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映画鑑賞、ギャラリー諸々

映像鑑賞
04 /06 2019
4月4日、東中野ポレポレにて上映中の『蹴る』を観る。
知り合いの中村和彦監督が撮った障がい者による電動車いすサッカーのドキュメント。
撮影期間6年にも渡って撮り続けた迫真の記録映像。
フライヤー解説によると、監督自身も介護の資格を取って撮影に挑み、選手との信頼関係を深めたとか。
過剰な演出もナレーションもなく、淡々と選手達の日常を描いているので直に訴えるものがある。
選手の殆どが男性の中で脊髄性筋萎縮症(SMA)の女子選手の活躍や日常の日々が印象に残った。
それにしてもハンディーやリスクを抱えて海外遠征するのは命懸けな部分もあり、サポートする人々含めての苦労が心に響く。
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映画館を出てJR東中野駅周辺の桜を観る。
この日はやっと平年並みの暖かい晴天に。
今年は寒い日が多く、まだまだソメイヨシノは満開。
JR中央線沿いに咲いているので電車とのコラボショットポイントとしても有名。

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ここに来たのは久しぶり。
1990年、モーニングパーティー増刊に掲載された『風の中央鉄道』/第5話「満開、黒染桜」で此処を舞台としたのを思い出す。
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もう29年も昔の話だ。
走っている電車の種類も変わった。
30年も経てば変わるのも当たり前だが、自分の中では時間が止まっている。


夕方、劇画家バロン吉元先生の画暦60年記念個展「男爵芋煮会」の案内はがきを頂いたのでギャラリーにお邪魔する。
場所は阿佐ヶ谷VOID。
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家から自転車で数分だ。
先日阿佐ヶ谷某BARで初めてお会いした先生の娘さんが常駐されており、改めてご挨拶。
リスペクト出展アーティストは青木俊直、朝倉世界一、小田島等、すぎむらしんいち、寺田克也、永野のりこ、花くまゆうさく、松田洋子&清田聡、丸尾末広、森下裕美、山田参助、やまだないと等著名漫画家さんがたくさん。
バロン吉元先生のお名前はよく存じていたが、作品の造詣は浅く、あまり読んだ事がなかった。
ギャラリーに置かれていた昭和40年代の「昭和柔侠伝」を少し読んで、劇中の帝国陸軍一式戦闘機「隼」を僭越ながらゲストブックに描いてみる。
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それにしても画暦60年とは凄い。
還暦前で逡巡している場合ではない。


戦争映画評

映像鑑賞
02 /20 2019
ロシア映画「鬼戦車T-34」のリメイク版が昨年末本国で封切され、ヒットしているようだ。

日本では『ガルパン』が流行り、アメリカでも『FURY』という戦車が主役の映画が公開された。
近年はこうした第2次大戦を下地にしたリアル志向の戦争映画やTVシリーズが流行る傾向がある。

先日、第二次大戦のロシア戦線を扱った『ジェネレーションウォー』というドイツのテレビシリーズを1話分だけ観た。

製作年は2013年。そんなに古くはない。
日本のNHKで『坂の上の雲』が製作されたのが2009年頃だから、それよりも新しい。
ほぼ『カルパン』と同時期。
枢軸国側から描いた第2次世界大戦ものは珍しい。
連合国側が描いた作品では、ドイツ兵は「標的」のように扱われ、身も蓋もないが、これはその「標的」が主人公だから、それなりのリアリティーはある。
ドイツ人俳優が演ずるから、当然ドイツ兵はドイツ語でしゃべる。この当たり前な描写がハリウッド映画にはないので、それだけでも価値がある。
戦闘シーン等も当時の兵器を忠実に描いていて、なかなかクオリティーは高い。

しかし、ストーリーは相変わらずバイアスのかかった「ナチス」全面否定の造り。
登場人物もまるでアメリカングラフィティーに出てくるような「リア充」。
「悪事」は全部、SSと秘密警察に擦り付けて、国防軍は潔癖みたいな描き方に変化はない。
日本のATG映画に出てくるような中途半端なポルノまがいの描写もあって辟易。
「女」を出す戦争映画は碌なものにはならない典型。
ドイツ産『スターリングラード』も似たようなもので、戦争映画として最低レベルの出来だった。
日活ポルノに戦闘シーンを混ぜたような映像ばかりで観ていて馬鹿馬鹿しくなる。
戦後ドイツの屈折した精神がこんな無価値な似非戦争映画を生む。
『ブリキの太鼓』然り。観ていて不快感しか残らない。

先日、NHKBSで「ヒトラー演説の魔力」というドキュメントを視聴した。
当時ナチズムに心酔したヒトラーユーゲントが90才を越えても尚、若き頃の熱狂を反芻している姿を見て、これこそが「戦時下ドイツの真実」ではなかろうかと思う。
若い時に何かに熱狂するというのはそれが例え邪悪な類いのものだったとしても生きる支えになるのだなと。
今のドイツではそれを「全否定」することが国是だから、彼らは公の場で「青春」を吐露することすら許されないのだ。
だから、この『ジェネレーションウォー』を始めとする数多のドイツ産戦争映画も戦後、捏造された「ナチス全面否定」の思想に染まった「フィクション」でしかない。
本来ならば、ナチス思想に染まった熱い血潮に満ちた若者が、何の疑いもなく突進する様子を描くことが真実のドイツ戦争映画として必須なのであるが、「ナチス全面否定」が強要される以上、永遠に「真実」は描けず、ポルノまがいの似非戦争映画しか作れない。
これがドイツの現状なのだ。
その点では、まだロシア産の戦争映画のほうがドイツ軍を「正確」に描写出来ている。但しあくまで「憎むべき敵役」としてだが。
だから、ドイツ人自らが表現するリアルな第2次大戦映画は永遠に作れないのである。
祖国に殉じていった勇猛果敢なSS戦車兵、擲弾兵他数多のドイツ兵はアメリカやロシア産の映画で散々に「標的」にされるだけの「馬鹿で惨めで残酷な悪役」としてしか描かれない。
ある意味、気の毒だ。
まあ、日本も似たような状況にはあるので、結局まともな戦争映画は「戦勝国」にしか作れない。
映像の世界も「勝てば官軍。負ければ賊軍」なのだ。

『けものフレンズ2』と『ケムリクサ』

映像鑑賞
02 /20 2019
映像感想諸々。
一昨年、一世を風靡した『けものフレンズ』。
ファンの皆が期待した続編はアニメ版の実質的生みの親であるT監督が不可解な理由で降ろされ、実に後味の悪い形で別のクリエーターに引き継がれた。
監督が交代しても、キャラクターや音楽、声優等は踏襲されているので事情に疎い者が見れば『けものフレンズ』の続きであることに疑問は持たぬだろう。

2月半ばまで、シリーズ半分の6話までが放映された。
結局のところ、「ジャパリパーク」という奇跡の「神殿」から創造主を追い出し、その「神殿」を乗っ取った新たな支配者が「経典」だけはそのまま使って教義を続行しているという印象は拭えない。
ディストピア感も創造主の世界観を単に劣化シミュレートしているイメージ。
器だけが継承され、中身はまったく違ったものとして作られている。
いわば、店構えは変わらないがオーナーによってカリスマ料理長が更迭されてしまい、急遽派遣された新任料理長がレシピだけ見よう見真似で作ってみたが、味がまったく別物になった飲食店のようなものか?
当然、今まで「この店の味」に魅了されて通っていた客から反感を食らうのは避けられぬし、実際不評が目立つ。

作家性が強い創作物の続編は本人にしか作れない。
他者がどんな作り方をしてもそれは「別物」。
それを無理矢理「大人の都合」で前作とリンクさせれば自ずと軋みが生まれる。
だから『けものフレンズ2』は新旧作り手、ファン共々誰も幸せにしない。

だが彼等に罪はない。
罰するはその「都合」を編んだ者にある。
『けものフレンズ2』が前作とはまったくリンクせず、世界観もキャラクターも声優も別で、単独オリジナル作品として放映されていたら、こんなに悪評は付かなかったろう。
しかし、カリスマ性を有する作品を、本人の意思に反して「続編化」すれば、前作の支持者(信仰者)から反感を食らうのは必至。
比較するなという方が無理な話。
『けものフレンズ2』は、誰がどんな作り方をしようと「火中の栗を拾う」事に等しい。
結局、『けものフレンズ2』製作スタッフも、前作T監督同様、「大人の都合による悪しき続編化」の犠牲者であることには違いない。
このような前提がある以上、多くの視聴者にとって『けものフレンズ2』が今後、どんな展開になるにせよ、心から楽しんで鑑賞することは難しいだろう。

一方、『ケムリクサ』。
T監督が「ジャパリパーク」という楽園から追放され、心機一転、一から作り上げたオリジナル作品。
過去に製作した自主アニメが元になっているようだ。
初音ミクが歌うエンディングは謎解きが含んでいるのかも。
こちらもまだシリーズ半ばの6話目。
スポンサーCM版動画もアップされている。

ディストピア感がビジュアル的にも水準高い。
舞台設定も、朽ち果てた廃墟の未来で現世に生きる異形の者達と共に「自分探し」の旅をするという点で『けものフレンズ』を踏襲している。
またストーリーの流れがゆっくりで、登場人物の語りがメインに話が進む。
タルコフスキーの映画『ストーカー』のそれと印象が似ている。
完成度高いSFだがマニア受け。
『けものフレンズ』にあったダイナミックレンジの幅の広さがなく、視聴者を選ぶ。
自分の知る連続TVSFアニメの中では『電脳コイル』に近いか。
作品として水準は高いのだが『けものフレンズ』にあった視聴者を巻き込むわくわくドキドキ感に欠ける。
動物園とのコラボ企画とか、鉄道スタンプラリーとかの「遊び」企画が、まだ『ケムリクサ』はない。
例えればメインストリートにあった飲食店から追放されたカリスマ料理長が、路地の奥にこじんまりと知る人ぞ知る店を独立させた感じ。
確かに味は伝説的なものが継承されているが、「一見さんお断り」な雰囲気もあって、かつて開けて明るい店構えでの楽しい雰囲気を知る客からは敷居が高いと感じるかも。

まだ両者ともシリーズ半ばで結論を出すのは早いが、『けものフレンズ2』はカリスマ性を喪失した凡庸な作品としてすぐに忘れ去られそうだし、一方『ケムリクサ』は、一部の「信者」だけが崇拝する「知る人ぞ知る」作品で終わってしまうのかもしれない。
結局、『けものフレンズ』第一作が如何に絶妙な配合で凡庸アニメの中にマニアックなエッセンスをブレンド出来た稀有なヒット作品だった事を改めて思い知る。
やはり『けものフレンズ』第一作は奇跡だったのだ。

『戦略空軍命令』という映画

映像鑑賞
01 /30 2019
先日、『戦略空軍命令』という映画のDVDを購入。
1955年公開のアメリカ映画。
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主演はジェームズ・ステュアートとジューン・アリスン。
当時のアメリカ戦略空軍を舞台に、再召集されたパイロット士官とその夫婦を描いた作品。
巨大爆撃機B-36や最初の本格的ジェット爆撃機B-47が余すところなくふんだんに登場し、資料的価値も高い。
航空ファンの間では知る人ぞ知る映画。
昔、東京12チャンネルか何かで放映されたのを観て以来、記憶に刻まれている稀有な映画だ。
実はこの『戦略空軍命令』は久しくDVD化されておらず、全編をじっくり鑑賞する機会がなかったのだが、やっと昨年あたりにパッケージ販売された。
一般洋画のDVDなどめったに買わぬのだが、これは特別だ。ネビル・シュート原作の『渚にて』以来、2枚目だ。
『渚にて』も1950年代作品。
和洋問わず、この時代の映画は今、一番熟成しきって芳醇な香りに満ちている。
未だ理由が解らぬが、この当時の映画は恐ろしく発色がよい。フィルムが特別なのだろうか。とにかく美しい。
当時のカラーと比べると、現在の映画はまるで色褪せたイメージ。
誰もそのことに言及していないようで実に不思議だ。
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それはさておき、『戦略空軍命令』。
改めて全編見終わって、様々な意味で素晴らしい。
(以下、本編内容物語結末描写あり注意)
いうまでもなくB-36とB-47の描写は格別だ。戦略空軍の全面協力の下、機内の細かな描写や優雅なBGMに合わてコントレイルを吐きながら成層圏を行く空撮は琴線に触れまくりだ。
それも全て実機の実写。
CGでは絶対表現出来ない、その時代の空気感まで伝わってくる。
1955年の匂いがするのだ。
米ソ冷戦下、大気圏内核実験華やかなりし時代、その優雅で美しい爆撃機の姿と相反する、第3次世界大戦の危機感こそが1950年代の魅力なのだ。
『戦略空軍命令』はそれを象徴的に描いている。
第2次世界大戦が終わってまだ10年。
主人公は戦争中、B29の搭乗員だったという設定。
復員してプロ野球選手として活躍していたが、人員不足に悩む戦略空軍からスカウトの誘いが。
主人公の上官は諭す。
戦略空軍は世界の平和を維持するために崇高な任務を担っていると。
核報復能力こそが平和を齎すのだと。JAPを焼き殺したように、再び敵をやっつける覚悟に目覚めるのがアメリカ人の義務だと。
主人公はその「崇高な任務」のためにプロ野球スタープレーヤーの座を降りて空軍の再召集に応じていく。
核兵器の運用こそが平和の実践だということを信じて疑わない1950年代の大らかさが絶妙だ。
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また、主人公と新婚まもない妻との関係も感慨深い。
再召集された夫に健気についていく専業主婦の妻。
夫の任務に不安を抱くもそれに耐える「女の強さ」が1950年代にはある。
当時はベビーブーム。妻が妊娠して出産するも、すぐに病院から追い出されるシーンもよろしい。
なぜなら後から後から出産予定の妊婦が入院してくるからだ。
主人公はいう。「戦略空軍では一ヶ月に1500人もの赤ちゃんが生まれるんだ」。
そんな描写も生き生きとした1950年代の活力を感じさせる(ちなみにこの時生まれた赤ちゃんは、2019年現在64歳。いわゆる団塊の世代)。
夫婦の食卓に並ぶ、ティーカップや角砂糖・・これらも1950年代、自分が子供だった頃に慣れ親しんだデザインだ。
当時の邦画でバヤリスオレンジが並んでいるのと同じ郷愁だ。
また基地内の将校宿舎もよい。
在日米軍のキャンプ廃墟には、当時の似たような宿舎が残っている。
まるでタイムカプセル。『戦略空軍命令』は映像まるごと、その「タイムカプセル」なのだ。
特選物のワインなのだ。
また映画の後半、太平洋を超えてB-47を渡洋運行するシーンでは横田や嘉手納も舞台の一部になっている。
ジェットストリームの向かい風で到着予定が遅れるエピソードも興味深い。
当時は日米講和条約からまだ4年しか経っていない。朝鮮戦争も終わったばかり。
日本の空はまだ我が物顔に米軍機が飛んでいた頃。
日本人に対する配慮などまったくなかった雰囲気も清々しい。
ちなみに2019年現在も「横田空域」は存在していて1955年当時と基本的に変わっていない現実も香ばしい。

映画の終盤、結局、主人公は右腕に怪我をして除隊。
野球選手に復帰することも出来なくなる。
しかし、妻の内助の功で、なんとかなるんじゃないかという雰囲気を匂わせて、物語は終了。
この映画のラストで上官はいう。
「戦略空軍は君達のような非常勤や民兵でなんとか維持されているのだ」と。
最後は主人公が育成したB-47部隊が編隊飛行してEND.
エンドロールもなし。
基本的にこの映画は戦略空軍のプロパカンダであるので、オチは身も蓋もないのだが、その単純かつ、ひねりもない描き方がまた清々しく、素晴らしい。

最初、テレビで観たときは爆撃機の描写ばかりに見惚れたが、今観ると1950年代の夫婦愛が、日本の高度成長期のそれと類似して「古き良き日東紅茶」の時代を思い出す。
いずれにしろ『戦略空軍命令』は核兵器万能と専業主婦が絶対だった時代を反芻出来る貴重な作品であることは間違ない。

展覧会三景~エドワルド・ムンク、吉村芳生、ヒグチヨウコ~

映像鑑賞
01 /22 2019
年末から年始にかけて展覧会を三つ。

東京都美術館『ムンク展』
20日で閉幕した東京都美術館『ムンク展』は、このブログでも何回か話題にした。
20代の頃より『ムンク展』が開かれる度に足繁く通ったものだ。
自分の部屋の本棚には、そのいくつかのムンク展フライヤーが貼ってある。
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日に焼けて色褪せてはいるが、それがまたムンクらしい。
最初の展覧会は1981年であったか。東京都近代美術館で開催されていた。
まだ学生時代、確かゼミの卒論も「ムンク」を題材にした記憶がある。
自分は『叫び』よりも『病める子』シリーズに惹かれていた。
だが最近は恐ろしくてダメになった。
死や病を観念的に戯れの対象と出来た頃は幸いである。
現実にその「闇」がひたひたと押し寄せてくると、絵画鑑賞どころではなくなるのだ。
フィヨルドに映る舌のような夕日にメランコリーを感じる若き頃は遠く過ぎて、老い朽ちる気配が聞こえてくると、もうどうしようもない。
ムンクは医者の家系に生まれたから、若き頃の苦悩を生きる糧にも出来たし、名声も得られた。
だから生涯独身であっても、晩年は過不足ない生活環境であったろう。
だが、老いて名声もなく、お金も地位もない独身男性は惨めだ。
若い頃の観念的な絶望が「現実」として襲い掛かるのだ。
真っ赤な蔓草。真っ赤に染まる夕日。
己を貫く絶望の叫びは青春の特権だ。
老いての絶望は声すら出せず、ただひたすらに孤独の闇の中で次第に衰えゆく心身に絶えるしかないのだ。
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今回の展覧会は盛況と見えて、入場30分待ち。
ロビーにあった動画風に動くムンク画が陳腐。
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動かしたいなら本物の独身絶望男性を真っ赤にペインティングして徘徊させればよいものを、小手先のごまかしではムンクの苦悩は表現出来ぬぞ。
やはり年老いて感性も鈍ったか、若い頃のように齧り付きで鑑賞するような情念はなくなってしまったが、キャンバスにぶつける様な描き方は忘れてはならない。
ただ形を追うだけの作画は無意味だ。
心の滾りを表現しなければならぬのだ。
それが出来るのは若い頃だけ。
今やってもただの老醜か、挙動不審の変質者。だがそれでも描くというのが絵描きの生業。
警官の職務質問に素直に従ってはならぬ。
狂気で対応してこそ表現者の最低条件だ。

会場中盤に掲げられた『叫び』『絶望』『不安』三部作。
立ち止まって観れないが、少し後ろに引けば全体像が解る。
『叫び』はムンク自身ではない。観る者が心に内在する恐怖の映し鏡。
核爆発にも似た真っ赤な空はサードインパクト。
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後半は、精神の嵐から抜けて穏やかな老年期の作品。
この辺りはあまり観るべきものはない。
人は年老い、落ち着かなければ心身が持たないからこれでいいのだ。
生涯独身のムンクではあったが、身の回りの世話人もいたろうし、国も文化功労者として手厚く保護したことは想像に難くない。
全ては地位と名誉とお金である。

そしてミュージアムショップ。
今回のムンク展でもいくつかのグッズを購入。
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1980年代は複製原画にポストカード、ポスター位しかなかったのに、今やアイドルグッズ並みのアイテムがこれでもかこれでもかと並ぶ。
お茶やジャムはまだしも、スナック菓子キャラクターにポケモンである。
ピカチューが「叫び」の真似をしているなど、不謹慎甚だしいと怒る者など誰も居らず、鑑賞者は我も我もグッズに飛びつく。
フィギュアやピンズのガチャガチャまである。
ムンクの苦悩は今や美術館の肥やしになってしまったのだ。
展覧会場を出ると、上野の森は冬晴れの快晴。
照り返しが眩しく、目も開けられぬ。
北欧フィヨルドの白夜とは対照的な空っ風の中を背を丸め上野駅に向かう。
パンダ以外にこれといって売りがない上野界隈の情景もまた、ムンクの描く絶望とは別のディストピアだ。

『吉村芳生 超絶技巧を超えて』。
年始になってからも二つのミュージアムに。
一つは東京駅にある東京ステーションギャラリーで開催されていた『吉村芳生 超絶技巧を超えて』。
一言でいえば、「人間テレタイプ」。
新聞や写真を細かな升目を通して鉛筆で濃淡10段階位のトーンでトレスしていく。
すると写真そっくりの「絵」が完成する。
現代芸術というものは、大抵誰かしら似たようなアプローチで表現するもの。
この作家のやっていることも、そんなに珍しい手法ではないが、その膨大なスケールと徹底した執着心が圧倒的に違う。
自画像や新聞紙を365日、ひたすらトレスするという「業」にも似た創作活動が継続できた環境にも秘密があろう。
その作品自体は平凡でも、その「工程」に意味がある。
元になった1970年代の写真や新聞も興味深い。
不思議に思うのはこれだけ膨大な作業だから一年中引きこもっていると思ったら、外国にも旅行するし、結婚して息子も設けたらしい。
作品よりもそのあたりのパラドックスが恐ろしい。
ちなみにこの美術館はレンガつくりの東京駅の中に設けられていて建物自体が重要文化財並みの価値がある。
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「ヒグチユウコ展 CIRCUS」
次のミュージアムは芦花公園最寄の世田谷文学館で開催されている「ヒグチユウコ展 CIRCUS」だ。
こちらも吉村芳生に負けず劣らず超絶技巧の頭のおかしい女子作品。
こういった偏執狂的イラストを描く人間は、どこかイカレている場合が多い。
しかし、それがアートに向くと「偉大なる芸術家」となる。
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ディズニーシーで売ってるジェラトーニの目玉を腐らせたようなキャラクターがアノマロカリスを抱いていたり、猫の顔なのに手が蛇で足が蛸という化け物を描いたりとキチガイレベルが高い。
そんなイラストがこれでもかこれでもかと展示されていて、それをおしゃれ女子が食い入るように鑑賞するという構図。
ここにもポケモンコラボのイラストが展示されていてムンクとヒグチヨウコの結節点を見た。
恐ろしい。
ヒグチヨウコの作品は絵本としても人気があるようでアートスティック一辺倒ではなく、子供受けもよい。
おしゃれ小物にはぴったりの作柄でもあるから、ミュージアムショップは大混雑。
初日は午後に行っても入場制限が掛かってグッズが買えないという有様に。
仕方ないのでガチャガチャをやる。一回500円。
ミュージアム設置のものは単価が高いが、これが相場なので躊躇する者は少ない。
出たのは例の手足が蛇と蛸の猫。
これもいずれアニメ化するのだろう。
ヒグチヨウコ印税がっぽりだ。
いずれにしろ、1日で吉村芳生とヒグチヨウコをまとめて鑑賞するのは脳が飽和状態となるのでお勧めしない。

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エドワルド・ムンク、吉村芳生、ヒグチヨウコ・・。たまたま集中鑑賞したアーティストに作品性も、テーマも、世代も、時代も、ジャンルも、生きた環境もリンクするものはまったくない。
ただひとつの共通点は世間に認められ、多くの観衆を集められるということ。
数多のアーティストは誰にも認められることなく、草葉の陰で惨めに死んでいくというのにこの違いは何だろう?
世田谷文学館から芦花公園駅に向かう暗い道をとぼとぼ歩みながら、還暦近くなっても成就程遠き我が人生にあるのは、ただただ嘆きのみであった。




あびゅうきょ

漫画家あびゅうきょ
職業/漫画家
ペンネーム/あびゅうきょ
生年月日/19××年12月25日
血液型/O
星座/やぎ座
出身地/東京都
帝京大学法学部卒
徳間書店刊「リュウ」1982年5月号『火山観測所』でデビュー
著書/
大和書房刊『彼女たちのカンプクルッペ』(1987)
講談社刊『快晴旅団』(1989)
日本出版社刊『ジェットストリームミッション』(1995)
幻冬舎刊『晴れた日に絶望が見える』(2003)
幻冬舎刊『あなたの遺産』(2004)
幻冬舎刊『絶望期の終り』(2005)

公式ホームページ
http://www.ne.jp/asahi/abyu/abe/