんなイラストがこれでもかこれでもかと展示されていて、それをおしゃれ女子が食い入るように鑑賞するという構図。
ここにもポケモンコラボのイラストが展示されていてムンクとヒグチヨウコの結節点を見た。
恐ろしい。
ヒグチヨウコの作品は絵本としても人気があるようでアートスティック一辺倒ではなく、子供受けもよい。
おしゃれ小物にはぴったりの作柄でもあるから、ミュージアムショップは大混雑。
初日は午後に行っても入場制限が掛かってグッズが買えないという有様に。
仕方ないのでガチャガチャをやる。一回500円。
ミュージアム設置のものは単価が高いが、これが相場なので躊躇する者は少ない。
出たのは例の手足が蛇と蛸の猫。
これもいずれアニメ化するのだろう。
ヒグチヨウコ印税がっぽりだ。
いずれにしろ、1日で吉村芳生とヒグチヨウコをまとめて鑑賞するのは脳が飽和状態となるのでお勧めしない。

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エドワルド・ムンク、吉村芳生、ヒグチヨウコ・・。たまたま集中鑑賞したアーティストに作品性も、テーマも、世代も、時代も、ジャンルも、生きた環境もリンクするものはまったくない。
ただひとつの共通点は世間に認められ、多くの観衆を集められるということ。
数多のアーティストは誰にも認められることなく、草葉の陰で惨めに死んでいくというのにこの違いは何だろう?
世田谷文学館から芦花公園駅に向かう暗い道をとぼとぼ歩みながら、還暦近くなっても成就程遠き我が人生にあるのは、ただただ嘆きのみであった。




『ブレードランナー2049』の絶望的考察

映像鑑賞
11 /09 2017
改めて『ブレードランナー2049』の考察を試みる。
(ネタばれ注意)
この映画を見る前、想像していたのは新たな主人公Kがアメリカンヒーロー的な勧善懲悪バトルで薄っぺらな「正義」を行使するありきたりなハリウッド映画になることを危惧していた。
大抵の名作続編は興業を優先し、陳腐化するのが常であったから、こんな予想も的外れではない。
だが、実際の出来は、『ブレードランナー』の世界観を忠実に継承し、まるで欧州映画のような悲哀溢れる映像美を追求した作品に仕上がっていた。
どうしてこんなことが現在のハリウッドで作ることが可能だったのか、それが最大の謎に感じた。
もっとも数多の米映画をすべて視聴すれば、そのような作品も何割かは常に作られているのかもしれない。
だがハリソンフォード級の俳優を擁し、世界的大規模興業を展開する超A級映画で、このような類の作品は極めて稀有に感じる。

『ブレードランナー2049』のハリウッド映画らしからぬ造りはどこから来ているのかと考えると、そのスタッフの国籍などから垣間見れる。
すなわち、製作総指揮リドリー・スコットは英国人。監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ、主役ライアン・トーマス・ゴズリングは共にカナダ人。仮想現実恋人ジョイ役・アナ・デ・アルマスはキューバ人。撮影拠点はブタペスト。スポンサーはSONY等。
『ブレードランナー』にヨーロッパやアジア映画の哀愁の血が漂っているのは、こういった理由が一因なのかも知れぬ。
しかし今時、インターナショナルなスタッフ陣は珍しいことではない。

「大義のための死は最も崇高である」というような主人公の描き方も、今の商業娯楽映画として成立しがたい。
自己犠牲というのは敗北必至の者が死を前提とした、いわいる「玉砕」であって、圧倒的な常勝が求められるアメリカンヒーロー像からは余りにもかけ離れている。
クライマックスに主人公Kはデッカードを娘に会わせるために自己犠牲的闘争を展開する。
その結末もあっさりとした静かな「死」だ。爽快感はどこにもない。

『ブレードランナー2049』のラストシーンを観て起想したのは、星野之宣の漫画『残像』である。
これもまた悲哀溢れるSF作品だ。
契約結婚でもう遠い過去の存在でしかなかった元妻が産んだ自分の子供との出会いや、キーワードとなるトーシューズ等が『ブレードランナー2049』設定とだぶる。
だがこの漫画はオリジナルの『ブレードランナー』が公開された1982年よりも更に過去に描かれていた。
時代感覚的には1970年代のテイストだ。

重ねて『ブレードランナー2049』には何となく、前作の特殊効果を務めたダグラス・トランブルが監督した『サイレントランニング』の匂いもする。これも1971年製作の映画。
勧善懲悪ではない自己犠牲的な主人公を描いていた点では『ブレードランナー2049』と非常に似通っているが、当然ながら興業的には失敗作だった。

製作スポンサーも奇異だ。
いまや圧倒的な中国企業群の台頭により、その勢いそのままならばハリウッド映画の冠企業はハーウェイ辺りになってもおかしくないところだ。
だがもはや風前の灯であるはずの日本家電企業の代表格であるSONYが、まるで1980年代そのままに『ブレードランナー2049』メインスポンサーとして名を轟かせている点もまた「自己犠牲の崇高な死」を思い起こさせる。
最後の灯火で有終の美を飾らんとしているかのごとく。

また『ブレードランナー2049』の主人公Kを巡る4人の女たちの描き方も同様に古典的だ。
すなわち、ウォレスに忠実な部下ラヴ
バーチャル愛人ジョイ
娼婦の女
上司のジョシ警部補
彼女たちはそれぞれの立場で主人公Kに対して「愛」を実践する。
それ故にジョイは娼婦に、娼婦はジョイに、ラヴはジョシとジョイに嫉妬し、激しく闘争する物語でもある。
しかしある意味、彼女たちは「自立」していないのだ。
皆、保守的で前時代的な「男に依存する自己犠牲的な女」の姿を描いている。
この2017年にはどう考えても流行らない「女性に嫌われる女」ばかりだ。

ようするに『ブレードランナー2049』は何もかも時代の潮流からかけ離れた存在なのだ。
そう、この作品はもう戻っては来ない1970年代の「望郷」しかない。
作品自体がディストピアなのだ。
「滅び」を描いているのではなく、映画自体が「絶滅と廃墟」そのものなのだ。
SONY、依存する女、自己犠牲の玉砕肯定、大義のための死・・。
これらすべてに未来はない。
あるのは「滅びの美学」だけだ。
寿命の限られた生殖機能のないレプリカントは「滅びの美学」そのものの具現化だ。
観客は「移植された1970年代の記憶」に浸るだけで、それは単なる虚像でしかない。
孤児院の孤児のごとく、打ち捨てられた過去の残滓から「美しい思い出」だけを採取する「労働」に課せられる映画だ。
その「労働」に喜びを感じられる者だけが2時間45分の「滅びの美学」を享受出来る。

ではなぜそんなネガティブスピリット全開な作品をハリウッド映画というメジャー興業で表現出来るのか?

理由はただひとつ。
それが『ブレードランナー』だからだ。

『ブレードランナー2049』を観る

映像鑑賞
10 /27 2017
『ブレードランナー2049』を観る。
前作の『ブレードランナー』公開は、今から35年前の1982年だった。
大学を卒業してから、まだ1年。丁度、徳間書店の月刊誌「リュウ」でプロデビューした年だった。
年齢にして22歳か。最も感受性が強い頃。
当時、『ブレードランナー』に触発されたマンガを1984年「ブリッコDX」に描いた記憶があったので書庫を発掘。
30年以上前の本だから黄ばんでるけど、改めて眺めると『ブレードランナー』が当時の己の琴線に触れた作品だったということが解る。
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1970年代から80年代半ばにかけて観賞したSF作品はどれも卓越している。
『2001年宇宙の旅』、『時計仕掛けのオレンジ』、『惑星ソラリス』、『スターウォーズ』、『謎の円盤UFO』、『サイレントランニング』、『猿の惑星』、『スタートレック』等々。
同世代でこれらの作品群に影響を受けなかった者は居まい。
原作がSF界の巨匠、アーサー・C・クラーク、スタニフワフ・レム、そして監督がスタンリー・キューブリック、アンドレイ・タルコフスキー等の独特な映像美で撮られた作品群は青春期の脳裏に深く刻まれた。
その後、これらの続編やリメーク版がいくつか作られたが、オリジナルを超えるものは未だ記憶にない。
己の年齢的なものもあるのだろうが、1980年代後半以降の、いわいるSF映画には、それ以前に観た作品が持っていた斬新的未来観が欠けている。
どことなく、近視眼的で設定、ストーリー、小道具含め、陳腐になった。
全体的に独創性が貧困で、別にSFとして描く必然性がない作品ばかりになった。
おそらくアポロ計画月着陸をピークとして、1970年初頭のオイルショック以降、サイエンスに対する楽観的希望が失速してSF自体に飛躍的空想力を求められなくなったのが原因なのかもしれない。
21世紀になっても月に人類は居住せず、火星にも行かず、車は空を飛ばず、原子力は厄介者扱いされ、スペースシャトルすら退役してしまい、世界連邦等など欠片もない陳腐な「未来」が来てしまった。
そこにはもうSFが生き残る場所などない。
SFが予言した「未来」は来なかったし、これからの時代はもっと「非SF」的な世界になっていくだろう。
そんな21世紀になっても『猿の惑星』や『スターウォーズ』は続編が作り続けられている。
結局、1970年代後半にオリジナルが制作された老舗SFをリメークしつづける以外に「SF」映画が生き残る道がないのかもしれぬ。
そんな、状況下、ついに『ブレードランナー』も続編が作られることに至った。
動画サイトには公式の前日譚が3本アップされている。




本編『ブレードランナー2049』を観にいったのは封切初日の27日、それも朝9時からの初回上映である。
(これ以降の文章には「ネタばれ」ほどではないですが、ストーリーに関わる内容も含まれていますので未観賞の方は御注意ください)
前売りも事前に購入。特典付き。
前売り購入時、チラシはまだ映画館にたくさんあった。
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チケット代は35年前と200円しか変わらない。その第一作のチケット半券は今でも手元にある。
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独りじっくり腰をすえて観たい作品は久しぶり。
続編の賛否は別として「ブレードランナー」にはもう甦ることのない二十代に観た老舗SFの残滓がある。
日本での公開がやや遅いため、うっかりするとネット上で「ネタばれ」記事に遭遇してしまう危惧があったが、幸いなことに「地雷」を踏むことなく、映画鑑賞に挑むことが出来た。
場所は新宿バルト9。
流石に平日の午前中とあって、客の入りは3割程度か。
詳細なストーリに関しては触れないが、3時間にも及ぶ上映時間にも拘わらず、最初から最後まで刮目して観賞することが出来た。制作総指揮がオリジナル時の監督、リドリースコットが担当しているので、世界観は完全に継承されていた。
正直、大筋ストーリー自体はありがちな設定で、序盤から主人公の正体、生い立ちなどが垣間見れてしまう(無論、そう単純な話ではないが)シンプルな展開。
だがそんなことは問題ではない。
『ブレードランナー』のアイデンティティーである退廃的な都市風景、延々と続く廃屋、廃墟、唐突な日本語表示、ディストピア感漂う雑踏に小汚い群集。更に凝りに凝った探査装置のギミックの心地よさ等がこれでもかこれでもかと描かれている。
更にバンゲリスを踏襲したBGMが作品全体を包む。
これはストーリーを追う作品ではない。『ブレードランナー』という世紀末的廃墟を探索し、陶酔する映画なのだ。
だからそんな世界観が好きな人間にとっては3時間どころか1日中観ていても飽きないだろう。
(自分ももし入れ替え制でなければ、もう一回観ていたはず。リピーター続出な作品になることは想像に難くない)。
逆にこの世界観を受け入れられない者にとっては30分にも満たない時点で寝てしまうかもしれない。
要するに前作同様、人を選ぶ映画だ。
続編は大抵、前作を越えられないし、一般受けを狙って陳腐化するのが常であるが、『ブレードランナー2049』は頑なに前作の世界観を踏襲しているところに価値がある。
最近のハリウッド映画にしては珍しいのではないか。
ストーリーに関して付け加えるならば、やはり人造人間を扱っているという点で庵野秀明氏の『新世紀エヴァンゲリオン』が抱えていた生死観、魂の座、人格移植OS,生き残るべき種族の選択というテーマの共通点も垣間見れるのは興味深い。
ただ、更なる続編も匂わせる構成になっているのが気になる。
しかしあの流れで、続編化となると、『猿の惑星』同様に人間対レプリカントのような、在りきたりの階級闘争モノになってしまっては元も子もないのだが。
あと、メインスポンサーがソニーらしく、大きくクレジットが写る。
ソニーで思い出したのは1970年の『謎の円盤UFO』スポンサーもソニーだったな。
だが、中国企業が台頭している現在、斜陽の日本家電企業がなおも『ブレードランナー2049』に大きく寄与している状況が奇妙。
『ブレードランナー』の得意先は今回も、日本メインということなのだろうか?

観賞後、売店でプログラムと留之助ブラスターナノキーフォルダーを購入。
洋画でグッズを買うのは久しぶりな気がする。
外に出ると秋の日差しが。
しかし『ブレードランナー2049』観賞は雨の日がいい。
特に新宿辺りだと映画館から出ても映画の延長上にある錯覚に囚われることで余韻を楽しめる。

オリジナル前作観賞から35年。
それも同じ新宿だ。
だが、かつて20代前半の感受性はすでに失われ、オリジナル前作を観たときのように己の作品に反映させるエネルギーは果たしてあるだろうか?
もはや自分も型落ちした旧型レプリカント同様なのかもしれぬ。
人混みに紛れ、新宿南口へと独り歩みを進め、帰路に就く。



『メアリと魔女の花』を観る

映像鑑賞
07 /13 2017
元ジブリに所属していた米林監督の最新作『メアリと魔女の花』を観る。
スタジオジブリがなくなってしまったので、元スタッフが新たに立ち上げたスタジオが制作している。
なぜジブリが製作部門を閉鎖したのか知らない。宮崎駿監督が「引退」したからと伝え聞くが、「ジブリブランド」の看板を下ろす理由が思い当たらぬ。優秀な人材が拡散するだけで利するものはないのにと素人目には映るのだが。
なぜ、ディズニーのような体制を維持できないのか?
日本コンテンツ産業の地盤の薄さに危惧する。
それはさておき、ジブリブランド亡き後、その正統なる継承作品第一作目がこの『メアリと魔女の花』らしい。
テレビCMなどで予告編を観ると、これまでのジブリ作品のエッセンスをミックスした雰囲気が醸し出されている。
「ジブリブランド」を継承しているのは間違いなさそう。
(これ以降はネタばれ注意)
公開初日の土曜日に観賞。
都外の県庁所在地に位置するシネマコンプレックスで夕方の回。
初日にも拘わらず、なぜか空席が目立つ。
理由は解らず。満席だと思っていたので拍子抜け。
主人公メアリのキャラクターは赤毛でどことなく、高畑勲演出の『赤毛のアン』を髣髴とさせる。
黒猫を従え、箒に乗って空を飛ぶ役柄は『魔女の宅急便』のキキにかなり近い印象。
他にもジブリ作品で「見たことのあるような」場面設定、キャラクター、演出が至る所に見られる。
しかし、やはり従来のジブリ作品とは根本的に違う。
第一印象としては、作画などは確かにジブリの水準を保っており、遜色はなかったが、内容は「ポケモン」や「妖怪ウォッチ」等の子供向けテレビアニメの劇場版といったところ。
更に時事ネタ的なバイアスがかかった演出もあり、やや興ざめする場面も。いつものジブリ作品とは程遠い印象。
宮崎駿氏が東映動画時代からジブリまで継承してきた「冒険活劇」という要素は殆どなかった。
『ポニョ』以降の宮崎ジブリ作品は、老齢ゆえ精彩を欠いて妙な「自己完結」作品で終わってしまった感があったが、それ以前の宮崎アニメは確かに「血沸き肉踊る」冒険活劇ロマンを維持していて期待を裏切らなかった。
だがこの作品には、その真髄がない。
勿論、『メアリと魔女の花』は別人の米林監督作品であるから、宮崎アニメと異なるのは当たり前なことは解っている。
しかしどうしても元ジブリスタッフが手がけていることで、否応にも比較してしまうのだ。
観る者が期待しているのは、ジブリブランドを正統に継承する作品。
だから、米林監督は望む望まずに拘わらず、歌舞伎役者や落語家のようにジブリ一門を受け継ぐ、「2代目宮崎駿」の襲名を背負わされてしまっている。
その観点からすると、庵野秀明氏、新海誠氏等と比べ、不自由な立場にあるのかもしれない。
結局、作品内容的に思い入れて鑑賞する事はなかったのではあるが、妙なことに主人公メアリのニーソックスとスパッツが気になって仕方なかった。
『魔女の宅急便』のキキは黒いワンピースに幼女の履く白い提灯ブルマのようなパンツ姿で味気のないものだったが、メアリは若干大人っぽく描かれているため、その部分が変に「ジブリブランド継承作品」らしからぬ猥雑な印象を発するのだ。
良くも悪くもメアリの「スカートの中」とニーソックスが『メアリと魔女の花』最大の収穫であった。
メアリ170711 仕上げ

あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/