「アナログ」に還る時
パソコン
何やらパソコンの基本OSのサポートが終了して、新しいバージョンに乗り換えないと不都合が起こるという噂を聞いた。
「なんとか8・1」にしないとどうのこうの云々。
一方、マックOS8.6で使い続けているG3もサポート対応のアプリケーション、周辺機器が今やまったく存在しない。これで作ったファイルも新しいOSでは読めない可能性すら出てきた。
また、愛用しているアルプス電気の熱転写型プリンターも次第にサプライ品の生産終了が増えてきた。インクカセットがなければもうプリント出来ない。
MOも絶滅寸前。
更に著名な写真修正アプリも今後、パッケージ販売からネット配信に移行し月額制になるという。バージョンアップもネット配信のみとなろう。
つまり、金を払い続けないと使用できなくなるらしい。
1999年、15年前から導入したパソコンネット環境。
しかしここに来て明らかな「袋小路」状態に陥っている。
古い機器やアプリケーションを使い続けることに何の不都合もないのに、機器やソフトを更新しないとそれが維持出来ない仕組み。
これは自分の「生き方」にはまったく適していない。
己が思い込んだものをトコトン使い倒すタイプの人間にとって「デジタル」はその価値観が完全に異なる。
思うに今汎用されている周辺機器が15年前のそれに勝っているとは限らない。
たとえばプリンター。
インクジェットの滲んで濡れる出力。すぐに擦れる。早いインク切れ。原価の1000倍位する「血液より高い」純正補充インク。安く済ませようとすれば手が汚れるインク補充。使えば使うほど金が掛かるシステム。
こんな劣悪なインクジェットプリンターに比べたら、どれだけ熱転写型が良心的でクオリティーが高かったか論ずるまでもない。
なぜに「優れた」熱転写型が滅び、価格システム、品質共に「悪質」なインクジェットが生き残っているのか?
皆目理解に苦しむ。
それはバックアップメディアでも同様で、保存性の高いMOが滅んで、それに劣るCDが主流になるなんてどうかしている。
自分はこれからも熱転写型プリンターが必要だし、MOも使い続けたい。
しかしそれが出来ない。
こんなおかしいことがあるか?
先日、ラジオのニュースでバチカン図書館の貴重な歴史的蔵書をデジタルアーカイブする事業のことを流していた。
日本の電電公社が請け負うとの事らしい。
だが、そんなデジタルデータがいつまで「読み取れる」のか?
デジタルで保存したメディア、ファイル形式。そんなものが「永遠」な訳がない。
むしろ数十年も持ちはしまい。
結局のところ、デジタルは冗長性に著しく欠けるのだ。
数年おきに新しいシステム、メディアに置き換え続けなければ永遠に読めなくなる。
紙に記された書物なら100年放置していても読むことは可能だ。
しかしデジタルデータはそれが出来ない。
写真も然り。
昔、フィルムカメラで「100年プリント」というのがあった。
一方、「劣化がないはず」のデジカメで撮られた数多の「写真」は出力しない限り、数年で「消滅」してしまうのだろう。
MD,DAT、MO等、あれほど「劣化なく半永久的に保存出来る」と謳われたメディアはその保存寿命以前にドライバーが市場から消えて「読めなくなる」。
バチカンのデジタルアーカイブ事業も完遂する前に最初のデータが読めなくなるのがオチだろう。
で、結局オリジナルの紙の書物で読むと・・。
愚の骨頂である。
今後、数多のデータはメディアに依存することなく「クラウド」とか呼ばれるシステムでWebに吸い上げられるという。
しかしそれは同時に、数多の個人情報やデータがネットを牛耳る企業、組織、国家に掌握されるのと同意語だ。
先に述べた写真修正ソフトもネット配信のみで管理されるならば、ユーザーがこのソフトで描く内容すらリアルタイムで監視されることになろう。
ならば、その企業、国家、宗教に反する「作品」は即刻削除させられることも可能だ。
Web「管理者」の承諾なくしては、ソフトを使うこともデーターをダウンロードすることも出来なくなる日が来る。
いつしか市民はたった一つの中央コンピューターで管理監視される。
かつて近未来SFで描かれた「悪夢」の現実化だ。
1990年代、先駆的未来を目指すものは迷いなくネットに足を踏み込んで行ったであろう。
だが、今や状況は変わった。
2014年、むしろ如何にネットから手を引くかが賢き者の選ぶ道ではなかろうか。
電車の中を見渡せば、9割方の人がスマートフォンを駆使し、己の情報をネットに注ぎ込んでいる。
だがこれが如何に危険で愚かなことかと。
それらのデータが果たして何処に流れていくのか、当事者は制御不可能なのだ。
ネットは変質した。
利便性の追求を求めれば求めるほど、己を危険に曝す事になる。
パソコン導入してから15年。
様々な機器、アプリケーションを更新しなければどうにもならなくなってきた。
でも、発想を変え、もう全てのデジタルデーターから「さよなら」してアナログ界に帰っていく選択肢もあるのだ。
Webを支配する「巨大な影」の奴隷となるよりは、安全なのかもしれない。
恐らく「真の賢者」はWebを捨て、アナログに還っていることだろう。
Webはやがて急激な進化の果てに自壊する予感がする。
その前に足を洗う勇気が必要なのかもしれない。
「なんとか8・1」にしないとどうのこうの云々。
一方、マックOS8.6で使い続けているG3もサポート対応のアプリケーション、周辺機器が今やまったく存在しない。これで作ったファイルも新しいOSでは読めない可能性すら出てきた。
また、愛用しているアルプス電気の熱転写型プリンターも次第にサプライ品の生産終了が増えてきた。インクカセットがなければもうプリント出来ない。
MOも絶滅寸前。
更に著名な写真修正アプリも今後、パッケージ販売からネット配信に移行し月額制になるという。バージョンアップもネット配信のみとなろう。
つまり、金を払い続けないと使用できなくなるらしい。
1999年、15年前から導入したパソコンネット環境。
しかしここに来て明らかな「袋小路」状態に陥っている。
古い機器やアプリケーションを使い続けることに何の不都合もないのに、機器やソフトを更新しないとそれが維持出来ない仕組み。
これは自分の「生き方」にはまったく適していない。
己が思い込んだものをトコトン使い倒すタイプの人間にとって「デジタル」はその価値観が完全に異なる。
思うに今汎用されている周辺機器が15年前のそれに勝っているとは限らない。
たとえばプリンター。
インクジェットの滲んで濡れる出力。すぐに擦れる。早いインク切れ。原価の1000倍位する「血液より高い」純正補充インク。安く済ませようとすれば手が汚れるインク補充。使えば使うほど金が掛かるシステム。
こんな劣悪なインクジェットプリンターに比べたら、どれだけ熱転写型が良心的でクオリティーが高かったか論ずるまでもない。
なぜに「優れた」熱転写型が滅び、価格システム、品質共に「悪質」なインクジェットが生き残っているのか?
皆目理解に苦しむ。
それはバックアップメディアでも同様で、保存性の高いMOが滅んで、それに劣るCDが主流になるなんてどうかしている。
自分はこれからも熱転写型プリンターが必要だし、MOも使い続けたい。
しかしそれが出来ない。
こんなおかしいことがあるか?
先日、ラジオのニュースでバチカン図書館の貴重な歴史的蔵書をデジタルアーカイブする事業のことを流していた。
日本の電電公社が請け負うとの事らしい。
だが、そんなデジタルデータがいつまで「読み取れる」のか?
デジタルで保存したメディア、ファイル形式。そんなものが「永遠」な訳がない。
むしろ数十年も持ちはしまい。
結局のところ、デジタルは冗長性に著しく欠けるのだ。
数年おきに新しいシステム、メディアに置き換え続けなければ永遠に読めなくなる。
紙に記された書物なら100年放置していても読むことは可能だ。
しかしデジタルデータはそれが出来ない。
写真も然り。
昔、フィルムカメラで「100年プリント」というのがあった。
一方、「劣化がないはず」のデジカメで撮られた数多の「写真」は出力しない限り、数年で「消滅」してしまうのだろう。
MD,DAT、MO等、あれほど「劣化なく半永久的に保存出来る」と謳われたメディアはその保存寿命以前にドライバーが市場から消えて「読めなくなる」。
バチカンのデジタルアーカイブ事業も完遂する前に最初のデータが読めなくなるのがオチだろう。
で、結局オリジナルの紙の書物で読むと・・。
愚の骨頂である。
今後、数多のデータはメディアに依存することなく「クラウド」とか呼ばれるシステムでWebに吸い上げられるという。
しかしそれは同時に、数多の個人情報やデータがネットを牛耳る企業、組織、国家に掌握されるのと同意語だ。
先に述べた写真修正ソフトもネット配信のみで管理されるならば、ユーザーがこのソフトで描く内容すらリアルタイムで監視されることになろう。
ならば、その企業、国家、宗教に反する「作品」は即刻削除させられることも可能だ。
Web「管理者」の承諾なくしては、ソフトを使うこともデーターをダウンロードすることも出来なくなる日が来る。
いつしか市民はたった一つの中央コンピューターで管理監視される。
かつて近未来SFで描かれた「悪夢」の現実化だ。
1990年代、先駆的未来を目指すものは迷いなくネットに足を踏み込んで行ったであろう。
だが、今や状況は変わった。
2014年、むしろ如何にネットから手を引くかが賢き者の選ぶ道ではなかろうか。
電車の中を見渡せば、9割方の人がスマートフォンを駆使し、己の情報をネットに注ぎ込んでいる。
だがこれが如何に危険で愚かなことかと。
それらのデータが果たして何処に流れていくのか、当事者は制御不可能なのだ。
ネットは変質した。
利便性の追求を求めれば求めるほど、己を危険に曝す事になる。
パソコン導入してから15年。
様々な機器、アプリケーションを更新しなければどうにもならなくなってきた。
でも、発想を変え、もう全てのデジタルデーターから「さよなら」してアナログ界に帰っていく選択肢もあるのだ。
Webを支配する「巨大な影」の奴隷となるよりは、安全なのかもしれない。
恐らく「真の賢者」はWebを捨て、アナログに還っていることだろう。
Webはやがて急激な進化の果てに自壊する予感がする。
その前に足を洗う勇気が必要なのかもしれない。