久しぶりに『風の谷のナウシカ』原作を読む
読書
先日の映画版『風の谷のナウシカ』地上波放映視聴に触発されて、久々に原作漫画7巻を全部読み返した。
内容が元々重いテーマである故、歳と共に読み込むこと自体にしんどさを感じるようになった。
最後まで読み終え、第7巻の奥付ページを捲ると、そこに一片の新聞切抜きが挟み込んであった。
朝日新聞1994年2月26日付、漫画評論家の村上知彦氏が誌上に連載していた「漫画のカルテ」と題されたコラム。
自分で切抜き保存していたことを完全に忘れていた。
ちょうどアニメージュで『風の谷のナウシカ』連載が終わった時の記事だった。
その最後で著者はこう締めている。
「自然を愛する一人の少女が如何にして心優しいテロリストとなったかの物語はいつまでも心に重く残りそうだ」。
そうか。
「救世主」ナウシカは結局のところ、テロリストだったとも解釈される考え方は実に面白い。
原作をずっと何回も読み返し、ナウシカを語るにあたり、要するに当初彼女は巨大文明崩壊の「火の七日間」後に汚染され尽くされ、荒廃し、腐海に怯え、戦乱に明け暮れる人間社会を救済せんがため、全人類的慈愛を発揮し、予言の書にも記された救世主のごとく、降臨せしめた使徒みたいな存在として描かれていた。
だが、読み込んでいくうちに、第7巻辺りから様相がおかしくなる。
実はナウシカは天から降臨した救世主などではなく、人類の再生のために用意された様々な「仕掛け」の一部たる人造(改造)人間に過ぎず、「浄化後」は破棄される存在だということを明かされる。
「浄化した世界」では生きられないと。
するとナウシカは慈愛の存在から豹変し、「人類救済」の意味を歪曲し修正した陳腐な俗人革命家として描かれ始める。
偶然か必然かは解らぬが、巨神兵を意のままに扱う地位を得、己の僕に従えて、本家「人類救済」の牙城であるシュワの墓所へ乗り込み、そのすべてを破壊してしまう。
「墓の主」と対峙したナウシカは、それまでの慈悲深さを投げ捨て、安っぽいアジテーションで己の暴力を正当化し、巨神兵をして無慈悲なテロリズムに奔る。
要するにナウシカは自分が「人類救済」という唯一無二、神から自分に課せられた神聖な業に携わっていると信じて疑わなかったにも拘わらず、実はその遙か前、「火の七日間」を招いた軽蔑すべき「愚かな人間」によって「人類救済」がすでに計画されていたことに猛烈な嫉妬心を抱いたのだ。
そして自分がその「愚かな人間」によって作られた人造(改造)人間であることに我慢ならなかったのである。
その結果、ナウシカは土鬼の神聖皇帝と同じく、人類救済を謳って「浄化後のモデルハウス」たる「庭」から旅立ったものの、結局は暴君として君臨する愚か者レベルの人間に成り果てる。
要約すれば『風の谷のナウシカ』なる作品は「神聖なる人類救済」というイデオロギーの覇権を巡って旧文明が作り出した「庭の主」勢力と、そこから派生した「森の人」勢力との近親憎悪内ゲバ物語に過ぎない。
所詮ナウシカは「人類救済」の主導権を得るためなら血で血を洗う殺戮権力闘争を是認するとんでもないテロリストだという解釈も不自然ではなかろう。
元々、原作者の宮崎駿がそういったイデオロギーにどっぷり漬かった世代であるから、物語がそうなるのは当然かもしれないが。
ナウシカはその後、土鬼の地に留まったというが、果たして平安な国造りに徹せたかどうかは怪しい。
「庭の主」勢力を徹底的に摘発し、殺戮の限りを尽くし、土鬼はクメールルージュのような凄惨な国になったかもしれない。
チククを神聖皇帝みたいな恐怖王に祭り上げ、「森の人」勢力で磐石な権力構造になったのを見届けた後、ナウシカは己の思想本丸がある腐海に還り、「森の人」の下で「現人神」として君臨したのかもしれない。
要するにクシャナも顔負けの恐るべき暴君がナウシカの真の姿なのだ。
最近、SNSとかで「不謹慎狩り」とかいうのを耳にする。
己の「正義」を振りかざし、そのためなら何をしてもよいというような「プチ造反有理」人間。
己の「正義」をネット上に吐露するのは別に自由だ。
所詮、「トイレの落書き」か「パチンコ屋のチラシの裏」だ。好きなだけ表現すればよかろう。
だが己の「正義」に対峙する表現活動を妨害したり、中止を訴えたり、誹謗中傷する者も少なくない。
それが己の「闇」を露呈し、背後から己の後頭部を痛打していることに気が付かぬ有象無象がネットには蠢いている。
「除夜の鐘が煩いから中止しろ」
「餅つき大会は不衛生だから中止すべき」
「未成年の飲酒を促すようなCMは即刻中止すべきだ」
等々。
己の「正義」を振りかざし、その「正義」に反するものは抹殺しても構わぬという呟きは枚挙に暇がない。
俗欲に溺れず、慈愛に溢れ、理想に実直な人間ほど恐ろしいものはない。
このような者程、表現の自由や思想信条の自由を抑圧し、大量殺戮やジェノサイドを率先して容認し、実践する。
一見、慈悲深く、正義感に燃え、誠実さの塊のような人間ほど警戒したほうがよい。
彼ら、彼女らは、己の「正義」以外には寛容ではない。
平気で人を殺す。
ナウシカのような女性は「救世主」か?
実際、本当のところは誰にもわからない。
大きな胸に抱かれれば誰もが信じ、従ってしまうかもしれない。
でもそれは壮大な罠である可能性もあるのだ。
内容が元々重いテーマである故、歳と共に読み込むこと自体にしんどさを感じるようになった。
最後まで読み終え、第7巻の奥付ページを捲ると、そこに一片の新聞切抜きが挟み込んであった。
朝日新聞1994年2月26日付、漫画評論家の村上知彦氏が誌上に連載していた「漫画のカルテ」と題されたコラム。
自分で切抜き保存していたことを完全に忘れていた。
ちょうどアニメージュで『風の谷のナウシカ』連載が終わった時の記事だった。
その最後で著者はこう締めている。
「自然を愛する一人の少女が如何にして心優しいテロリストとなったかの物語はいつまでも心に重く残りそうだ」。
そうか。
「救世主」ナウシカは結局のところ、テロリストだったとも解釈される考え方は実に面白い。
原作をずっと何回も読み返し、ナウシカを語るにあたり、要するに当初彼女は巨大文明崩壊の「火の七日間」後に汚染され尽くされ、荒廃し、腐海に怯え、戦乱に明け暮れる人間社会を救済せんがため、全人類的慈愛を発揮し、予言の書にも記された救世主のごとく、降臨せしめた使徒みたいな存在として描かれていた。
だが、読み込んでいくうちに、第7巻辺りから様相がおかしくなる。
実はナウシカは天から降臨した救世主などではなく、人類の再生のために用意された様々な「仕掛け」の一部たる人造(改造)人間に過ぎず、「浄化後」は破棄される存在だということを明かされる。
「浄化した世界」では生きられないと。
するとナウシカは慈愛の存在から豹変し、「人類救済」の意味を歪曲し修正した陳腐な俗人革命家として描かれ始める。
偶然か必然かは解らぬが、巨神兵を意のままに扱う地位を得、己の僕に従えて、本家「人類救済」の牙城であるシュワの墓所へ乗り込み、そのすべてを破壊してしまう。
「墓の主」と対峙したナウシカは、それまでの慈悲深さを投げ捨て、安っぽいアジテーションで己の暴力を正当化し、巨神兵をして無慈悲なテロリズムに奔る。
要するにナウシカは自分が「人類救済」という唯一無二、神から自分に課せられた神聖な業に携わっていると信じて疑わなかったにも拘わらず、実はその遙か前、「火の七日間」を招いた軽蔑すべき「愚かな人間」によって「人類救済」がすでに計画されていたことに猛烈な嫉妬心を抱いたのだ。
そして自分がその「愚かな人間」によって作られた人造(改造)人間であることに我慢ならなかったのである。
その結果、ナウシカは土鬼の神聖皇帝と同じく、人類救済を謳って「浄化後のモデルハウス」たる「庭」から旅立ったものの、結局は暴君として君臨する愚か者レベルの人間に成り果てる。
要約すれば『風の谷のナウシカ』なる作品は「神聖なる人類救済」というイデオロギーの覇権を巡って旧文明が作り出した「庭の主」勢力と、そこから派生した「森の人」勢力との近親憎悪内ゲバ物語に過ぎない。
所詮ナウシカは「人類救済」の主導権を得るためなら血で血を洗う殺戮権力闘争を是認するとんでもないテロリストだという解釈も不自然ではなかろう。
元々、原作者の宮崎駿がそういったイデオロギーにどっぷり漬かった世代であるから、物語がそうなるのは当然かもしれないが。
ナウシカはその後、土鬼の地に留まったというが、果たして平安な国造りに徹せたかどうかは怪しい。
「庭の主」勢力を徹底的に摘発し、殺戮の限りを尽くし、土鬼はクメールルージュのような凄惨な国になったかもしれない。
チククを神聖皇帝みたいな恐怖王に祭り上げ、「森の人」勢力で磐石な権力構造になったのを見届けた後、ナウシカは己の思想本丸がある腐海に還り、「森の人」の下で「現人神」として君臨したのかもしれない。
要するにクシャナも顔負けの恐るべき暴君がナウシカの真の姿なのだ。
最近、SNSとかで「不謹慎狩り」とかいうのを耳にする。
己の「正義」を振りかざし、そのためなら何をしてもよいというような「プチ造反有理」人間。
己の「正義」をネット上に吐露するのは別に自由だ。
所詮、「トイレの落書き」か「パチンコ屋のチラシの裏」だ。好きなだけ表現すればよかろう。
だが己の「正義」に対峙する表現活動を妨害したり、中止を訴えたり、誹謗中傷する者も少なくない。
それが己の「闇」を露呈し、背後から己の後頭部を痛打していることに気が付かぬ有象無象がネットには蠢いている。
「除夜の鐘が煩いから中止しろ」
「餅つき大会は不衛生だから中止すべき」
「未成年の飲酒を促すようなCMは即刻中止すべきだ」
等々。
己の「正義」を振りかざし、その「正義」に反するものは抹殺しても構わぬという呟きは枚挙に暇がない。
俗欲に溺れず、慈愛に溢れ、理想に実直な人間ほど恐ろしいものはない。
このような者程、表現の自由や思想信条の自由を抑圧し、大量殺戮やジェノサイドを率先して容認し、実践する。
一見、慈悲深く、正義感に燃え、誠実さの塊のような人間ほど警戒したほうがよい。
彼ら、彼女らは、己の「正義」以外には寛容ではない。
平気で人を殺す。
ナウシカのような女性は「救世主」か?
実際、本当のところは誰にもわからない。
大きな胸に抱かれれば誰もが信じ、従ってしまうかもしれない。
でもそれは壮大な罠である可能性もあるのだ。